『なぜそんなに生きるのが「つらい」のか』の記事を読んでおれは思った「生きるのってやっぱつれぇわ」

日本における10歳~39歳までの死因1位は「自殺」だそうだ。ロシア・韓国とともに「若者の自殺率」が非常に高い国だという。日本が抱えるこの「生きづらさ」についてドイツ在住のライター雨宮 紫苑(しおん)さんが記事を書いていた。

若者の死因1位が「自殺」の日本、なぜそんなに生きるのが「辛い」のか(雨宮 紫苑) | FRaU

それを読んでなんとも言えない違和感に襲われた。おれはそれこそ常日頃「生きづらさ」を感じ自殺を考えない日はないうつ病の人間だ。そんなおれはこの記事を読んで「やっぱり生きるのってロクなもんじゃねえな」と思った。

まず記事の書き出しが

>ここ最近のトレンドなんだろうか。どうにも、「生きづらい」という言葉を見かけることが多い。

だ。生きづらさをいきなり「トレンド」扱いだ。人の生死が関わるシリアスな事柄について書こうというのにえらくふんわりドライな姿勢だ。まあそれは一旦置いておこう。雨宮さんは自身の体験を踏まえ、日本の日本人の「生きづらさ」を分析する。雨宮さんが言うには日本では「こうすべき」という固定観念が強過ぎる、他人にそれを強要するのもよくない。他人と比較する必要はない。「こうしたい」が尊重されるべきだ、ということだ。おおよその部分には賛成だ。ただやはり違和感というか、抜け落ちてる視点があるように思う。

ひとつに多くの人はそもそもチャレンジ精神にあふれているわけではないことだ。雨宮さんが例に出すような「突出した人物」になる必要性を感じておらず普通、平凡でいいのでつつましく暮らしたいと思っている人が実は多いこと。そして、そのつつましい暮らしさえかなわずに心身を壊す若者が多いことがこの国で起きていることなのだ。また、すでに労働でボロボロになっている大人たちや社会問題(上がらない賃金や過重労働、もらえるかどうか怪しい年金など)を見てつつましい暮らしがかなわないであろう未来を感じてしまい絶望する若者が多いことも大きな問題だ。

もうひとつ抜け落ちている視点として

>世の中には、大学を中退して起業した人、20代半ばから大学に入り直した人、40歳で単身海外移住に挑戦した人がいる。

こうした特殊な行動の先に「成功」したのであればいいが「失敗」した場合はどうなるのか。そこには触れていない。雨宮さん自身がおそらく「成功者」側の人間であるので、そこに想像が及ばないのかもしれないし、あえて書かなかったのかもしれない。この国では自己責任論が蔓延し脱落者や失敗した者に厳しい。「失敗した人でもとりあえずは生きていける」という社会的セーフティネットがすくないことも自殺率を高める一因となっている。

昨今「多様な価値を認める」や「好きを仕事にしよう」などという耳障りのいいスローガンが出てきたその反動で「突出した個性はみんなが持っている」「誰しも個性的であらねばならない」という誤解や「好きを見つけること」が義務化してしまったり、「好きをうまく仕事にできないヤツは無能」という発信までが世の中に出てきてしまっている。

本来的には「多様な価値を認める」や「したいことが尊重される」という言葉には「無個性、平凡でもよい」であったり「なにもしたくないことも尊重される」ことも含まれているはずだ。だが現実はそうなっておらず社会的に価値のある多様性やしたいこと(端的にはカネになるかどうか)しか認められていない。雨宮さんのような主張はつまり「金になる何かを成せ」ば生きていけると言っているに過ぎず、実は「生きづらさ」を解消する方法を一つも示してはいないのではないか。締めくくりに雨宮さんは

>テレビで取り上げられるような「オモシロイ人生を送っている人」にあなたがなっちゃえばいい。 

と言ってしまっている。

それだ。それこそが現代における「生きづらさ」の根源だ。

有名YouTuber?スポーツ選手?アイドル?大企業の社長?アーティスト?なんでもいい。とにかく結局「何者かにならなければ生きていけない」という巨大な固定観念と仕組みがありそれが世の中の苦痛の主たる原因なのだ。これは日本だろうがドイツだろうがおそらく関係ない。「何者かにならなければ価値がない」という人間がつくり出しそして信じきっている世の中の大前提、それが何より息苦しい。雨宮さんは

>他人と比較して「つらい」なんてナンセンス

と書いているが自殺を考えるほどの「生きづらさ」を抱えている人の多くはもはや他人との比較につらさを感じてはおらず、自分そのものの「無価値さ」に絶望しているのだ。否応なく叩き付けられる「無価値さ」。少なくともこの国で楽しく生きるにはそれだけでかなりの才能が必要なのだ。己の無価値さをはね除けるだけの才能、もしくは己の無価値さにまったく気付かない才能のどちらかだ。だからこそのこの自殺率の高さなのだろう。

テレビや本、あらゆるメディアがそそのかしてくる。「こうすればプロスポーツ選手になれる」「こうすれば金持ちになれる」「こうすれば有名YouTuberになれる」「こうすれば起業は必ず成功する」そのほとんどすべてが嘘だ。大谷翔平と同じことをしても誰しもが大谷翔平になれるわけがない。HIKAKINと同じことをしている人はそれこそ五万といるがそのほとんどがHIKAKINのような億万長者になんてなれやしない。どこかで気付く、自分が特別な人間ではないことに。テレビに取り上げられる「オモシロイ人生」なんぞ送れないことに。大量に産み落とされた子ガニのほとんどは大人のカニになる前に補食される。それが当たり前。だって全部のカニが無事に育ったら海はカニだらけになっちゃうもんね。自分は補食されるために生まれた側のカニだと自覚する。それでも人生は続く。その上でどうするかって話なんだろうがよ。

自殺率が低い社会を目指すのであれば「何者でなくても生きていける」「何者かになれなくても生きていてオーケー」「突出した才能がなくても大丈夫」という環境、風潮をつくっていくことが必要だ。社会全体の仕組み、システムをそういう方向へ少しずつでも向けていかねば若者の自殺率は減少しない。

すでに打ちひしがれ、心身がボロボロになった人に向けて成功者が「人生楽しんだもの勝ちだよ!」と元気な笑顔でハキハキ言っても何の解決にもならない。それでも個人にできることがあるとすれば、「多様な価値を認める」と言いながら「成功者しか認めない」という態度をやめること。失敗した者を追いつめないこと。また「好きなこと、したいことが尊重される」と言いながら「好きなことがない人を責めない」こと。なんにもしない、非生産的な人がいてもよいのだと寛容になること。

…と、そんな社会が、世界がくると思うか?おれは思わない。だからおれは今日もクスリを貪り食っているし、自殺のことばかり考えている。ただおれはそろそろ若者じゃなくなるから若者の自殺率だけは上げないつもりでいるぜ。よかったね!