言うべき言葉などない

ブログもツイッターもしばらく更新していなかった。

最近絵も描けなくなってしまっていた。なんだかな。生きるエネルギーがないのかもしれない、かといってソレ死んでやるぞといった意気込みもない。特に落ち込んでいるような自覚もない。

のんべんだらりとした日々。コロナだなんだと一緒に飲むような人にも会えないので家で酒浸りになっているだけ。処方された薬を流し込むだけ。ゆるやかなじさつなのだと自分に酔ったところで、そういった感情は本当にクソなのだ。おれがそんなふうに酒と妄想に耽っているうちに本当に才能のある人がつぎつぎにこの世を去っていく。この世界に生きる人たちに向けて、つよく確かな、ポジティブなメッセージを発信できるの才能に満ちた人たちが夭逝するのを、うすらぼんやりと見ていただけ。悲しみと傲慢で強烈な憎悪を感じる。

なぜ生きる意味も価値もある人たちが先に死に、特に意味のない日々を送る自分は生きながらえる。いや分かっている。その不条理こそがこの世のしくみだということ。意味とかそれ自体が人間の妄想なのだということ。厭離穢土はかなわず。目の前は一切皆苦。意識で感じることはすべて空。いやだとしても。この地平に渦巻くそれを乗り越えていける気がしない。許せるようにおもわない。死んだ人の分までまっとうに生きようだなどといった綺麗ごとを吞み込めやしない。

本質的に意味がないなら、なぜおれたちは意味に固執してしまうのか。無意味が真理でただしいこととしてそれにたどり着いたなら、それは人間のこころをもっていると言えるのか。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦やらをまったく乗り越えた人間を果たして人間的だといえるのか。

胸をかきむしり耐えがたい苦しみに悲鳴をあげ、神や仏に爪がはげるほどしがみついても、神仏は慈しみの表情を浮かべているだけなら。そんなものをおれは救いだと思わない。

醜さも愚かさも、美しさもただしさも渾然一体となって転がり続ける、そういう人間のありようを、もっと根本から本当は肯定したい。どこかで肯定されてほしい。しかしそのすべがまるで分らない。死んだら肯定されるのだろうか。生きているうちに意味や価値にたどり着ける人なんて一握りのうちのさらに一つまみだけだ。そうではない人にだって何か、なんでもいい毛の先ほどでも救いがあれば。

なんにも言うべきことはないのだ。ことばは失うためだけにある。

苦痛に唇がさけるほど叫び助けを求め手をのばしてもどこにも誰にも届かず、ただそのとき愚かな自分の上には抜けるような青い空があり、曇天があり、すべてを濡らす雨があり、雪がある。何もないんだ。言うべき言葉はほんとうになにもない。