酒を飲む暇、落合陽一さんの発言、アート

メディアアーティスト落合陽一さんが酒について

というようなツイートをしていた。

酒、酒なんて確かに飲まないほうがいい。判断力が鈍る。飲み過ぎりゃ肝臓は壊れる。へべれけになって醜態を晒し周囲を不快にする。理性が弱まって暴力的になったりする。うっかり公園で服を脱いで前転をする。酒に溺れるのは多くがおれみたいなダメなおっさんだ。

しかし、酒を飲む人が暇人で本気で生きていないとか死ぬ気で働いてないという見解はいささか疑問だ。落合さんのツイート文がなんか変な日本語なので言いたいことがはっきりとは分からないが。

そもそも論として死ぬ気で働くことが素晴らしいかどうかという問題もある。落合さんは月に28日は20時間労働しているとのことだ。長時間労働が問題視されたり、見直される昨今であるのにずいぶんと前時代的な働き方をしている。まあ落合さんは雇われでなく好きでやっているのだからそれはいい。落合さんはメディアアーティストという職業だ(肩書きはいろいろあるようだが本人の公式HPの一番最初に書いてあるからそれがメインの職なんだろう)。アートには発想力が欠かせない。そこに酒を飲まないからいいアートの発想が生まれるという裏付けはない。また長時間考え込んだからいい発想が生まれるとか、長時間かけて作ったものだからいいアートになるという保証があるわけでもない。落合さん自身それなりの時間アートにたずさわっているのであればそのことは知っているはずだ。落合さんのその他の肩書きについても同じで、研究するにも人に教育するにも本気でやるのはいいがひたすら長時間やって質が落ちるようでは意味がない。

食事にストイックであらねばならない職業もあるだろう。アスリートであれば体調管理が重要で体に入るものに細心の注意を払う必要性がある。だが落合さんの職業にそういった類いのストイックさはかならずしも必要ではない。酒を飲む飲まないのは好きにすればいいことで、「酒を飲む=本気ではない」という主張は理論として成り立たない。むしろ彼のライフスタイルにおいては睡眠不足による判断力の低下が仕事の質を下げる可能性のほうが大きい。冷静に考えればわかることだ。

博士号をとる頭脳をもつ人がそこに気付かないはずはない。落合さんは酒と酒を飲む人を本気で貶すつもりはないのだ。

酒を引き合いに出すことで自分が本気であるストイックである、「俺まじ忙しいわ〜ねてないわ〜」という自己主張をしたかったのだ。落合さんは酒はやめたのだろうが、かわりに自分には相当酔っているようだ。ベロンベロン。お水飲む?

 

情熱大陸で落合さんが特集されたとき、彼がレトルトカレーのパウチにストローをぶっこんでそのまま飲んでいるのを観た。彼によればこれが手と舌で探しだした最適解なのだという。食事、というより補給だ。そこには美味しいものを食べたい、食事を楽しみたいという欲求は皆無だ。そういう人だから酒を嗜む、という発想も自己の中から排除されるのだ。

極端に食への興味が薄い人はアートに向いていない。食もひとつのアートであるからだ。いいアートとは人の感情、こころに何かしら「うったえかける、ひっかかる」ものだ。絵を見たとき、彫刻を見たとき、また映像を見たとき「すごい!と感じる」「やさしい気持ちになる」「また見たくなる」「ずっと見ていたくなる」「悲しさを感じる」など感情を動かされるものはいいアートだ。食における「美味しい!」や「見た目がきれい」というのも感動でありそれを与えてくれるいい食事、料理とはある種のアート性をもっている。逆に目の前にあっても何も思わない感じない無味無臭のアートとは多くの場合独りよがりの自己主張で作られている。それは料理で言えばおいしくもない、盛りつけがうつくしいわけでもない料理のようなものだ。

例えばの話。空腹の人が目の前にいるとき、ある人は美味しいものを食べ感動した経験がありそれを空腹の人にも味わってほしいと思い「よし!じゃあ美味しいものを作ってあげよう!」と料理をふるまう。一方美味しいかどうかはどうでもいい、体が動くための栄養が摂取できればいい落合さんは冷えたレトルトカレーのパウチにストローをぶっ刺し空腹の人に渡す。「これが最適解だよ」と。どちらがよりアートに近いかという話だ。

 

落合さんはツイッターのbioに「多様性社会を目指す」と書いているが、こりゃ何かしら高度な冗談だろう。多様性社会の実現における大前提は「絶対化された一元的な価値基準からの脱却」だ。多角的な視点での評価、相互の相違点を理解しつつ否定しないこと、認めること。基準となる軸はいくつあってもよいこと。ところが今回の落合さんの発言は破綻した理論で酒を飲む人を「暇人」「気に入らねえ」と断じた。おふざけが過ぎる。

落合陽一さんをはじめ、堀江貴文さん、西野亮廣さん、イケダハヤトさん、はあちゅうさんなど「新しい時代の新しい生き方を示す」と息巻いている人たちの発信は何故かどれも似通っている。「自分の生き方や発信こそ正しくそれについて来れないものは無能、バカ」というのが根っこで共通している意識だ。要は自分を基準軸にした絶対評価でものごとを語り、他者を振るいにかけるやり方をする。そうすることで自分の周囲を自分にとって快適なことしか言わない、しない人間で固めて自分の思想をより強化していく。この手の人たちは決して相対化した視点でものを語らない。今回の落合さんの発言もまさにそうで「酒を飲む飲まないは自由だけど、俺は飲まないことにしている。そのほうが仕事に没頭できる、自分のライフスタイルに合っていると考えているからです。」とは言わない。前提もなにもすっ飛ばして唐突に「酒飲んでるやつは暇人。本気で仕事してない」と絶対的視点で断言する。そうすれば落合さんに陶酔している人たちからは「さすが」「ストイック」と褒めそやされる。「死ぬ気で仕事をする人」「仕事に本気ではない暇人」という強制2択でお前はどっちだ?とやるのは下品だよ。落合さん、そりゃどう考えても多様性社会ともアートともほど遠い別のおぞましい何かだよ。

全てを自分の意識だけで語ろうとしても自分の脳みその中にすら無意識はあるんだから。落合さんが名乗っているアーティストというのは、むしろそういう無意識とか余白の部分をどうにか具体的なかたちにしていく作業を絶えずつづける人のことでしょうに。

自分を中心とした宗教的な共同体を求めているのだけなのだとしたらそれを素直に認めて行動すべきで、それを「社会のため」というオブラートでふんわり包む欺瞞はもうやめにしないか。落合さんだけの話じゃなくてね。「俺にとって気持ちよい社会を目指しています!」と言えよ。そのほうがよほど清々しい。「多様性社会を目指す」というお題目をかかげながら真逆のことをする人が多いんだ。酒を飲みながらおれは本気で仕事してるぜ!と豪語する人がいて何がこまるというのだろう。種田山頭火は酒浸りだったけど沢山の句を残してそれは今も人々のこころに影響しているよ。それの何が気に食わないんだろう。

 

もりもりもりあがる雲へあゆむ

 

おれは今日も明日も酒を飲む。おれには酒を飲む暇がある。わ〜い!