お前らはまたそうやって便器を素手で掃除させる

 しばらくブログを放置していた。特に理由なく何となく文章を書く元気がなかったんだ。中年は積極的に何かをする元気なんてないのが普通なのだ。じゃあ世の中とか自分とかになにかしら感じることなく過ごしていたのかというとそうでもない。己から湧き上がるクソを見つめ続け気がくるいそうだし、世の中は絶え間なくお腹いっぱいになるクソを見せつけてくる。

 本質的にはどうでもいいんだけど最近で言えばビッグモーターのニュースはえぐみがすごかった。そしてやべえ組織の常套手段だけど「素手で便器を掃除させる」をしっかり実践してた。これはまあ他の人も何かしら解説してるだろうけどマインドコントロールの基本をしっかり押さえたやり方なんだよな。普通はそりゃ素手で便器掃除したりしない。人間には適切な道具ってものがあってトイレ掃除はブラシとかシートとか使うのが普通だし正しいやり方だ。雑菌やウイルスを爪のあいだに塗り付けるような素手での掃除はやる必要も意味もない。病気になったり手先のちょっとした傷が悪化するリスクがでかい。大抵の人には「素手で便器を掃除する」という選択肢がそもそもない。それがまともな感覚だ。

 しかし、やべえ組織はそれを強いる。良識を外れた行為であるのを承知で「素手で便器を磨け」と命令する。自分の価値観にないことをすると人間はそれまで信じていた価値基準に疑問を抱く、要はそれまでの人生で積み上げてきた価値観を破壊される。そうなると人間は無防備状態になる。「ええ…自分の価値観がぶっ壊れた…何を信じたらいいんや…」となる。簡単に言うと混乱し弱りきった状態になっちゃう。

 マインドコントロールを執行する側はこの状態に付け込む。まともな価値観を失って右往左往してる社員に新たな価値観を植え付ける。「あなたは素晴らしい組織のためにとても有益なことをしました!」「迷えるあなたを正しく導けるのはまさにビッグモーターなのです!」「ビッグモーターの言うことを聞けばあなたは救われます!」とか文言は何でもいいが、はたから見ればアホみたいな理屈も価値観がぶっ壊されてその穴埋めや助けを求めてる心理の人間にはそういった後付けの理屈も「救い」であるかのように感じられる。かっさかさのスポンジに水を与えるような感じで割と簡単にマインドコントロールは完了する。

 いろんな新興宗教だって似たような手口で信者を増やしてきたのだろう。例えばおれの母親はむかし赤ん坊だったおれを連れて近所の雪山でソリ遊びをしてたんだけど、不注意でおれを鉄の柵に激突させてしまった。赤ん坊だったおれは顎の骨を折り大出血、緊急手術からの2か月入院。するとどこからともなく某宗教団体がやってきたそうだ。弱り切った人間に付け込むやり口。おれの母親はその宗教には入らなかったが、そういう方法を心得ている奴らが他人を支配する手口はいつも同じ。

 ビッグモーターの新社長が社員に対して「信頼というものがどれだけ大事か」「誇りをもって取り組んでほしい」とメッセージを送ったそうだ。こりゃもう大抵の人がいやでも気づくほどコッテコテに塗り固められた欺瞞で、上層部から現場への信頼なんぞそもそもないどころか人格を破壊して支配することで成り立ってきた企業だというのにそんなこと言うのがまずがっつりイカれてる。さらには社員個人の誇りや自尊心をズタズタに踏みにじって追い詰めてマインドコントロール下においてきた企業らしい発信で、問題の本質を理解していないしする気もない態度が清々しくすらある。

 それでも哀れなのは家族のため、要は金銭のためにこの企業は終わりだと気づきながらも逃げることをためらう人。もしくは根っこまでマインドコントロールされてなんとかこんな企業のために報いようとする人がいるんだということ、などを思うとほんとうに暗澹たる気分になる。

 人間を人間として扱わない企業がときに膨大な利益を生む。そのこと自体が資本主義のある種敗北だと思うが、金は現代の価値基準において常に最強のカードなのでどうにもならない。人間を食いつぶし暴利をむさぼる企業にも宗教にもうんざりだ。己を失わないことのほうが本質的には大事なんだと常に確認しなければいけない。社会はあらゆる方法あらゆる角度から個人を破壊しようとしてくる。社会的地位とか収入とか肩書きとか所属がどこだとか、怪しげな商売の地域リーダーだとか、フォロワーが何人いるとか、有名人と知り合いだとか、とかくこの世は雑音が多すぎる。自分を自分で支え続けるのが難しい時代だ。いやそれでもひとまず「便器を素手で掃除させる」集団には抵抗し続けるべきだ。他者を支配して食い物にする場所にいる意味なんぞないんだ。

 とはいえビッグモーターに残ることを選んだまともな人もたくさんいるんだろう。家族や自分のためにお金は必要だ。そういったことについて結局まっとうな答えもない、言うべき言葉もない。いつも割食うのはイカれた組織じゃなくごく普通の人々なんだ。それが何よりくそったれな事実だ。おれはそれを呪うのか呪わないでいられるか。

てざわり

何かひとつの 手触りをしったら もうそれでいい

はっきりしたその 輪郭を思い出せるなら

架空のレベルが上がったり下がったり

それに振り回されるのももう

 

犬の寿命なら 猫の祈りなら

穴の開いた持ち物袋

薬の飲みすぎで見る悪夢 止まることを夢見る呼吸

コーキュートス

裏切りをさも 本質だとしたり顔する奴を信じない

 

水中で聞く音の 遠さ 

アルコールの効用 睦み合う あと何日

無理に挟まる 広告を何より憎め

 

何かひとつの 存在をしったら もうそれでいい

曖昧な 粘膜の感触を 覚えたなら

 

1度 2度 3度半

ドローン撮影は思ったより うまくいく

古い 古臭い 弦の音を愛せ

ついていけないので

ステップだけ ステップを見てます

 

飛行機に乗るのも ためらわれる

リネン室にこっそり 仕込んだもの

単調な レベル上げを楽しめば

 

映像化したら それは終わり

届かない手 重すぎた足

2個ならんだ 電球 手荒れ

不幸を願う どうしようもなさ

 

120キロの球速 かけすぎたリバーブ

外してしまった そのUSBコード 笑ったのか

 

手触りを知ったとか 幻想なら いいや

悔やむことも今さら ソフトを ダウンロード

ダウンロード 

残りの容量が 何の意味もなさない せめて

これを捨ててから 捨てたなら

それで 忘れるさ

わすれる

誰かが言ってた。忘れないものなどないのだと。最後の最期には全部忘れて失われてしまうんだと。

そうだもっと忘れてしまおう、君のことなんて。

忘れてしまおう、絵を描くことなんて。

忘れてしまう、楽器の弾き方なんて。

忘れてしまおう、楽しかった記憶なんて。

忘れてしまおう、

忘れてしまおう、自意識の吐露を、その恥を。

 

そして無理やりな大声で誤魔化す。

夏の花火の音がすれば実のところ逃げ場はない。

それに気づかないふりをしよう。

忘れてしまった。忘れてしまいました。

 

忘れてくれ。誰もかも。何も残さずにこの場を去るのだ。

とはいえ、抗いようもないない。

その残響、シルエット。眠りにつく前のこびりつく恐恐とした黒。

人さし指の深めの傷。過ぎてすぎれば。

 

忘れて、忘れられることだけが望みでそれに向けて必死に抵抗している。

あの日がありました。ええ、ありましたっけ?

もう少しさむい海の、波際につかる足を覚えているのが苦しいのですが、

どうしたら忘れられる。消えてくれる。

 

いずれ、それはいずれ。待つことすら忘れましょう。

 

 

重力と重力

あまりにも重すぎる 

これ以上あるくには

 

この体は あまりにも重すぎる

目の前のフェンスをのぼるには

 

この足は あまりにも重すぎる

もう走れやしない

 

この手は あまりにも重すぎる

誰かの手をにぎるには

 

重すぎる体が

深い 柔らかな 真白な雪に沈んでいくことを

のぞむ

 

涙が落ちるより早く

深く つめたく

 

それはもう手に入らないことを知って

それがあることだけを知って

 

打ち上げられたロケットが

地球の重力を断ち切るとき それは幸福なのだろうか

 

時間 と距離と

もうそれはそれは

 

振り返るのは あなただけ

風がそよぐのは 向こうだけ

 

どこへ行く のか 重すぎる

 

地面に張り付く あの音は ほんとうになっていたのかな

あまりにも重すぎる どうじに軽すぎる 記憶と身体

浮かび しずみ 消えるまで

 

言うべき言葉などない

ブログもツイッターもしばらく更新していなかった。

最近絵も描けなくなってしまっていた。なんだかな。生きるエネルギーがないのかもしれない、かといってソレ死んでやるぞといった意気込みもない。特に落ち込んでいるような自覚もない。

のんべんだらりとした日々。コロナだなんだと一緒に飲むような人にも会えないので家で酒浸りになっているだけ。処方された薬を流し込むだけ。ゆるやかなじさつなのだと自分に酔ったところで、そういった感情は本当にクソなのだ。おれがそんなふうに酒と妄想に耽っているうちに本当に才能のある人がつぎつぎにこの世を去っていく。この世界に生きる人たちに向けて、つよく確かな、ポジティブなメッセージを発信できるの才能に満ちた人たちが夭逝するのを、うすらぼんやりと見ていただけ。悲しみと傲慢で強烈な憎悪を感じる。

なぜ生きる意味も価値もある人たちが先に死に、特に意味のない日々を送る自分は生きながらえる。いや分かっている。その不条理こそがこの世のしくみだということ。意味とかそれ自体が人間の妄想なのだということ。厭離穢土はかなわず。目の前は一切皆苦。意識で感じることはすべて空。いやだとしても。この地平に渦巻くそれを乗り越えていける気がしない。許せるようにおもわない。死んだ人の分までまっとうに生きようだなどといった綺麗ごとを吞み込めやしない。

本質的に意味がないなら、なぜおれたちは意味に固執してしまうのか。無意味が真理でただしいこととしてそれにたどり着いたなら、それは人間のこころをもっていると言えるのか。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦やらをまったく乗り越えた人間を果たして人間的だといえるのか。

胸をかきむしり耐えがたい苦しみに悲鳴をあげ、神や仏に爪がはげるほどしがみついても、神仏は慈しみの表情を浮かべているだけなら。そんなものをおれは救いだと思わない。

醜さも愚かさも、美しさもただしさも渾然一体となって転がり続ける、そういう人間のありようを、もっと根本から本当は肯定したい。どこかで肯定されてほしい。しかしそのすべがまるで分らない。死んだら肯定されるのだろうか。生きているうちに意味や価値にたどり着ける人なんて一握りのうちのさらに一つまみだけだ。そうではない人にだって何か、なんでもいい毛の先ほどでも救いがあれば。

なんにも言うべきことはないのだ。ことばは失うためだけにある。

苦痛に唇がさけるほど叫び助けを求め手をのばしてもどこにも誰にも届かず、ただそのとき愚かな自分の上には抜けるような青い空があり、曇天があり、すべてを濡らす雨があり、雪がある。何もないんだ。言うべき言葉はほんとうになにもない。

私はただ旋律のようになりたい

自死、自殺とはなんだろうな。自らを殺すとは。

自殺を悪いことのようにいう風潮とか宗教とかあるみたいだけども、おれはそんなの大嫌いだ。この世界でどうしようもなく追い詰められて苦しみぬいて、逃げ場もない苦痛にさらされ自らをどこかに逃がしてあげたくて死を選択した人間に向けて、さらに追い詰めるようなことをのたまう神仏ならそんなものいらない。おれが死んだらまず「自殺はいけません」なんてたわ言を抜かす神仏を殴り倒す。天国の果てだろうが地獄の果てだろうが追い詰めて殴りにいく。お前ら現世に生きもせず、小さく愚かな人間の苦しみがわかるのかと問い詰めてやる。

魂、みたいなものがあるとしてそれは風船のように軽くてたまたまこの世界に細いひもで括りつけられているだけなのか。あるいは魂はやたらと重いものでどこかに落ちてしまそうなギリギリのバランスで耐えているだけなのか。

どちらにせよ、生きていると余計なことばかりがこの身に降りつもっていくのだけは確かだ。それは人間関係だったり金銭の心配だったり社会的な地位や名誉への固執だったり己の欲だったり後悔だったり、老いて病んでいく体だったり理想と隔てられていく自分の姿だったりイノセントではあり続けられないどうしようもなさ、かといってうまく世を渡る器用さも身に着けられないもどかしさ、そういうものがつもりつもって魂をこの世につなぎとめる紐をいっそ切ってしまおうとかこの世でたまたまバランスを保っているこの身を落ちるところまで落としてしまおうとか考える。

自死とはなんだろう。もしみんなが救われるならそんなものなかった。誰もが望むようにうつくしくあれるならそんな選択肢はなかったのにな。

リリィ・シュシュのすべて』という映画があってその内容がずっとこころに引っかかっている。あれは現代に生きるほとんど誰もがとおる若い日の一時的な青臭い息苦しさを示唆しただけの物語だと思う。たとえば14歳くらいの、とある苦痛の拡大解釈。結局ほどんどの人がそれぞれの人生の中で苦しみからある程度抜けだす道を見出したり、どこかで妥協して成長することでそういった苦しみは過去のものになる。それが大人になるということだし、正しいことだ。

一方でこの映画が示すような苦しみから抜け出せない人もたくさんいるんだとも思う。全員が器用ではないように、誰しもがうまく大人になれるとは限らない。それを愚かだと幼稚だと笑うのが大多数の人だろうけども、おれはそれを笑わない。この世はとある主観によっては希望に満ちた世界だろうが、また別の視点ではあまりに悲しく苦しみに満ちた世界でもある。それは同時に起こっていることでどちらが正解ではない。

誰かが死を甘くやさしい逃げ場所として感じているときどんなに周囲が「自殺はよくない」「残される人のことを考えろ」「いつかきっといいことがある」などとそれらしい文句を言ったところで意味がない。そんな言葉は何の救いにもならない。

リリィ・シュシュのすべて』のエンドロールではいくつもの印象的な言葉がテロップで流れる。

≪全ての終わりが、どれほど素晴らしいことなのか。腐っていく肉、壊れていく僕。≫

≪傷がないのにイタイイタイ。傷があるのにイタクナイ。きれいな綺麗な青い空をミタイナ。≫

≪居場所を探し続けて、人は死んでいくんだわ。≫

≪人間にとって最大の心の傷は、存在。≫

≪ニンゲンハ、トベナイ。≫

≪「私はここにいるの。」そう叫びたくて、これを書いているのかもしれない。≫

それは希望の言葉ではない。希望とはほど遠い。明るくもなくやさしくもない。しかし上辺だけの希望を装った言葉よりはほんのわずかにあたたかいような気がする。どうしようもなく傷つき、寄る辺もなくやっと呼吸しているだけの人間。そういう人間はどうやらあなた一人ではなくおれ一人でもない。それで、それがわかったからといって何か救われるわけでも、何かがうまくいくわけでもない。何も変わりはしない。ほんのわずかなあたたかさ、気を付けて感じてみてやっとわかる程度の温度。自死を考えるとき、そういうものをすこしだけ求めているのかもしれない。自分の、間違ってきた道を選択を傷をそれでもいいと誰かに言ってもらうでもなくただ肯定してほしくて、自分でも肯定したい。

リリィ・シュシュのすべて』の中で登場人物の一人の少女が自ら死を選ぶ。死の直前、彼女は原っぱでカイトを飛ばす青年たちに出会いいっしょにカイトを飛ばす。彼女はとても楽しそうに笑いながらカイトを空に舞い上がらせ、ふとつぶやく「空飛びたい。」そして彼女は鉄塔から飛び降り、死ぬ。

本当は誰もが、うつくしくありたい。純粋でありたい。苦痛なんかとは無縁でありたい。周りを明るく照らすような人間でありたい。でも大抵の人はそのようになれない。

もしこの文章を読んでいる人が自死を考えるほど悩んでいたり自分に失望していたとして、おれにできることは何もないのだけど。似たような苦しみの中にいる人間もいるんだということだけ知っておいてほしい。一人ではないのだということ。それが大した救いになんてならないこともわかっている。

もしあなたが自分にどうしようもなく失望して頭や胸をかきむしり絶叫するようなことがあってもおれはそれでもいいと思う。うまくこの世界を生きていけないとしてもあなたが悪いわけではない。愚かでも不器用でもいい。さいごに自死を選ぶならそれでもいい。あなたにとって世界がどう見えているのか、それは誰にも分らないんだから。ただ似たような苦しみの中にいる人がこの世を去るならそれはやはり寂しく悲しいことだ。

リリィ・シュシュのすべて』のエンドロール、「グライド」という曲。繰り返し歌われるねがい。

「私はただ旋律のようになりたい」

「私はただ空のようになりたい」

「私はただ風のようになりたい」

「私はただ海のようになりたい」

人間はうつくしい何かになれない。ただそこにあるだけでいい存在になれず、価値だの意味だの振り回されつづける。むなしい希望を口ずさむように、諦めに近い気分で歌うように、生きるしかない。おれは結局自ら死を選ぶかもしれないし、だらだらと老いて死を迎えるのかもしれない。それは分からないけど愚かさや悲しみや生きづらさを抱え懸命に生きている人を否定せず、それでもいいんだということだけは言い続けたい。みんなが信じてしまっている嘘のせいでわからなくなっているけれど、ほんとうの本当はあなたはそこにあるだけでいい。いるだけでいい。いてはいけない人なんていないんだ。むなしくても諦めながらでもそう言い続ける。

 

長く

10代のときにはぼんやりと思っていた

この苦しみは

大人になったら終わるんじゃないかと

 

やがて自然に

生きるのが上手くなって

ずるくなって

何もかも曖昧になって

麻痺してしまって

苦しみもどこかにいってしまうんじゃないかと

 

それからいくらか時間が経って

そんなことは都合のいい幻想だと知る

 

悲しさは苦しみは

実のところ真冬の雪みたい

降り積もるばかり

 

年を取った分

鈍くはなった

それなのに

 

苦しみだけ鋭利に

手をのばすことも

足を踏み出すことも

 

光の散るのを見ても

音を聞いても

油断してた方向からも

知りたくもないことも

 

そのコントラストだけ強く

自分は自分を許せずにいる

 

愚かしさも

いとしさも

ただただ息が詰まる

 

あなただけは時が止まって

結局なにもないところに

 

遠くのファンファーレ 

ファンファーレ

 

空をきる

汚れた机

それと何を

 

むやみに長く生きて

それで

何を思うかな

思うかな