堀江貴文さんの「手取り14万?お前が終わってんだよ」という発言について

本屋に行く、話題書コーナーには堀江貴文さんの顔が全面に押し出された書籍。次の時代はこうなる、こうしたことは無駄だ、こうすれば時代を生き残れる、そうした内容の本がずらりと並ぶ。まるで時代を生き抜く指南書だ。若い人たち堀江貴文さんの言葉を生きる指針としているのだろうか。そういった話は自分の近くでは聞かないが、こうしてたくさんの本が出版されているということは多くの人が堀江貴文さんの言葉を信用、信頼している証拠なのかもしれない。

個人的なことだが私は堀江貴文さんがきらいだ。堀江貴文さんの言葉や思想を信用できない、信頼していないと言った方が正確かもしれない。

あまりの嫌悪感でそのことについて当時文章をおこす気分になれなかった出来事があった。昨年10月ごろガールズちゃんねるで『12年勤務し役職にもついているが手取りはわずか14万円。日本終わってますよね』というトピックが立ちそれがネット記事として取り上げられた。それに対し堀江さんはツイッターで『日本がおわってんじゃなくて「お前」がおわってんだよwww』とコメント。この発言が炎上し、その後自身のYoutubeチャンネルで発言の真意とやらについて「丁寧に」解説していた。

それによると

>>ツイッターは簡潔に書くのが面白いメディア。簡潔に返事を返すことにより注目をさせてちゃんと意図を読み取れる人だけが実際に理解する。

ということらしい。西野亮廣さんや中田敦彦さんもよく同じようなことを言う。「議論のきっかけを作ってやった」「不愉快なことや間違った情報を言ったかもしれないがそこから先を皆に考えてもらうことが目的だった」この手の言い分の傲慢さ、極端に利己的な思考、それらをオブラートに包み正当性を主張しようという欺瞞。こういった手法は卑怯である。社会的な問題に対して人々が議論すること、また個々に思索することはもちろん重要だがその発端が「不愉快な発言」「ある状況におかれている人に対する攻撃的な言葉」である必然性はどこにもない。発端、きっかけをどう作るかはその人のセンスにかかっており結局こういった人たちは「不愉快で攻撃的な言葉」を嗜虐的に選択しているのだ。

また動画の続きでは

>>現代では情報が民主化されている。大抵の人が多くの情報にアクセスできるようになった。情報を得て稼ぎ方を最適化できる時代になっている。たとえばオンラインで無料の教材を閲覧し動画編集のスキルを身に着け、クラウドワークスなどで仕事を請け負う。そうすれば月14万なんてすぐ稼げる。年収を上げられる可能性はいくらでもある。それなのによく分からない会社で搾取され続けているお前が悪い。こういったことを理解せずに僕の発言に対し「お前が終わってる」とか批判してる奴はやっぱり終わってる。

と語る。この話は価値基準を金が儲かるかどうか、その一点のみにおいて語っていて非常に極端かつ視野が狭い。そしてそれを堀江さんはあえてやっている。つまり「金が儲かるかどうか」オンリーの範囲でならば絶対に正当性を主張できる、いわゆる論破できることを計算したうえでYoutubeでの発信を行っている。細部をそぎ落とし、範囲をしぼって発言することで己の優位性を保持している、そのことに気が付かない人や論理的にものごとを考えることが苦手な人は簡単に「堀江さんが正しい」と騙されてしまう。

『12年勤務し役職にもついているが手取り14万円』問題の本質は個人が儲かる儲からない、個人の金を稼ぐ能力の有無、というところにはない。個人の能力がどうであれ、かつて支払われていたはずの生活に困らない程度のお金でさえ払えなくなってしまった社会構造にある。国全体が貧しくなってきてしまっている現状。「社会の変化や時代についていけてないから儲からない」のではない。まったく逆で社会がまさに「金が儲かるかどうか」という方向に最適化、先鋭化してきた結果、個人にお金が回らなくなってしまったのだ。堀江さんが語ったことは原因に目を向けず結果だけを取り出し、その上で貧しくなってしまった個人を責めるというやり口だ。

「金にならないものは悪」「最適化された稼ぎ方に適応できない人は悪」という思想に基づいて突き進んできたからこそ日本では極端に少子化が進み、所得格差は広がり続けた。子どもは金を生み出さないし、大人になるまでに養育費がかかるがだからといって将来的に金をガッツリ稼ぐ大人になるという保証もない。しかしあたりまえだが本来そんな打算などなく子どもたちがたくさんいることが健全な状態だ。子どもは将来性がどうかに関わらずただそこにいるべき存在なのだ。仕事についても同じで「金にならない仕事はやる意味がない」としてしまうとアートや文学、音楽の分野などは「売れるもの、売れたもの」しか残らず裾野が広がらない。たとえば日本の漫画文化のレベルが高いのは裾野がものすごい広さをもっているためだ。同人誌やSNSで稼ぎを度外視にして大量の作品が作り続けられている。そこから質の高いものが生まれる。

科学研究分野で起きている問題は、すぐに役に立ちそうな(=すぐに金になりそうな)研究しか注目されないことが原因だ。2016年にノーベル医学・生理学賞を受賞した大隅良典教授は「役に立つという言葉が社会をダメにしていると思っている。科学で役に立つということが、数年後に企業化できることと同義語のようにあつかわれるのは問題。本当に役に立つとわかるのは10年後かもしれないし100年後かもしれない」と語っている。即物的に役に立つ、すぐ金になることに囚われては未来を見越した仕事はできないということだ。

私の知り合いに保育士の仕事をしている人がいる。20年ほど働いているが給料はいいとは言えないらしい。それについて愚痴をこぼしていたこともあった。だからといってその人は仕事を投げ出すことはしていない。今回のコロナ禍の中でも仕事をもつ親のため、そして子どもたちのために感染リスクと戦いながら仕事を続けている。堀江さんがあえてそぎ落とした細部の話だ。金にならなくても確かに誰かに必要とされ、また本人もそれをやり遂げたいという仕事もある。

堀江さんは「自分こそが時代を先取りした発信をしている」ような態度を取るが、実はまったく旧態依然な発信しかできていない。先の動画での発言は取り様によっては時代をうまく乗り切るコツについて語っているようにも聞こえるが結局「金にならないことをしてるなんてくだらない、最適化して生きろ」というのが主なメッセージだ。それは必ずしも世の中を良い方向へ向かわせるものではない。それをおおいに実現してきた結果が今の社会だからだ。そしてやはり言葉選びが乱暴で粗雑である。誰かを傷つけたり、追い詰める結果を想像していない。あるいはわかっていながら目を向けないようにしている。それでも世間から注目され、堀江さんの言う「生き方の最適化」に繋がれば彼個人はオーケーなのだ。

以上のようなことを考えた上で堀江さんの発言、発信をどうとらえるかは個々の自由だ。少なくとも私は、堀江貴文さんの発信を信用していない。そして誰も他の誰かの人生を「終わっている」などと断言するような権利はもっていない。

新型コロナウイルスと私たちのただしい社会

どこもかしこも新型コロナウイルス。テレビをつけようが、ヤフーを見ようが、ツイッターを開こうが、ブログをあさろうが、たまに散歩や買い物に出ようが、目に飛び込むのは「新型コロナウイルスの影響により…」「新型コロナウイルスの最新情報は…」の文字と声。

2020年4月14日現在、世界の感染者は180万人、死者は11万人を超えた。日本国内でみても感染者は7600人超、死者143人。米国や欧州の一部では日本の比ではない患者数と死者が増え続け、収束の目途はいまだ立っていない。

過去に流行したSARSやMERSより感染拡大のスピードは速く、規模も大きい。それによる社会の混乱。経済の停滞。人間が強固で「ただしい」と思い描き築き上げてきた近代社会とは実は脆弱であったことが、意思も思考もないであろうウイルスによって露にされている。ウイルスとは単細胞ですらなく、細胞から独立した核酸とタンパク質の複合体だという。そういった小さな小さな存在によって私たちの社会は危機にさらされている。

当時の世界人口4分の1にあたる5億人が感染し3000万人以上が死亡した(第一次世界大戦中であったため戦死者との重複など死者数には諸説ある)といわれるスペイン風邪の流行からからおよそ100年。あらゆる技術は飛躍的に進歩したのではなかったのか。コンピュータはより複雑で多様なシミュレーションを短時間で算出可能に。インターネットが情報を世界中に共有し、人々は船舶でまた飛行機で国境を越えて往来できる。世界はグローバルな市場を獲得し、それを前提とした経済のさらなる拡大。これが私たちが信じた進歩、前進であり私たちが望んだ社会構造だった。しかし、今何が起こっているのか。ソーシャルメディアには真偽不明の情報や噂が錯綜し、中には差別的な言葉や攻撃的な扇動さえある。そしてたくさんの人々が国と国とを自由に往来し、今現在もし続けていることで感染は爆発的に広がりつつある。「ただしい」と思って築き上げてきた社会の構造それ自体がまさに自分たちの首を絞める結果となってあらわれている。インターネットやソーシャルメディアは大衆の混乱や不安をかき立てる役割となり、交通網の発達がウイルスが感染拡大するための手助けとなってしまった。まるで新型コロナウイルスが人間社会そのものを否定しているかのようですらある。

2015年、ビル・ゲイツ氏が「TED Conference」(カナダ、バンクーバーで毎年開催されている大規模講演会)において「次の数十年で1000万人以上の人々が亡くなるような災害があるとすれば、戦争よりも感染性のの高いウイルスが原因となる可能性が大いにある」との内容を語った。

https://www.youtube.com/watch?v=6Af6b_wyiwI&feature=emb_logo

2014年から2015年にかけて西アフリカで流行したエボラ出血熱を例に出し、感染が大規模に拡大しなかった理由について語られている。この流行においては、28,512人が感染し、11,313人が死亡したがそのほとんどがシエラレオネリベリアギニアの3か国の住民だった。ゲイツ氏はそれ以上の感染拡大がなかった要因として3つのことをあげている。

1.医療従事者の英雄的努力。エボラ患者を発見し感染拡大を防止したこと。

2.エボラウイルスの性質。エボラは空気感染しない。患者の血液や体液が傷のある皮膚や粘膜に触れることで感染する(接触感染)。また患者自身が感染源となるほど悪化した際には症状が重すぎてベッドから動くことができないこと。

3.感染が都市部に行きつかなったこと。これは単なる幸運。

そして、「次は運にめぐまれないかもしない」「ウイルスの中には感染しても症状がなくそのまま飛行機に乗ったり買い物に行ったりするケースもある」と指摘。これはまさに新型コロナウイルスで起きていることである。さらに新型コロナウイルス接触感染だけでなく密集、密閉、密接の条件下では飛沫感染する可能性が非常に高くエボラよりも感染拡大リスクが大きいことを示している。

ゲイツ氏は私たちの社会が疫病の抑制システムに創出について未だ何も手を打っていないこと、次の疫病の蔓延への準備不足を指摘していた。だが2015年の時点でも優れた対策システムは構築可能であるとも話している。すでに私たちには医療、科学技術があり生物学における発展のおかげで新薬やワクチンの開発を短期間で作ることもできる。あとはこれらを世界規模のヘルスシステムにこれらを組み込むことが必要で、疫病の危機に備えた体制づくりを進めるべきだと。しかし、今回それらの体制やシステムが実現する前に新型コロナウイルスは出現した。

また、ゲイツ氏は細菌やウイルスの拡大シミュレーションをして対策のために欠けている要素をあぶりだすべきであるとも語った。実際に2019年10月18日、ニューヨークにて開催された「Event201」(JOHNS HOPKINS Center for health Security主催、世界経済フォーラム、ビル&メリンダ・ゲイツ財団共催)にて詳細なパンデミックシミュレーションが行われた。「CAPS」という架空の新型コロナウイルスが発生した想定で、世界への拡大や経済への負担、ソーシャルメディアへの影響などを予測している。このシミュレートがほぼ現在の新型コロナウイルスの拡大と損害を言い当てる内容となっている。

架空の新型ウイルス「CAPS」は発生場所こそ南米と想定されているが、「深刻な呼吸器疾患」「抑止できなければ感染者が1か月で16倍に」「風邪程度の症状の感染者もおり、そうした人が無意識にウイルスを拡散してしまう」「外国への渡航者が目的地に到着した後、症状をうったえる」「それらが医療機関の抑止スピードを上回る」など、かなりの部分について新たな感染症の拡大による被害が予測されていたことがうかがえる。さらには新型ウイルスが人々の行動にどのように影響を及ぼすかについては「食料や医薬品が買い占められる」「医療、サービス、旅行、金融、製造が特に大きな経済的打撃を受ける」「政治家たちによるソーシャルメディアでの発信がさらなる混乱を呼ぶ原因となる」「新型ウイルスへの虚偽の情報が医療従事者への被害につながる」「ソーシャルメディアには陰謀論が広まることが懸念される」とあり、これらも現状と一致する。

 「Event201 A GROBAL PANDEMIC EXERCISE」で調べればイベントの詳細が分かるが、このシミュレートをめぐる情報には陰謀論や予言、新型コロナウイルス=人工ウイルスなどの憶測の域を出ない偏向的なフィルターがかかったものが多々でてくるので、他者に影響を受けやすい人や今現在生活に強い不安を抱き心身が疲弊している人はこの事項について調べるべきではない。インターネットでは偏っていたり事実に基づいていない意見でも特定の集団内では事実であるかのように共有される事象、エコーチェンバーが起こりやすいことを常に忘れてはいけない。ネットde真実にならないでね。

そもそも今私たちが直面している問題は新型コロナウイルスが人工的に造られたものかどうかや一般市民があずかり知らない団体や権力者たちによる陰謀であるかどうか、ということではない。いち市民にとってそれらは本質的にはどちらでもよいことだ。例えそれらが真実として暴かれたからといって新型コロナウイルスへの対策を打たなくてもよくなるわけではない。

ビル・ゲイツ氏が「TED Conference」で語った内容、そして「Event201」でのパンデミックシミュレーションの情報から憶測を排し考えるべき問題とは、ここまで詳細かつ正確な予測が立っていたにも関わらず私たちの社会はそれに対抗するための体制やシステムを構築してこなかった、ということだ。技術や医療が進歩したそれなりに強固な「ただしい」世界に私たちは生きているのだと信じていた。ところが目に見えないほど小さなウイルスが人類を分け隔てなく苦しめている今、私たちができる対抗策が「外出を控える、手洗い、うがい、マスクと咳エチケット」、ただそれだけなのだ。なんと脆い世界に私たちはいたのか。

話はゲイツ氏の「TED Conference」に戻るが、この講演において疫病大流行に対しどのようなシステムを構築すべきか具体案を語っている。

・貧しい国々にしっかりとした病院と健康保障システムがあること。母親が安心して出産でき、子どもたちが必要なワクチンをすべて受けられるような環境が整備されること。

・疫病への対策は、戦争に備えることから学ぶことができる。NATOの兵士たちは常に招集に備え待機しつつ、十分なシミュレーションを行い訓練を積んでいる。疫病に対してもいつでも招集に応じられる訓練され専門知識をもつ医療従事者たちの待機部隊が必要。

・医療従事者たちの待機部隊を軍隊と連携させること。軍隊の機動力で物流、物資を確保し感染地の隔離等を素早く実行する。

・ワクチンや診断の分野での研究開発が今以上に必要。

これらのことは今まさに各分野の専門家たちが急ピッチで実行しつつあるだろう。しかし裏を返せばこれだけの具体案があったのに、新型コロナウイルス流行以前にはどの案も実行されていなかったということだ。

私たちの「ただしい」社会は未来に予想される事態への予防策に対しコストを出し渋る傾向にある。予防策とはいつ起こるかわからない事態に対しあらかじめ人員、時間、金をかけ起こった場合のリスクを解消もしくは低減するということだ。すぐに結果が出ない上に、もし何も起こらなければ支払ったコストは全くの無駄になる可能性もある。現代社会は「すぐに結果、利益が出ない」ものに対し非常に冷ややかだ。例えば研究者や科学者がノーベル賞を受賞するほどの研究結果を出したり発見をした際、往々にして「それは何の役に立ちますか?」という質問が投げかけられる。これは単にその質問をした人物が不勉強であったということではない。それが現代社会全体の「ただしい」態度なのだ。たくさんの人員と時間と金をつぎこんだのだから当然すぐに大きな利益を生むはずだ、その成果が100年後に出るなんていうのでは意味がない、何のためにやっているんだ、という固定観念がある。

こうした「すぐに結果、利益が出ないものなど無価値だ」という思想は現代社会のあらゆるところにはびこっている。即物的な思想、第一に物質的豊かさを求める、端的に言えば「モノとカネ」を中心に築き上げてきた社会。それが今日までの私たちの社会における「ただしさ」だった。この「ただしさ」に固執せず、未来の利益(金銭的な意味ではない)を考えることができていれば疫病の流行に対する予防策やシステムの構築を実施できていたのかもしれない。しかし、現実問題として新型コロナウイルスが流行している今それはただの結果論、過去に対する無意味な落胆でしかない。

私たちが直面する問題、新型コロナウイルスが出現したことによってやらなければならないことは無数にある。その一つは私たちが信じてきた「ただしさ」を更新する必要性だ。これまでの価値基準を捨て去ると言い換えてもいい。「モノとカネ」を中心に利益を追い求める社会がこれほど脆弱であったことが露になった。今までの考え方やり方では立ち行かないところまで来ている。ただ、今が時代の大きな転換期だとか、変革期だとか言いたいわけではない。そういった扇動に意味はない。時代は常に変化している、常に小さな転換期の連続であり今回のこともその一つだ。小さな転換と変化、ただこれが非常に難しい。

「モノとカネ」つまりは資本主義の時代が限界を迎えたといっても、私たちは生まれてからずっとこの社会が「ただしい」と教育され信じこみ暮らしてきたわけだ。これ以外の社会のあり様を知らない、いや狩猟採集時代や農耕時代があったことは知識として知っているが。「モノとカネ」の時代の後どのような社会を構築すべきなのか、どのような「ただしさ」を持つべきなのか誰も明確な答えをもっていないし知らないのだ。

だが、ヒントはあるはずだ。これまでの社会に生きてきた先人たち全員が社会の「ただしさ」を妄信していたわけではない。「モノとカネ」以外の価値について教えてくれるものの代表と言えば宗教だ。ほとんどの古い宗教では共通して「カネやモノや権力に執着するな。欲に振り回されるな。他者に優しくし、助け合って生きろ」と繰り返し説いている。これは一つの解答、「ただしさ」だ。だがこれらをどのように実践すればよいのか。現代における宗教はそれこそ金銭的利益や政治にガッツリ利用されているため、特定の宗教に入信すればオーケーとはならない。結局、宗教を含め様々な情報を学ぶこと、そして個人それぞれが自分の頭で考えていくしかない。

その「自分の頭で考える」とはいったい何なのか。私たちの頭の中はすでに現代の即物的「ただしさ」つまり「すぐに結果や利益がでるべきだ」という常識にすっかり侵されていると言える。新型コロナウイルスに関する情報は誰も正解をもっておらず、いつ事態が収束するかもわからない。つまりは結論がどこにあるのか分からず、その間ずっと不利益を被り続けなければならい。その状態に苛立ちと恐怖感があるため、私たちは分かりやすい情報や共感しやすい扇動に躊躇なく飛びつきがちだ。現状のソーシャルメディアでは日々、憶測や正確でない簡略化された情報、新型コロナウイルスをめぐる行動や判断を理由に他者を攻撃するような言葉がすごい勢いで拡散され続けている。現代におけるパニックとは実際の店舗や医療機関に人が殺到し怒号や悲鳴が飛び交うような形式ではなかったのだ。

マスクやトイレットペーパーを買い占めているとき、新型コロナウイルスに関する判断を誤った特定の人物への攻撃的な言葉をソーシャルメディアに書き込むとき、またはそれらを拡散しているとき。私たちの頭の中は苛立ちと恐怖とそしてある種の快楽に満たされている。その快楽とは利己的な正義に基づくものだ。自分だけがよければそれでいいという利己的な思考、これに対し疑いをもつことが「自分の頭で考える」ことへの足掛かりだ。

アメリカの作家デビッド・フォスター・ウォレス氏が2005年オハイオ州ケニオン大学の卒業スピーチで自分の頭で考えるとは「何について考えるか、自分でコントロールできる術を学ぶこと」「考える対象を選択すること」だと語っている。人間は普通にしているとどうしても自分を中心に世界を見てしまい苛立ちと怒りを感じる。いい悪いではなく無意識に、自動的にそうなってしまう。ウォレス氏はスピーチの中でそれが人間の「初期設定」だと言っている。現代社会における自由とはあくまでもこうした個人の頭の中の自由でしかない。社会はそれをよしとしていて、利己的な虚栄心や欲求を糧に富を拡大してきた。しかしそこで一度周囲に注意を払い、意識的にもの見つめ自制心をもつことで得られる自由もあるのだと。誰にも見えないところで毎日自分以外の人々のことを思い、犠牲を払い続ける自由。それこそが「自分の頭で考える」ということであり、小競り合いやモノやカネを持っている持っていないという執着の無限ループの対極に位置する生き方であるとウォレス氏は語っていた。

モノとカネを崇拝し利己的な思考をよしとしてきた「ただしさ」は、自分以外の人々のために何ができるかを思索する利他的な「ただしさ」へとアップデートを迫られている。ただ、利他的な思考というのは実はまったく美しくもなく分かりやすくもなく、(金銭的な)利益も生まない。真に利他的であるとはどういうことなのかを常に問い、結局自分だけの正義のためになってしまうような失敗を繰り返し、それでも辛抱強くじりじりと進むしかない。これが新型コロナウイルスが蔓延する現在、これまでの価値基準が否定されている現状を何とか乗り越えていくために取るべき姿勢なのかもしれない。

むやみに恐怖や怒りをまき散らすことをせず、医療に従事している人たちインフラを整備提供し続けてくれる人たちに感謝し、こういった大変な状況の中仕事や家事と両立しながら子どもを育てている人たちや感染リスクと葛藤しながらも子どもを預かってくれる保育士の人たちに敬意をもち、他人のためにできる小さなことを重ねていく。すでにソーシャルメディアで、新型コロナウイルスの影響でつらい思いをしている人の気持ちが少しでも軽くなるようにと、歌や絵や動画や写真を共有する動きもある。希望はまだあるはずだ。

私たちが、モノやカネを崇拝し利己的な思考に基づく「ただしさ」を乗り越えて、自制心をもちものごとを見つめ利他的な思考に基づく「ただしさ」を獲得できたなら。できることはわずかだが、「外出を控える、手洗い、うがい、マスクと咳エチケット」これを徹底することも十分に利他的な行動だ。新型コロナウイルスによる被害はすでに甚大で世界は多くの悲しみに暮れている。それでも、この事態が収束へと向かったとき今より少しだけマシな世界が、社会がくるかもしれない。実現には私たちひとりひとりの行動と考え方が重要だ。自制心をもって辛抱強くものごとを見つめそして考えていこう、と思う。

 

「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」について

香川県議員の皆様の「時代を担う子どもたちの健やかな成長と県民が健全に暮らせる社会」の実現に寄与するという理念には深く賛同いたします。
その上でゲーム制作に携わるものの一員として意見をお送りさせていただきます。

まず、ネット・ゲーム依存症(ネット・ゲームにのめり込むあまり日常生活に支障をきたす状態)は予防、治療されるべき症状であることに異論はございません。ネット・ゲーム依存症についての研究はIT・ゲーム業界が各機関と積極的に協力し予防法と治療法の確立をめざすのがよいと考えます。
しかし現状、(子供に限らず)人間がネット・ゲーム依存症に陥るメカニズムは「全て解明されている」とは言えません。
当然対策、および治療法についても確実、有効な方策というのは未だ見つかっておりません。

素案では「ネット・ゲーム依存症が原因で起きる問題」に体力や学力低下睡眠障害やひきこもりなどが挙げられていますが、これらの問題が本当にネット・ゲーム依存症によるものだという明確な因果関係は証明されていません。
精神科医斎藤環氏は自身の臨床体験から「ゲームがひきこもりを誘発したケースに遭遇したことはない」と言っており、むしろテレビゲームを親子のコミュニケーションを復活させるツールとしての活用を提言しています。

インターネット依存の研究分野においては、インターネット依存の全ての患者が
別の精神医学的症状(情緒障害、不安障害等)を有していたとの報告があります。
もともと有していた別の精神疾患が原因となりインターネットの利用が過剰になった可能性があり、その場合インターネット依存とは言い切れません。

ゲーム依存症についても同じで何かほかの問題(学校での対人関係や家庭内の問題に起因するような障害)を抱えているがために、結果としてゲームにのめり込んでしまっているケースもあり得ます。
「ネット・ゲームを過剰に利用したから依存症になった」のか
「別の精神疾患があるためネット・ゲームにのめり込んでしまう」のか
因果関係がどちらであるのか今現在においてはっきりとは分かっていません。
それを今回の条例のようにまとめて全てを「ネット・ゲーム依存症」であると一括りにして、その依存症状さえ治療すればよいと決めてしまうと本来の要因や解決すべき問題を解決できない、見逃してしまう危険を有しています。

素案前文にネット・ゲーム依存について
”薬物依存と同様に抜け出すことが困難になる”との記述がありますが、
薬物とネット・ゲームは全く異なるものです。
薬物は人間の脳にどういった物質がどのように脳に作用して依存症になるのか研究され
統計を取ることで解明されていますが、ゲームはどのような仕組みでどのように人間に作用しどういう症状を引き起こすのか解明されていません。
全てのゲームに等しく依存性があるなら全てのゲームは同程度売れてるはずですが、
現実は売れているゲームと売れていないゲームがあります。
”薬物依存と同様に”という表現は誤解を与える表現であると思います。

条例素案の第18条2項には
”子どものネット・ゲーム依存症につながるようなコンピュータゲームの利用に当たっては、
1日当たりの利用時間が60分まで(学校等の休業日にあっては、90分まで)の時間を上限とすること
及びスマートフォン等の使用に当たっては、義務教育修了前の子どもについては午後9時までに、
それ以外の子どもについては午後10時までに使用をやめることを基準とする”
とあり、「コンピュータゲーム」について具体的な時間の規制基準が設定されています。
しかしネット・ゲームの利用においてどのくらいの時間利用すると依存症になるかという閾値は解明されておりません。
データを見ると分かりますが、平日のゲーム使用時間が多いからといって学校への遅刻や欠席が極端に増えたりもしていません。
平日のゲーム使用時間が多い人ほど学業や仕事に悪影響が出たというアンケートデータは出ていますが、  平日1時間未満しかゲームをしていない人でも1.4%は日々の生活の中で一番大切なのはゲームだと回答していることから、どこからを依存症とするかという断定はできません。  
一方「家族との関係の悪化」や「物をこわす行為をした」「家族に暴力をふるった」などの項目について平日のゲーム使用時間との因果関係は見られない、という調査結果が出ています。
(依存症対策全国センターによるゲーム障害についての調査より)

素案第11条に
” インターネットを利用して情報を閲覧(視聴を含む。)に供する事業
又はコンピュータゲームのソフトウエアの開発、製造、提供等の事業を行う者は、
その事業活動を行うに当たっては、県民のネット・ゲーム依存症の予防等に配慮するとともに、
県又は市町が実施する県民のネット・ゲーム依存症対策に協力するものとする。”
”子どもの福祉を阻害するおそれがあるものについて自主的な規制に努めること等により、
県民がネット・ゲーム依存症に陥らないために必要な対策を実施するものとする。”
と事業者の役割が定められています。
素案第18条にあるような「香川県在住の子どもに対してのみ、ゲームを使用できる時間を制限すること」を企業が実施するためには大幅なシステムの改修が必要となり、それにはそれなりのコストつまり費用が必要です。
ゲーム開発は多くの人や企業が時間をかけて制作していますので、複雑な改修は企業にかなり大きな負担がかかります。
対策にかかるコストをどこが担保するのか明示しないまま、「実施」のみを行政が事業者に求めることは非常にアンフェアです。

ゲーム制作側からすれば一番低コストで実施できる対策ははっきりとしています。
香川県ではゲームをできないようにフィルタリングする」「香川県でゲームを売らない」ことですが、それは子どもたちからゲームを遊ぶ自由を奪う行為ですので
ゲーム制作者が絶対に選択したくない方法でもあります。
素案第4条3項に
”子どもをネット・ゲーム依存症に陥らせないために屋外での運動、遊び等の
重要性に対する親子の理解を深め、健康及び体力づくりの推進に努める”
と「屋外での運動、遊び」がネット・ゲーム依存症を防止する正しい方策のように書いてあります。
しかし、どんなに言葉で説き伏せたところで屋外で遊ぶのが好きではない子どもがいます。
運動が苦手だから家でゲームや読書をする方が好きという子供もいます。
だからといってそういう子どもがネット・ゲーム依存症になる可能性が高いとはだれにも言い切れません。

「時代を担う子どもたちの健やかな成長」とは子どもが不必要な制約のない環境で様々な体験をし、自分の好きなことや得意な分野を見つけ、自分の進んでいく方向を自ら選択し、その中で大切な友人や仲間に出会い、人生を豊かにしていくことではないのでしょうか。
「好きなこと」や友達と共有できる「大切なこと」がスポーツである子もいる。
読書である子もいる。料理である子もいる。お笑いである子もいる。
漫画である子もいる。ゲームである子もいる。
どの子が正解でどの子が間違っているということはないはずです。

今回の「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」とは子どもの可能性を摘んでしまう条例であると思います。

ネット・ゲーム依存やゲーム障害という症状は確かに存在していますし、その対策と治療法をインターネット事業に関わる者やゲーム制作者を含め社会全体で考えていかなければならないことは間違いありません。
しかし現在はネット・ゲーム依存やゲーム障害の原因と症状の因果関係やメカニズムについて未解明の部分が非常に多いのも事実です。
(スポーツでもやり過ぎれば取り返しのつかないケガにつながりますし、どんな食べ物も取り過ぎれば体を壊しますが、どちらも条例で基準値を設けたりはしていません)
その状況においてゲームの利用時間までも規定してしまう条例を施行することは時期尚早です。
せめて、利用時間についての条文を除外することを希望します。

条例が施行されたとして何年か後にもし
「ネット・ゲーム依存症とネットやゲームを使用する時間には何の関係もありませんでした」
と証明された場合、誰も責任を取ることはできないでしょう。
意味も根拠もなく、もっとゲームを楽しみたかったはずの子どもたちの中に不満と抑圧だけが残ります。
そういったものが子どもたちに与える影響、ひいては社会全体にあたえる影響を想像すべきかと思います。

インターネットもゲームもツール、道具にすぎません。
どう使うかが問題なのでそれについて個々にまたは家庭ごと、
地域ごとに考えることは必要でその危険性について共有することももちろん重要です。
しかし根拠に乏しい条文で個々人、特に子どもやその親に負担を強いること、またインターネット事業に関わる者やゲーム制作者に規制を強いることには反対いたします。


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参考文献、サイト

小寺敦之氏紀要論文
「インターネット依存」研究の展開とその問題点

斎藤環氏インタビュー
https://www.cesa.or.jp/efforts/interview/researcher/saito01.html
https://www.cesa.or.jp/efforts/interview/researcher/saito02.html

依存症対策全国センター
ネット・ゲーム使用と生活習慣についてのアンケート 調査結果
https://www.ncasa-japan.jp/docs

This is water.

おれの住む札幌市のお隣、江別市に一昨年でかくてシャレオツな蔦屋書店ができてね。そのおかげで家の近所の、いわゆる普通のツタヤが軒並み閉店したんだ、つくづくクソな判断だったと思うね。

本を買おうと思ったとき近くに適当な本屋がないんでちょっと遠いけどそのシャレオツタヤに行くわけだ。スタバが入ってたり、ゆったりコーヒーを飲みながら座って本を読めるスペースがあったり、本のほかにもセンスがいい生活雑貨なんかが売ってたり、輸入食品の店があったり、服も売ってたり、ワンプレートランチやらハンバーガーやらも食べられる。ここにくると自分がシャレオツになった気分になれる。それがどうした、本屋にそんなもん必要ねえんだよ。やたら机と椅子が充実してるからそこで長時間お勉強してる学生さんがたくさんいる。お前ら必要に駆られてそこで勉強してるわけじゃねえだろシャレオツ感に酔うために勉強しにくるな家でやれ。

ともかくおれにとっては居心地が悪いので、目当ての本を買ったらさっさと帰る。帰る前にコーヒーはよく買う。スタバのじゃなく店舗内にある観葉植物の店でついでみたいに売ってるコーヒーだ。それをテイクアウトで買って車で飲みながら帰る。スタバはいつも行列でイライラするから並ぶ気にならない。

そんなシャレオツタヤにこないだ書店員のおすすめとしてデヴィッド・フォスター・ウォレスの「これは水です」が目立つ場所に置かれ紹介されていた。おれはそれを見ていやな気分になった。こんな、人間の分かりやすい見栄と欲求を凝縮した場所に一番似合わない本だろが、と思った。「これは水です」という本はアメリカの作家デヴィッド・フォスター・ウォレスが2005年にケニオン・カレッジの卒業式で語ったスピーチをまとめたものだ。アメリカには有名人を招いて卒業式で面白おかしく、かつ為になる所謂希望に満ちたスピーチをしてもらうのがよくあることらしいのだが、このスピーチが異色なのはこれから社会にでる若者たちが直面するであろう「退屈でつまらない苛立ちに満ちた長い日々」について率直に語っている点だ。そういった日々の中で「考える対象とは何かを選択すること」「自分の頭で考えること」の重要性を説いている。それこそが教育の意味するところであるという話。

冒頭におれが書いたことで言うならシャレオツ感に酔うために勉強しに来てると思ってた学生は実は家では勉強に集中できない境遇にあって(例えば金銭的理由で進学することに猛反対する親がいるので家では勉強できないなど)仕方なくシャレオツタヤで勉強しているのかもしれない。スタバに並んでいる人たちも遠方から来たスタバに行ったことがない友達や兄弟を楽しませるために面倒だと思いつつもわざわざ行列に時間を割いてまで並んでいるのかもしれない、といったことを想像することだ。

人間はデフォルト設定、つまり初期設定のままだとついつい自分を中心に考え苛立ったりする。また現代において初期設定のままの欲望とはたいてい金や権力やモノへの崇拝であり、(むしろ資本主義社会はそれを良しとしているが)そういった欲望には本質的に充足がなく個人を苦しめる原因にしかならない。金や権力やモノを持っている持っていないというレベルで行われる無限ループの小競り合い。そういったものからいかに脱却するのか、その外側を想像するのか。そういうことについて語られてる本が、他の本屋を潰してまでおっ立っている、オシャレに見られたい見栄に捕らわれたような場所にあるのがひどく不釣り合いな感じがした。まあそれすら、デヴィッド・フォスター・ウォレスが言うところの「考える対象とは何かを選択すること」のきっかけと取ることもできる。そう考えると構造が二重三重になってややこしい。

ともかく現代人は「これは水です」というスピーチを何度も読み返すべきだと思うし、その本当に意味するところを感じていかねばならない、はずだ。はずだ、というのは現代社会は「これは水です」が意味するところの本質とかシンジツみたいなものを金にならない無用なものとしていて、むしろこうした考えを突きつめることをよしとしない。資本主義についていけない者の、落伍者の戯言とされるだろう。それを認めてしまうとこれまで大多数の人が価値があると信じてきたものが無価値になっていくからだ。シンジツ、なんぞ放っておいてデフォルト初期設定で欲望のままに見栄を張り、愚鈍な誰かに怒り、権力や金を崇拝してもらわなければならないと、資本主義に生きる人たちは当然そう思っている。それが社会を保っていくための進むべき道だと。いやはや、はたして本当にそうか。もっと細心の注意を払って周りを見てそこにあるものを感じて、自分以外の人のためにできることを考えるべきではないのか。そういう時代にもうさしかかっているのではないのか。

「水」は魚たちにとってあまりに当たり前に存在するモノだ。

人間、つまりここ数十年の時代を生きてきた人間にとっての「金」や「権力」「モノ」「退屈なフツーの日常」のように。しかし敢えてその「水」とは何なのか、本当に必要な「水」とは何なのか。それを問うこと、考えることは困難なことはわかっている。しかし考えなければどうにも立ち行かないところまでおれたちは来たのではないか。

This is water.

This is water.

ところでwaterとは何だい?

デヴィッド・フォスター・ウォレスはこのスピーチの3年後に自死を選んでいる。それは本質やシンジツが希望に似たものではない、快楽ではないことを示している。一方「金」「権力」「モノ」には快楽がある、ときに希望のような顔をする。すべて世はままならない。目が濁り曇っても騙されてキモチイイ方がマシか、シンジツに気付きそれを問い詰めることで苦しむ方がいいかのか。これは水です。これは水です。やあ諸君、今日の水はどうだい?

火宅

2020年になった。今年も前澤友作氏はお年玉企画とやらで、総額10億円をプレゼントするそうだ。氏が自ら「前代未聞の歴史的な社会実験」と銘打って100万円が当選した人の人生にどう影響するかアンケートを取るそうだ。社会学者や経済学者の協力も募るとのこと。先ほど確認したところ413万人もの人が応募している。すごいね。

前澤友作氏のツイッターフォロワー数はいつの間にか有吉弘行氏を抜いて日本人でトップになっている。これが個人的には残念だ。まったく役に立たない情報しか流れてこない有吉氏のアカウントが日本では一番人気、という意味不明の状態のほうが何かが健全だったような気がする。「金という極めてわかりやすい利益」を生むアカウントが一番になってしまったのは何となくつまらない。まあそれはいいが。おれは10億円をプレゼントする「社会実験」とやらよりオバショットの方が面白いと思うだけだ。

ちなみにおれはこの企画に応募していない。端的に前澤友作氏が嫌いだからだ。その辺に落ちてる100万円なら欲しいが不愉快な相手からは別にもらわなくていい。それなら宝くじを買う。システマチックに、無機質にもらえる金ならいいが前澤友作氏のフィルターを通した金はもらうのをためらう。それは何故か。10億を配るのも、バスキアの絵を買うのも、社長を退任するのも、宇宙へ行くのも、芸能人と付き合うのも別れるのも、勝手にやればいいのだが、なぜ前澤氏はいつも自分の「顔」と「キャラクター」を前面に押し出すのだろう。社会実験は社会実験そのもののためにやり結果を得ればいいので誰がやったかはさほど重要でないはずである。それなのに今回の応募のためには「前澤氏のツイッターをフォローする」ことが必須条件になっている。これには違和感がある。以前の記事で落合陽一氏について触れたときも似たことを書いたのだが、もしかして本当のところは「自分を中心とした宗教的共同体=自分を肯定してくれる味方だけで構成された集団」を求めているだけなのにそれを全面に出すと下品に見えるので「社会のため、人の幸福のため」という建前を使っているだけなんじゃないかと。前澤氏にはそういう自意識の匂いがしていて拒絶を感じる。

が、もちろん世間一般の目はそうではないのだろう。前澤氏のお年玉企画のツイートにぶら下がっているリプは、素直に切実に100万円を求める声に溢れている。というか前澤氏は応募はフォロー&リツイートのみで完了で、当選者は恣意的なものでなくランダムに選ぶとYoutubeで宣言しているのになぜリプで「こういうことに使いたいです!」と宣言しているのかそもそも謎だが。

「個展の資金にしたい」「親に恩返しがしたい」「ゲームに課金したい」「病気の治療のために」「奨学金返済のために」「海外旅行のために」

なるほど応募する人の多くが100万円の使い道を現実的な範囲で決めており当選すればきっと「幸福度が上がる」ことは間違いない。ここにこの企画のいやらしさというか、出来レース的な計算がある。つまり当選発表やアンケートなんぞ本質的には必要ではなく、「100万円あれば幸福になれる人を集め実際に100万円を配ることで他者、社会をよりよくした前澤友作氏」像は今の時点ですでに約束されているのである。今から数週間後、数か月後に前澤氏が語ることは決まっている。「ほとんどの当選者の皆さんの幸福度は上がりました。この企画を実行してよかったと思います。この先も社会をよりよくするためにできることを考えていきます」そうして、前澤氏支持者の信頼を確固たるものにしていく。そうして確立した地位を利用して次に何をしたいのか、あまり想像したくない。人心を集めひとつの方向へ導こうというのは大抵ロクな結果を生み出さないからだ。また、前澤氏が繰り返す「社会実験」という側面から見ても今回の企画はそれほど「前代未聞」ではない。ベーシックインカムが受給者の精神的な余裕をもたらし幸福度が上がるという実験結果はすでにフィンランドで出ている。まあ1000人もの人に配れば今回の当選をきっかけにいずれ有名になるほど大成する人もわずかにはいるかもしれない。そうすれば前澤氏にしてみればしめたもので、「あの時の当選のお陰で今の自分がある」とでも語ってくれれば前澤氏の社会的地位はまた強固になっていく。(去年の1億円プレゼント企画に比べ)当選金額を上げずに当選人数だけを増やしたのは、そういう意味の先行投資だという見方もできる。

それにしても、前澤氏の行動そのもの、前澤氏へのリプライを読むにつけ、この社会は世の中はつくづくポジティブな思考を疑いなくキープできる人間たちのためにあるのだと思い知らされる。「100万円当選したところで人生が1ミリも好転しない人」なんて存在していないかのようだ。たとえばおれは重度のうつ病で100万円もらったところで病状は改善しないことはわかりきっている。同じような境遇の人はそれなりにいるだろう。しかし「100万円で多くの人の幸福度があがる」という統計とシナリオの前ではそのようなマイノリティはひとまず「ないこと」とされる…まあそんなことはいいんだ。すべて世の中はこういったものだ。

辻潤の文章に

”真理とか真実というものはあまりに平凡で日常目の前に腐る程ころがっているので、人は最早それには見向きもせず、あり得ないなにか珍らしく新しいものを探しまわっているらしいが、そんなもののないこともあまりに当然で、よしそれが新しく珍らしく僅かの間見えるにしても元々種は同じ外見だけが一寸そんな風に見えるだけなのであるから、すぐと飽きてしまうのはわかりきった話である。わかっていながら、なにかそんな風のものがあるようにしきりと鐘太皷で囃し立てているチンドン屋のような商売に従事している人達は、生きるためには義理にもそれを繰り返さなければならないし、またみんな人間はだれでもそれを一方で喜んでいるのだ”

というのがある。

前澤氏は新しく珍しく見える「イリュウジョン」を提供し、それを必要とする人が集まり熱狂している。ただそれだけのこと。しかし辻潤

”イリュウジョンのまったくなくなってしまった世界は最早人間の生きていられない世の中で恐らく「月世界」の如きものになってしまうのであろう。”

とも書いている。これ見よがしに「イリュウジョン」を振りまく前澤氏が月世界に行こうとしてるというのも何か皮肉のような滑稽な話だ。そんな火宅でやっていくのにいつまで経っても慣れやしない。100万円はいらねえ、何が必要かと言えばもっと強烈に頭を感覚をマヒさせる薬でも草でもください。オアダイ。

さよなら2019年

今年もあと2週間を切った。誰もが言うように年を取るたびに時が過ぎるのが早くなる。そうしていつか終わる日に向かって不可逆的に進んでいる。

2019年、個人的には取り立てて振り返るべき出来事もない。世間一般では元号が変わったことが大きなニュースか、こんにちは令和。元号が変われど、世の中の何かが急によくなったりはしない、もちろん急に悪くなったりもしない。すべて淡々と人間はバカを続けるのは決まっているし、災害も飽きることなくやってくる。いい時代、悪い時代なんてものは本当はないとおれは思っている。どんな時代にもクソな部分とまだいくらかマシな部分が混在していて、その割合が少し違うだけだと。過去にいい時代があったなどというのも失われたもの、もしくは自分がよく知らない過去を美化してるだけだと。

年末、ということでMr.Childrenの「さよなら2001年」という曲をふと思い出した。2002年の元旦にリリースされたシングル「君が好き」のカップリング曲だ。そのタイトルのとおり2001年のことを歌っている。2001年というとアメリカで9.11同時多発テロが起きた年だ。おれ自身もリアルタイムで一連の出来事をテレビなどで見ていた。何度も世界貿易センタービルにハイジャックされた飛行機が突っ込んでいく様子が流された。このテロをきっかけにアメリカは報復としてアフガニスタンを攻撃するに至り、さらには2003年イラクとの戦争に踏み切った。

「さよなら2001年」にこんな歌詞がある。

"毎月決まった日 振り込まれてくるサラリーのように 平和はもう僕らの前に当たり前に存在してくれないけど"

当時まだ若かったおれはこの歌詞に共感したし、同時多発テロからの数年間、目の前で戦争が始まり世の中がどんどんクソになっている、悪くなっているように感じていた。

しかしあとになって知る。アメリカは2001年より以前から中東で戦争、武力衝突を継続しており1991年湾岸戦争におけるイラクでの一般市民の死者数はもちろん、2001年以降のアフガニスタン侵攻、イラク戦争で犠牲となった人数はアメリカ同時多発テロ事件の比ではないこと。さらには同時多発テロで首謀者と名指しされたウサマ・ビン・ラディンについて。アメリカはビン・ラディンがかつてアフガニスタンソ連と戦っていた時期に、ビン・ラディンが設立したMAKという組織に資金援助を行っていたこと。何のことはない、おれが無知だっただけで世界はずっと前からクソだったのだ。アメリ同時多発テロのように「(日本人から見て)割と身近でわかりやすい事件」が起こり、それをテレビやマスコミがことさらに取り上げていたから勘違いしただけだった。この世界のどこかでは常に戦争が紛争が起こり、市民が眠る頭上をミサイルが飛び交い、親を殺された少年が兵士としてまた人を殺し、食べることも安全な水を飲むこともできない子供が死に、戦地に送り込まれた兵士たちは家族のもとに帰ることを夢見ながら死に、帰還した兵士たちは心を病み自ら命を絶ち、それら全てに目をつぶり政治家たちは「正義のための戦い」だと英雄を気取る。それがずっと続いているだけ、今も。


Louis Armstrong - What A Wonderful World (Lyrics)

2001年から18年が経った。最近の日本には「この国はどんどん悪い方へ向かっている」ようなムードが漂っている。しかしだ。本当にそうか?という疑問は常にある。確かに経済は停滞し、大きな災害が頻発している。それは悲しいことに違いない。一方で日本では他殺で死ぬ人はここ10数年でかなり減っている。2001年の他殺による死亡者数は732人、これが2018年では272人にまで減少している。もちろん単純な件数だけでなく、他殺率も減少傾向を続けている。昨今、SNSなどでの炎上だの揚げ足取りだのばかりが注目されて何か人間が凶暴になっているような印象を受けるが(おれ自身もそういう話題をよく取り上げているので言えた義理じゃないが)そうではないのかもしれない。

また違う視点をもってくれば「精神疾患の患者数」は増えている。殺人は減っているので少なくとも日本人が凶暴になっているわけではない。が他者に優しい社会が形成されているわけでもない。なんだかよく分からない。この訳の分からなさが人間の世界なんだろう、たぶん。クソもミソもごちゃついたままやっていくしかない。結局そうなってしまう。だからせめて、かろうじてできることは祈ることだったり願うことしかない。

"僕らの前にもう少しだけ まともな世界が降るように"

少し早いけどさよなら、さよなら2019年。

よりよい明日

今朝のNHKニュースで「就職氷河期世代を正規雇用する動き」について取り上げていた。今の30代半ば~40代半ばくらいの世代は、語学力があったり有名大学を卒業し資格を持っていても新卒採用で就職先が見つからなかった。その後も非正規雇用で不安定な暮らしを強いられている人が多くいる。しかし官民の両面からこの世代を支援し、正規雇用しようという動きが活発になっているとのことだ。政府の指針としては今後3年間で30万人の正規雇用を増やすことを目標としている。兵庫県宝塚市就職氷河期世代を対象に正規雇用募集を行ったところ3人の定員に対し1600人もの応募があったそうだ。想定以上の応募に宝塚市は採用を4人に増やした。採用担当者が「転職が多いことはマイナスではなく、いろいろな職業を経験していることはプラスだ」とか、別の記事では市長が「苦労した経験を生かして市民に寄り添う優しい行政マンになってもらいたい」などと言っていた。そしてニュースの終わりにNHKアナウンサーという安定的な職についた綺麗な顔の女性が「氷河期世代の方たちがこれから安定した職に就き、才能を発揮できることを願います」と結んだ。

始まりから終わりまで、ただただ陰鬱な気分になるニュースだった。世間が、社会が一度はお前なんていらないと突き離した人々に対して、「むしろ即戦力」だの「苦労した分優しくなれる」だのと手のひら返しの綺麗ごとを並べ立てる。3人の定員に対し1600人が殺到するというそもそもの異常事態。そこから「選別」され採用は4人のみ。ほとんどの人の生活は変わらない事実。本人にそのつもりはないだろうが就職氷河期世代の苦労とは無縁のはるか高みからコメントをするアナウンサー。幸せになれる人間とそうではない人間のパキッとしたコントラスト。

何か、何かこのニュースを見たからというだけではなく、この話は象徴的な出来事でしかなく、俺たちが生きているこの社会が、世界が「よりよい明日など存在しない」と投げかけてきているような気分がする。もっと正確に言えばこの世界には「よりよい明日」を得ることができる人間と得ることが全くかなわない人間がいるということだ。それが本質なのだと。

村上龍がかつて小説で「この国には何でもある。だが希望だけがない」と書いた。村上龍の日本嫌いは有名であるし、物言いが極端だと当時も思ったし今も思っている。がそれを差し引いても、今の日本にこれほど当てはまってしまう一言もない。

別に嘆いてるわけではない。ゆっくりとしかし確実に、止めようもない重さをもって壊れていっているのだと感じているだけだ。いやそれは俺の勘違いなのかもしれない。もっと個人的に「よりよい明日」を手にすることだけを考えればいいだけなのだろう。

けれどもその「よりよい明日」を手にする才能が俺にはないのだ。個人としていかに生き残るかを語る人はたくさんいる。「スキルを磨け」「チャンスをものにしろ」「具体的な行動をしろ」。。そのどれもが俺には無理なことばかりだ。それができないからこそ薬と酒に頼り切り日々をやり過ごすだけの存在になった。そもそも「希望」とか「よりよい明日」とかそんなもの本当に必要なんだろうか。それを手にすることができる人、すでにもっている人にとっては重要なのかもしれないが。そんなものなくてもひとまず生きていけることのほうが大事なことのような気がする。ただ呼吸を続けるだけでもいい。世界が、社会が絶え間なくお前なんかいらないと言ってきてもどうにか生きていてほしいと、誰に対してともなくそう願うことがある。同じ苦しみのなかにいるとか安いことは言えない。他人の苦しみは他人だけのもの。そうなのだけど、ただ生きてはいてほしい。誰にともなくそう思う。

「生きていればいいことがある」というのは俺がこの世で一番嫌いな嘘だ。生きていてもほとんどいいことに出会うことなく終わる人生もある。何かいいことがあっても最後にはそれを全部失って最悪な気分のまま死ぬ人もいるだろう。苦痛は別に優しくなるための材料になんかならない。苦痛は苦痛のまま、自分に突き刺さって終わりだ。希望は別にいらない。悟りもいらない。よりよい明日は来ないだろう。ナポリを見る前に死んだっていい。いつでもロープを買うことはできる。踏み台ならばすでに買ってある。いや別にこの国がどうなろうが、俺の知ったことではない。一切皆苦の現世をズタズタのまま歩く。何も望むな。どうせすべて失う。どうせいつか呼吸は止まる。どうせいつか心臓は止まる。