Father, you left me but I never left you

父が死んで6年ほど経つ。

物心ついたときに父親はほとんど家に居ることはなく、年に数回顔を見るあまり知らない大人、という程度だった。どういう理由で家に居なかったのかは今でもよく分からない。まあ、いわゆる普通の家庭を維持できる人間でなかったのだろう。

その後それもまたどういう理由かは不明だが私が小学4~6年生のころしばらく家に居た。小学校6年生のときの運動会で初めて父が運動会を観にきた。いわゆる普通の子たちの家庭は毎年両親が運動会にくる。自分の家だけがそうではないことに何となく寂しさを感じていたのだろう。それはうれしかったのを覚えている。

その時期にはいろいろと遊んでくれた。キャッチボールしたり、どこからかバギーを買ってきて一緒に乗ったり、バーベキューをしたり。楽しかった思い出でもあるが、子供心にどこか慣れない大人とぎこちなく遊んでいる感覚もあった。今思えば父も子供とどう接したらいいかわからない戸惑いがあったように思う。

その後私が中学生になるころにはまた年に数回しか家に帰らなくなり、やがて完全に蒸発した。母は「会社で責任ある立場になったから長期出張が多くなった」と言っていた。後に単なる不倫で家に寄り付かなくなったことがわかるのだが、母は母で子どもに何かを教えたり伝えたり、相談したりできない人間だった。深刻なことほど子どもに隠す母だった。私は母の説明に違和感がありつつもそういうものかとあまり深く考えることをやめていた。

私が19歳のとき、それまで音信不通だった父から母に「愛人といっしょになるから離婚してほしい」と連絡が入った。母は鈍感なひとで、いつか父が家庭に戻ってくると信じていたらしくショックを受けていた。私は今まで離婚してなかったのが不思議だったのでまあそうだろうなと思った。その時も父は直接私と姉に連絡することはなかった。状況を案じた父の友人が連絡をくれて私は「父と直接会ってどういう経緯でそうなったのかを聞きたい」と伝えた。父の友人はそのことを伝えておくと言ってくれたが、結局父は姿を現すどころか全く連絡をしてこなかった。逃げたのだ。しばらくして離婚が成立した事実のみ母から伝えられた。

次に父と会ったのは父方の祖父ががんの手術を受けるときだった。私ももう20代後半の社会人になっていた。病院でふいに顔を合わせることになり、互いに気まずいまま2、3言葉を交わしただけで終わった。

数年後父方の祖父が亡くなり、葬式で再び父と会うこととなった。祖父の通夜が終わりその夜に十数年ぶりに父、母、姉、私の4人で食事をした。母は愚直なまでに父を愛しておりこのままこういう関係が戻ってくることを期待しているようだった。だがその頃には父と母の離婚は成立しており、父が愛人と暮らしていることを私も姉も知っていた。その場で父は唐突に「愛人と再婚することになった」と言い出した。こんなタイミングでそのようなことを言い出す父は完全に狂っているのだと実感し言葉を失った。こいつはまったく自分のことしか考えていない。母の気持ちを想像もしないし、自分の子どもについても成り行きでできてしまった腫物ぐらいの感覚なのだろう。さらには慌てて付け加えるように「再婚してもみんな家族だから…」とモゴモゴ言い出す始末だった。自分の家庭や子どもの人生をめちゃくちゃにしておいて何の責任も取らないし、謝りもしないどころか何とか自分を善良な存在だと取り繕おうとしていた。哀れ、という以外の感情がわかなかった。

そして、自分は父にとって本当にどうでもいい、むしろ邪魔な存在なのだということを痛感した。小学生のころから薄々感じてきた自分はいらない存在なのではないか、という疑問に答え合わせがされてしまった。

 

それからまた7、8年父と会うことはなかった。次に連絡がきたのは姉を通してで末期の肺がんで余命いくばくもないとのことだった。その数年前から父との別れは唐突にくるだろうなという予感がずっとあったので、驚きはしなかった。私は一人で面会に行った。まだ雪が残る3月の寒い日だった。病棟の個室には弱り切ってひっきりなしに咳をする父がいた。それでも私の顔を見た父はうれしそうな表情をして咳の合間に一生懸命昔話をした。すまなかったと謝罪の言葉もあった。私はといえば父の言葉にうなづくことしかできなかった。私の人生を台無しにした父には怒りと憎悪さえあったが、弱り切って死を待つばかりの父を前にそういう感情も霧散し、ただただ暗澹たる気分になるだけだった。病院からの帰り道、とてつもない虚無と苦痛をともなう真っ黒な悲しみに襲われた。ぐしゃぐしゃな気分だった。地獄の底、血と泥の混じった腐臭漂うぶよぶよの地面を歩いてるようだった。誰でもいいからすがりついて泣き叫びたかった。

そんな気分も消えぬうち、それから5日後に父はあっさりと死んだ。容体が急変した連絡を受けて病院に急いだが死に目には間に合わなかった。ただもう静かになった父がベッドに横たわっていた。悲しみもあったが、父は逃げ切ったのだとも思った。本当は向き合うべき関係や自分の業から。死んでしまえばもう何も問うことはできない。強制的な終了だ。

と思っていたのだが父の死後にも苦痛はつづいた。父は再婚していたにも関わらず遺言を残していなかった。再婚相手との間に子供はいなかったものの再婚相手、姉、私の間で財産分与について揉める要素ばかりが残っていた。それはうっとおしいことに今もまだ続いている。とかく最期の最後まで子どものことなど考えない父だった。

私はべつに過激な反出生主義ではない。家庭をもち子どもを育てていける人は素直に尊敬するし、子どもたちは幸福であってほしいと願う。ただ私個人としては子どもをつくることはしないと決めている。親の存在によって自分の人生が否定と惨めさで塗りつぶされていく苦しみを知っているからだ。自分がそういう親になってしまう恐れがある。いい家庭というものが実感として分からない。自分は人の親になってはいけないと強く思う。だから私のいのちは次へつながない。

父の呪いと言えばそれまでだが、私自身が私なりに考えて出した結論だ。

ジョン・レノンも歌ってたぜ。

I needed you, you didn’t need me

So I, I just got to tell you
Goodbye, goodbye