This is water.

おれの住む札幌市のお隣、江別市に一昨年でかくてシャレオツな蔦屋書店ができてね。そのおかげで家の近所の、いわゆる普通のツタヤが軒並み閉店したんだ、つくづくクソな判断だったと思うね。

本を買おうと思ったとき近くに適当な本屋がないんでちょっと遠いけどそのシャレオツタヤに行くわけだ。スタバが入ってたり、ゆったりコーヒーを飲みながら座って本を読めるスペースがあったり、本のほかにもセンスがいい生活雑貨なんかが売ってたり、輸入食品の店があったり、服も売ってたり、ワンプレートランチやらハンバーガーやらも食べられる。ここにくると自分がシャレオツになった気分になれる。それがどうした、本屋にそんなもん必要ねえんだよ。やたら机と椅子が充実してるからそこで長時間お勉強してる学生さんがたくさんいる。お前ら必要に駆られてそこで勉強してるわけじゃねえだろシャレオツ感に酔うために勉強しにくるな家でやれ。

ともかくおれにとっては居心地が悪いので、目当ての本を買ったらさっさと帰る。帰る前にコーヒーはよく買う。スタバのじゃなく店舗内にある観葉植物の店でついでみたいに売ってるコーヒーだ。それをテイクアウトで買って車で飲みながら帰る。スタバはいつも行列でイライラするから並ぶ気にならない。

そんなシャレオツタヤにこないだ書店員のおすすめとしてデヴィッド・フォスター・ウォレスの「これは水です」が目立つ場所に置かれ紹介されていた。おれはそれを見ていやな気分になった。こんな、人間の分かりやすい見栄と欲求を凝縮した場所に一番似合わない本だろが、と思った。「これは水です」という本はアメリカの作家デヴィッド・フォスター・ウォレスが2005年にケニオン・カレッジの卒業式で語ったスピーチをまとめたものだ。アメリカには有名人を招いて卒業式で面白おかしく、かつ為になる所謂希望に満ちたスピーチをしてもらうのがよくあることらしいのだが、このスピーチが異色なのはこれから社会にでる若者たちが直面するであろう「退屈でつまらない苛立ちに満ちた長い日々」について率直に語っている点だ。そういった日々の中で「考える対象とは何かを選択すること」「自分の頭で考えること」の重要性を説いている。それこそが教育の意味するところであるという話。

冒頭におれが書いたことで言うならシャレオツ感に酔うために勉強しに来てると思ってた学生は実は家では勉強に集中できない境遇にあって(例えば金銭的理由で進学することに猛反対する親がいるので家では勉強できないなど)仕方なくシャレオツタヤで勉強しているのかもしれない。スタバに並んでいる人たちも遠方から来たスタバに行ったことがない友達や兄弟を楽しませるために面倒だと思いつつもわざわざ行列に時間を割いてまで並んでいるのかもしれない、といったことを想像することだ。

人間はデフォルト設定、つまり初期設定のままだとついつい自分を中心に考え苛立ったりする。また現代において初期設定のままの欲望とはたいてい金や権力やモノへの崇拝であり、(むしろ資本主義社会はそれを良しとしているが)そういった欲望には本質的に充足がなく個人を苦しめる原因にしかならない。金や権力やモノを持っている持っていないというレベルで行われる無限ループの小競り合い。そういったものからいかに脱却するのか、その外側を想像するのか。そういうことについて語られてる本が、他の本屋を潰してまでおっ立っている、オシャレに見られたい見栄に捕らわれたような場所にあるのがひどく不釣り合いな感じがした。まあそれすら、デヴィッド・フォスター・ウォレスが言うところの「考える対象とは何かを選択すること」のきっかけと取ることもできる。そう考えると構造が二重三重になってややこしい。

ともかく現代人は「これは水です」というスピーチを何度も読み返すべきだと思うし、その本当に意味するところを感じていかねばならない、はずだ。はずだ、というのは現代社会は「これは水です」が意味するところの本質とかシンジツみたいなものを金にならない無用なものとしていて、むしろこうした考えを突きつめることをよしとしない。資本主義についていけない者の、落伍者の戯言とされるだろう。それを認めてしまうとこれまで大多数の人が価値があると信じてきたものが無価値になっていくからだ。シンジツ、なんぞ放っておいてデフォルト初期設定で欲望のままに見栄を張り、愚鈍な誰かに怒り、権力や金を崇拝してもらわなければならないと、資本主義に生きる人たちは当然そう思っている。それが社会を保っていくための進むべき道だと。いやはや、はたして本当にそうか。もっと細心の注意を払って周りを見てそこにあるものを感じて、自分以外の人のためにできることを考えるべきではないのか。そういう時代にもうさしかかっているのではないのか。

「水」は魚たちにとってあまりに当たり前に存在するモノだ。

人間、つまりここ数十年の時代を生きてきた人間にとっての「金」や「権力」「モノ」「退屈なフツーの日常」のように。しかし敢えてその「水」とは何なのか、本当に必要な「水」とは何なのか。それを問うこと、考えることは困難なことはわかっている。しかし考えなければどうにも立ち行かないところまでおれたちは来たのではないか。

This is water.

This is water.

ところでwaterとは何だい?

デヴィッド・フォスター・ウォレスはこのスピーチの3年後に自死を選んでいる。それは本質やシンジツが希望に似たものではない、快楽ではないことを示している。一方「金」「権力」「モノ」には快楽がある、ときに希望のような顔をする。すべて世はままならない。目が濁り曇っても騙されてキモチイイ方がマシか、シンジツに気付きそれを問い詰めることで苦しむ方がいいかのか。これは水です。これは水です。やあ諸君、今日の水はどうだい?