新型コロナウイルスと私たちのただしい社会

どこもかしこも新型コロナウイルス。テレビをつけようが、ヤフーを見ようが、ツイッターを開こうが、ブログをあさろうが、たまに散歩や買い物に出ようが、目に飛び込むのは「新型コロナウイルスの影響により…」「新型コロナウイルスの最新情報は…」の文字と声。

2020年4月14日現在、世界の感染者は180万人、死者は11万人を超えた。日本国内でみても感染者は7600人超、死者143人。米国や欧州の一部では日本の比ではない患者数と死者が増え続け、収束の目途はいまだ立っていない。

過去に流行したSARSやMERSより感染拡大のスピードは速く、規模も大きい。それによる社会の混乱。経済の停滞。人間が強固で「ただしい」と思い描き築き上げてきた近代社会とは実は脆弱であったことが、意思も思考もないであろうウイルスによって露にされている。ウイルスとは単細胞ですらなく、細胞から独立した核酸とタンパク質の複合体だという。そういった小さな小さな存在によって私たちの社会は危機にさらされている。

当時の世界人口4分の1にあたる5億人が感染し3000万人以上が死亡した(第一次世界大戦中であったため戦死者との重複など死者数には諸説ある)といわれるスペイン風邪の流行からからおよそ100年。あらゆる技術は飛躍的に進歩したのではなかったのか。コンピュータはより複雑で多様なシミュレーションを短時間で算出可能に。インターネットが情報を世界中に共有し、人々は船舶でまた飛行機で国境を越えて往来できる。世界はグローバルな市場を獲得し、それを前提とした経済のさらなる拡大。これが私たちが信じた進歩、前進であり私たちが望んだ社会構造だった。しかし、今何が起こっているのか。ソーシャルメディアには真偽不明の情報や噂が錯綜し、中には差別的な言葉や攻撃的な扇動さえある。そしてたくさんの人々が国と国とを自由に往来し、今現在もし続けていることで感染は爆発的に広がりつつある。「ただしい」と思って築き上げてきた社会の構造それ自体がまさに自分たちの首を絞める結果となってあらわれている。インターネットやソーシャルメディアは大衆の混乱や不安をかき立てる役割となり、交通網の発達がウイルスが感染拡大するための手助けとなってしまった。まるで新型コロナウイルスが人間社会そのものを否定しているかのようですらある。

2015年、ビル・ゲイツ氏が「TED Conference」(カナダ、バンクーバーで毎年開催されている大規模講演会)において「次の数十年で1000万人以上の人々が亡くなるような災害があるとすれば、戦争よりも感染性のの高いウイルスが原因となる可能性が大いにある」との内容を語った。

https://www.youtube.com/watch?v=6Af6b_wyiwI&feature=emb_logo

2014年から2015年にかけて西アフリカで流行したエボラ出血熱を例に出し、感染が大規模に拡大しなかった理由について語られている。この流行においては、28,512人が感染し、11,313人が死亡したがそのほとんどがシエラレオネリベリアギニアの3か国の住民だった。ゲイツ氏はそれ以上の感染拡大がなかった要因として3つのことをあげている。

1.医療従事者の英雄的努力。エボラ患者を発見し感染拡大を防止したこと。

2.エボラウイルスの性質。エボラは空気感染しない。患者の血液や体液が傷のある皮膚や粘膜に触れることで感染する(接触感染)。また患者自身が感染源となるほど悪化した際には症状が重すぎてベッドから動くことができないこと。

3.感染が都市部に行きつかなったこと。これは単なる幸運。

そして、「次は運にめぐまれないかもしない」「ウイルスの中には感染しても症状がなくそのまま飛行機に乗ったり買い物に行ったりするケースもある」と指摘。これはまさに新型コロナウイルスで起きていることである。さらに新型コロナウイルス接触感染だけでなく密集、密閉、密接の条件下では飛沫感染する可能性が非常に高くエボラよりも感染拡大リスクが大きいことを示している。

ゲイツ氏は私たちの社会が疫病の抑制システムに創出について未だ何も手を打っていないこと、次の疫病の蔓延への準備不足を指摘していた。だが2015年の時点でも優れた対策システムは構築可能であるとも話している。すでに私たちには医療、科学技術があり生物学における発展のおかげで新薬やワクチンの開発を短期間で作ることもできる。あとはこれらを世界規模のヘルスシステムにこれらを組み込むことが必要で、疫病の危機に備えた体制づくりを進めるべきだと。しかし、今回それらの体制やシステムが実現する前に新型コロナウイルスは出現した。

また、ゲイツ氏は細菌やウイルスの拡大シミュレーションをして対策のために欠けている要素をあぶりだすべきであるとも語った。実際に2019年10月18日、ニューヨークにて開催された「Event201」(JOHNS HOPKINS Center for health Security主催、世界経済フォーラム、ビル&メリンダ・ゲイツ財団共催)にて詳細なパンデミックシミュレーションが行われた。「CAPS」という架空の新型コロナウイルスが発生した想定で、世界への拡大や経済への負担、ソーシャルメディアへの影響などを予測している。このシミュレートがほぼ現在の新型コロナウイルスの拡大と損害を言い当てる内容となっている。

架空の新型ウイルス「CAPS」は発生場所こそ南米と想定されているが、「深刻な呼吸器疾患」「抑止できなければ感染者が1か月で16倍に」「風邪程度の症状の感染者もおり、そうした人が無意識にウイルスを拡散してしまう」「外国への渡航者が目的地に到着した後、症状をうったえる」「それらが医療機関の抑止スピードを上回る」など、かなりの部分について新たな感染症の拡大による被害が予測されていたことがうかがえる。さらには新型ウイルスが人々の行動にどのように影響を及ぼすかについては「食料や医薬品が買い占められる」「医療、サービス、旅行、金融、製造が特に大きな経済的打撃を受ける」「政治家たちによるソーシャルメディアでの発信がさらなる混乱を呼ぶ原因となる」「新型ウイルスへの虚偽の情報が医療従事者への被害につながる」「ソーシャルメディアには陰謀論が広まることが懸念される」とあり、これらも現状と一致する。

 「Event201 A GROBAL PANDEMIC EXERCISE」で調べればイベントの詳細が分かるが、このシミュレートをめぐる情報には陰謀論や予言、新型コロナウイルス=人工ウイルスなどの憶測の域を出ない偏向的なフィルターがかかったものが多々でてくるので、他者に影響を受けやすい人や今現在生活に強い不安を抱き心身が疲弊している人はこの事項について調べるべきではない。インターネットでは偏っていたり事実に基づいていない意見でも特定の集団内では事実であるかのように共有される事象、エコーチェンバーが起こりやすいことを常に忘れてはいけない。ネットde真実にならないでね。

そもそも今私たちが直面している問題は新型コロナウイルスが人工的に造られたものかどうかや一般市民があずかり知らない団体や権力者たちによる陰謀であるかどうか、ということではない。いち市民にとってそれらは本質的にはどちらでもよいことだ。例えそれらが真実として暴かれたからといって新型コロナウイルスへの対策を打たなくてもよくなるわけではない。

ビル・ゲイツ氏が「TED Conference」で語った内容、そして「Event201」でのパンデミックシミュレーションの情報から憶測を排し考えるべき問題とは、ここまで詳細かつ正確な予測が立っていたにも関わらず私たちの社会はそれに対抗するための体制やシステムを構築してこなかった、ということだ。技術や医療が進歩したそれなりに強固な「ただしい」世界に私たちは生きているのだと信じていた。ところが目に見えないほど小さなウイルスが人類を分け隔てなく苦しめている今、私たちができる対抗策が「外出を控える、手洗い、うがい、マスクと咳エチケット」、ただそれだけなのだ。なんと脆い世界に私たちはいたのか。

話はゲイツ氏の「TED Conference」に戻るが、この講演において疫病大流行に対しどのようなシステムを構築すべきか具体案を語っている。

・貧しい国々にしっかりとした病院と健康保障システムがあること。母親が安心して出産でき、子どもたちが必要なワクチンをすべて受けられるような環境が整備されること。

・疫病への対策は、戦争に備えることから学ぶことができる。NATOの兵士たちは常に招集に備え待機しつつ、十分なシミュレーションを行い訓練を積んでいる。疫病に対してもいつでも招集に応じられる訓練され専門知識をもつ医療従事者たちの待機部隊が必要。

・医療従事者たちの待機部隊を軍隊と連携させること。軍隊の機動力で物流、物資を確保し感染地の隔離等を素早く実行する。

・ワクチンや診断の分野での研究開発が今以上に必要。

これらのことは今まさに各分野の専門家たちが急ピッチで実行しつつあるだろう。しかし裏を返せばこれだけの具体案があったのに、新型コロナウイルス流行以前にはどの案も実行されていなかったということだ。

私たちの「ただしい」社会は未来に予想される事態への予防策に対しコストを出し渋る傾向にある。予防策とはいつ起こるかわからない事態に対しあらかじめ人員、時間、金をかけ起こった場合のリスクを解消もしくは低減するということだ。すぐに結果が出ない上に、もし何も起こらなければ支払ったコストは全くの無駄になる可能性もある。現代社会は「すぐに結果、利益が出ない」ものに対し非常に冷ややかだ。例えば研究者や科学者がノーベル賞を受賞するほどの研究結果を出したり発見をした際、往々にして「それは何の役に立ちますか?」という質問が投げかけられる。これは単にその質問をした人物が不勉強であったということではない。それが現代社会全体の「ただしい」態度なのだ。たくさんの人員と時間と金をつぎこんだのだから当然すぐに大きな利益を生むはずだ、その成果が100年後に出るなんていうのでは意味がない、何のためにやっているんだ、という固定観念がある。

こうした「すぐに結果、利益が出ないものなど無価値だ」という思想は現代社会のあらゆるところにはびこっている。即物的な思想、第一に物質的豊かさを求める、端的に言えば「モノとカネ」を中心に築き上げてきた社会。それが今日までの私たちの社会における「ただしさ」だった。この「ただしさ」に固執せず、未来の利益(金銭的な意味ではない)を考えることができていれば疫病の流行に対する予防策やシステムの構築を実施できていたのかもしれない。しかし、現実問題として新型コロナウイルスが流行している今それはただの結果論、過去に対する無意味な落胆でしかない。

私たちが直面する問題、新型コロナウイルスが出現したことによってやらなければならないことは無数にある。その一つは私たちが信じてきた「ただしさ」を更新する必要性だ。これまでの価値基準を捨て去ると言い換えてもいい。「モノとカネ」を中心に利益を追い求める社会がこれほど脆弱であったことが露になった。今までの考え方やり方では立ち行かないところまで来ている。ただ、今が時代の大きな転換期だとか、変革期だとか言いたいわけではない。そういった扇動に意味はない。時代は常に変化している、常に小さな転換期の連続であり今回のこともその一つだ。小さな転換と変化、ただこれが非常に難しい。

「モノとカネ」つまりは資本主義の時代が限界を迎えたといっても、私たちは生まれてからずっとこの社会が「ただしい」と教育され信じこみ暮らしてきたわけだ。これ以外の社会のあり様を知らない、いや狩猟採集時代や農耕時代があったことは知識として知っているが。「モノとカネ」の時代の後どのような社会を構築すべきなのか、どのような「ただしさ」を持つべきなのか誰も明確な答えをもっていないし知らないのだ。

だが、ヒントはあるはずだ。これまでの社会に生きてきた先人たち全員が社会の「ただしさ」を妄信していたわけではない。「モノとカネ」以外の価値について教えてくれるものの代表と言えば宗教だ。ほとんどの古い宗教では共通して「カネやモノや権力に執着するな。欲に振り回されるな。他者に優しくし、助け合って生きろ」と繰り返し説いている。これは一つの解答、「ただしさ」だ。だがこれらをどのように実践すればよいのか。現代における宗教はそれこそ金銭的利益や政治にガッツリ利用されているため、特定の宗教に入信すればオーケーとはならない。結局、宗教を含め様々な情報を学ぶこと、そして個人それぞれが自分の頭で考えていくしかない。

その「自分の頭で考える」とはいったい何なのか。私たちの頭の中はすでに現代の即物的「ただしさ」つまり「すぐに結果や利益がでるべきだ」という常識にすっかり侵されていると言える。新型コロナウイルスに関する情報は誰も正解をもっておらず、いつ事態が収束するかもわからない。つまりは結論がどこにあるのか分からず、その間ずっと不利益を被り続けなければならい。その状態に苛立ちと恐怖感があるため、私たちは分かりやすい情報や共感しやすい扇動に躊躇なく飛びつきがちだ。現状のソーシャルメディアでは日々、憶測や正確でない簡略化された情報、新型コロナウイルスをめぐる行動や判断を理由に他者を攻撃するような言葉がすごい勢いで拡散され続けている。現代におけるパニックとは実際の店舗や医療機関に人が殺到し怒号や悲鳴が飛び交うような形式ではなかったのだ。

マスクやトイレットペーパーを買い占めているとき、新型コロナウイルスに関する判断を誤った特定の人物への攻撃的な言葉をソーシャルメディアに書き込むとき、またはそれらを拡散しているとき。私たちの頭の中は苛立ちと恐怖とそしてある種の快楽に満たされている。その快楽とは利己的な正義に基づくものだ。自分だけがよければそれでいいという利己的な思考、これに対し疑いをもつことが「自分の頭で考える」ことへの足掛かりだ。

アメリカの作家デビッド・フォスター・ウォレス氏が2005年オハイオ州ケニオン大学の卒業スピーチで自分の頭で考えるとは「何について考えるか、自分でコントロールできる術を学ぶこと」「考える対象を選択すること」だと語っている。人間は普通にしているとどうしても自分を中心に世界を見てしまい苛立ちと怒りを感じる。いい悪いではなく無意識に、自動的にそうなってしまう。ウォレス氏はスピーチの中でそれが人間の「初期設定」だと言っている。現代社会における自由とはあくまでもこうした個人の頭の中の自由でしかない。社会はそれをよしとしていて、利己的な虚栄心や欲求を糧に富を拡大してきた。しかしそこで一度周囲に注意を払い、意識的にもの見つめ自制心をもつことで得られる自由もあるのだと。誰にも見えないところで毎日自分以外の人々のことを思い、犠牲を払い続ける自由。それこそが「自分の頭で考える」ということであり、小競り合いやモノやカネを持っている持っていないという執着の無限ループの対極に位置する生き方であるとウォレス氏は語っていた。

モノとカネを崇拝し利己的な思考をよしとしてきた「ただしさ」は、自分以外の人々のために何ができるかを思索する利他的な「ただしさ」へとアップデートを迫られている。ただ、利他的な思考というのは実はまったく美しくもなく分かりやすくもなく、(金銭的な)利益も生まない。真に利他的であるとはどういうことなのかを常に問い、結局自分だけの正義のためになってしまうような失敗を繰り返し、それでも辛抱強くじりじりと進むしかない。これが新型コロナウイルスが蔓延する現在、これまでの価値基準が否定されている現状を何とか乗り越えていくために取るべき姿勢なのかもしれない。

むやみに恐怖や怒りをまき散らすことをせず、医療に従事している人たちインフラを整備提供し続けてくれる人たちに感謝し、こういった大変な状況の中仕事や家事と両立しながら子どもを育てている人たちや感染リスクと葛藤しながらも子どもを預かってくれる保育士の人たちに敬意をもち、他人のためにできる小さなことを重ねていく。すでにソーシャルメディアで、新型コロナウイルスの影響でつらい思いをしている人の気持ちが少しでも軽くなるようにと、歌や絵や動画や写真を共有する動きもある。希望はまだあるはずだ。

私たちが、モノやカネを崇拝し利己的な思考に基づく「ただしさ」を乗り越えて、自制心をもちものごとを見つめ利他的な思考に基づく「ただしさ」を獲得できたなら。できることはわずかだが、「外出を控える、手洗い、うがい、マスクと咳エチケット」これを徹底することも十分に利他的な行動だ。新型コロナウイルスによる被害はすでに甚大で世界は多くの悲しみに暮れている。それでも、この事態が収束へと向かったとき今より少しだけマシな世界が、社会がくるかもしれない。実現には私たちひとりひとりの行動と考え方が重要だ。自制心をもって辛抱強くものごとを見つめそして考えていこう、と思う。