旧い

揺られて にじんだ色を見た

濁ったのか混ざったのか そりの下に ろうを塗った

 

眠るまえ となりの部屋の古いラジカセから 

知っている誰かの声を聞いたような気がした

本当はただの 音楽だったのかもしれない

 

奥にある部屋は 冷たくそれは心地よかった

あまりに古いコンピュータが カセットテープを読み込んでいた

今ではもう聞かない たとえようのない 音を出していた

全ての文字は 記号は 緑色に光っていて

 

大きな栗の木があった 

その下には踏むと胞子の煙をまき散らすキノコもあった

簡素なコンクリートの橋も

汚れきった川も 

大きな亀のように見える植え込みも

 

祝福 祝福と

 

2階はさみしい場所だった

机の引き出しにしまわれたゲームウォッチ

大きなポールに泳ぐ鯉のぼり

 

雪の降る夜にひとり

雪が自分のからだに落ちる音を聞いていた

 

幸福と 黒い猫と

 

黄色い車 小さな苺

布団をたたく音がして

ゴミを燃やす煙はおおきく格好よかった

 

航空写真は まだあったか

大きくにじんで 誰もが忘れてしまった?

 

祝福が 祝福を

 

 

支持してくれる人たちを鏡にして自分を見たら終わり、という話

昨年末にフォークデュオゆずのお2人が「今後の活動について重要なお知らせがあります」と予告し結局弾き語りドームツアーの発表だったことで、ファンの間でいたずらに不安を煽るようなことをしないでほしいとこんがりと炎上したようだ。

本人たちからすればユーモアのつもりだったのかもしれない。北川氏は発表の生放送で「ざわざわしただろ〜」としたり顔だったそうだ。

しかしこの手法、ファンではない人間から客観的に見て何にも面白くないしユーモアセンスもない。本人たちやスタッフが少しでも昨今のSNSを取り巻く状況や時代の風潮について考えていれば、ごく普通に発表したほうがよい、ということなどすぐに想像がついたはずだがそれがなかったのだろう。ゆずのお二人はこういった行動が「ユーモアのある面白い行動である」と信じて疑わなかった。

それはおそらく彼らは常に「自分たちを支持してくれる人々」しか見ていなかったためだろう。コンサートを開く、満員の観客から声援が飛ぶ、そこにいる全員が自分たちの味方で間違いない。歌はもちろんのこと、MCひとつでも嬌声を上げ喜んでくれる。どんなにつまらない話をしてもとりあえずファンだから笑ってくれるしいいリアクションをくれる。爆笑、拍手喝采。結果自分たちが面白い、ユーモアに溢れる人間だと思い込んでしまう。

こういったことはゆずのお二人が特別に思慮の浅い人であったというわけではない。人間の習性とは常にそういうもので、己を支持してくれる集団に囲まれると本来の自己像を見失うものなのだ。

 

話は飛ぶが「もののけ姫はこうして生まれた」というドキュメンタリーを観たことがある。ジブリ映画「もののけ姫」がどのような行程を経て完成したのかを追った映像作品だ。宮崎駿氏の着想から絵コンテを生む苦悩、作画での試行錯誤、アフレコにおけるこだわりなどが垣間見える良質なドキュメントだった。その中で宮崎駿監督がふとつぶいやいた言葉があった。「自分を支持してくれる人たちを鏡にして自分を観たら終わりですからね」

もののけ姫以前のスタジオジブリのイメージと言えば「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」に代表される子供たちに安心して見せることのできる映画。情操教育に良いアニメ、のようなイメージがあった。それが世間には安定してウケるのだろうということは宮崎氏本人にも分かっていたはずである。が、もののけ姫で挑んだ世界観はそういったイメージとかけ離れたものであった。主人公アシタカはタタリ神の呪いを受け余命いくばくもない、しかも呪いにより故郷を追い出されてしまう。その呪いを解くための旅の中で製鉄所という人間の生活基盤を築いたタタラ場と敵対するシシガミの森に住むサンにあろうことか恋をしてしまう。無謀にもアシタカは製鉄所の人間の生活とシシガミの森の獣たちに共存の道はないのかと問う。そのような夢物語はシシガミの森に住む大犬モロに一笑にふされてしまうのだが、それでもアシタカは諦めることなく奔走する。最終的にはシシガミの森は人間の介入により滅び人間も獣たちも全く先が見えない状況に追いやられてしまう。しかし最後にアシタカもサンもわずかな希望にかけていくのだ。滅びかけ、しかしまた再生を望むこの森に我々はどう生きていくのか、それを問うラストだった。何か正確な着地点は見えないがそれでも前に進んで行こうとする態度がアシタカとサンの会話だった。

 

もののけ姫はそれまでのジブリ映画に比べると異質な作品だ。わかりやすい希望も前向きな成長も描かれてはいない。ここにやはり「自分を支持してくれる人たちを鏡にして自分を観たら終わりですから」という宮崎駿氏の言葉の真意を思う。

己を支持してくれる、ということはそれだけで常に自分を過大評価してくれる人の目線であるはずだ。何か自分が思いもよらないすごいことを考えている、だとか。人類の行くべき先を見据えているとか。他者は常に自己像を大きく捉えてそこにある種の救いを見いだそうとしている。極端に言えば個々の中で美化された偶像でしかない。

人間とはどこかに私には分からないレベルの高い精神的感応があるとか、生の煩わしさを超えた重要なことを示してくれているとか。憧れの人や作品にそういう幻想をみてしまうものだが、多くの場合そんなものない。

人間全ては生活者で常にその煩わしさと苦悩とに振り回されている。

いかに多くのファンや支持者にもてはやされたところで人間の煩悩のくだらなさの中に生きていくしかないのが我々だということだ。

だから勘違いしてはいけない。

ファンが増えた、支持者が増えた。それがどうした。一個人の価値が上がったわけでは決してないのだ。それは有名人に突きつけられる事柄ではなく、今の時代SNSでたかだか数千数万のフォロワーがいるなか、それを根拠に自分を大層な者だとか思ったらおかしなことになるということだ。インスタグラマーだろうが、ユーチューバーだろうが、同じことだ。

ファンや支持者は己を過大に評価してくれる。お前は多くの他人より優れていると持ち上げてくれる。それを信じるのはとても愚かなことだ。そんな根拠は本当はどこにもない。

ZOZOの社長が反感を買ったのもそういうことだ。一億円宝くじなどと銘打って、金を渡す相手を選別し結局は自分を持ち上げてくれる奴らしか相手にしないと表明してしまった。こんな行為は下品だし、社会の下層を這いつくばる人間の反感も買うだろう。金を儲けたい尊敬をえたいのならこっそりとやればいい。手前の価値基準に賛同してくれる奴らをコツコツ集めればいい。自尊心を満たしてくれるだけの世界ができあがるだろう。

価値基準のものさしを他者に渡すな。それをしてしまっては不幸になるばかりだ。

それで、その程度で幸せなら非常に楽な人生だ。これだけSNSがひろがってしまった世の中だ。それを無視することはできない。

ただそれは自分の実像なんかじゃない。支持してくれる人に感謝はしよう。でもそれはただの過大評価だ。自分は大層な人物だと見失ったほうが気持ちいいことは確かだ。でもやはり己の愚かさを見失うことは恐ろしい。少なくともおれはどこまでも愚かでいい。

もう一度だけ言ってやるおれもお前もどんなにフォロワーがいようが支持者がいようが、たいした人間じゃねえ。自覚しろ。自覚していこうぜ。自己像やてめえの実像はそんなところにない。他者が勝手に美化した自己像に陶酔するな。俺たちはいついかなるときもクソだ。それは変わりないんだぜ。冷静に己の愚かさを見つめろ。自分が他者によい影響を与えるなんざ夢物語だってことくらいわかりやがれ。クソどもが。

情念を

人間にとって情念というものがいちばん厄介で、これはもうどうしようもない。生きている限りわき起こるコントロールのきかない感情の渦。あるいは生そのものの慟哭、叫び、嘆き。すべてに、あらゆるすべてに情念がはり付いて人間はそれに突き動かされ、支配され、ときにはそれこそが正義であるかのように唯一の正解であるかのように振る舞う。

己が他者よりも優れていると証明したい、自らの思考、思想こそが皆を幸福へと導くと信じたい、弱者に手をのばす慈愛に満ちた人間であると思われたい、多くの権力を握り金を掴み周囲を意のままに操りたい。すべては人間の情念でありそれがどこからくるのかは正確には分からない。

渦巻き湧き出る人間の存在証明への欲望。そういった澱としての情念。人を愛するも人を憎むも根は同じであるのが人間の不幸だ。いや幸福か。ただ情念に振り回されているのだ。

我々は否応なく生きている限りこの世界に情念を叩き付ける。その自覚の有る無しに関わらずだ。ある者は芸術にそれを叩き付ける、絵を描く、音楽を奏でる、踊りつづける。ある者は他者を軽蔑し、その根拠を主張することに己の存在価値を見いだそうとする。人種だ、性的差別だ。平等を訴えるよりも先に他者を攻撃することに主体をおく人物は多い。ある者は他者を巻き込みそれを叩き付ける、己を支持する人間を集める、利益を追求する、限られた内輪の中で尊敬を集めることに腐心する。ある者は他者を傷つけることに情念を向ける。それは実は理由のいらないことで、本人の情念がどう昇華するかのみが重要事項であったりする。傷つけられる理由もない他者が犠牲になる。ある者は全ての情念を自己の中にしまい込む。あらゆる情念のやり取りそれ自体を避けることを望む。他者、社会との関係を断ち引きこもる。これもまた傷つきたくない、社会に参加することに意味を見いだせないという情念である。

人間は苦しみから抜け出せない生き物であることは2000年以上前から言われている。今我々がやっているのはただのわかりきった苦しみの連鎖の繰り返しでしかない。

そんなところからも抜け出せていないのが我々でありブッダもキリストも諦めまじりに鼻で笑っていることだろう。

しかしながら2000年の時をかけても克服できないのならそれはもう人間の課題ではなく、ただの性質、習性なのかもしれない。この愚かな情念とともに生きるにはどうすればいいのか。それを考えなければいけないのかもしれない。

常にわき起こる他者を見下す心情、コントロールしきれない他者を貶す情念。

我々はどうするのか。せめて最近理解されてきたのは分かりあえない人間同士どうしたってどう話し合っても相互理解などあり得ないことがわかったというくらいだ。そこに人間的な情念を持ち込めばただの殺し合いになろうが、いい加減少しでも人類は学んだと証明するためには少しでも情念を排して話合うことのできる場とそれを実行できる人が必要なんだろう。人間はとことんまでどうしようもない。本当は必要以上に憎しみ合い殺し合うようにできている。そこに抵抗するにはどうすればいいのか。グローバルである必要もないナショナリズムに染まる必要もない。互いに人間である、生活がある。そのことをひとまず優先するしかないのではないか。情念はさておくしかない。情念は人間の一番率直でありかつ愚かな感覚、感情であるのだから。

国も人種も違う。歴史の解釈も違う。それでも今の時代を殺し合って生きていくわけにはいかないというコントロールが必要なんだろう。

 

…国際的態度はそうでも国内にすら様々な格差や見捨てられた世代や人々による情念が渦巻いている。これをどうするかの答え、もしくは社会制度としての答えは出ていない。楽観視はできない状況で、見捨てられてきた家族や個人がどうなってしまうかは誰にも分からない。人間は、情念をなきものとすることはいついかなるときも本当はできないのだと思う。情念を抱え、せめてただ情念で他者を不幸に陥れようとすることだけは避けなければいけないのだ。

 

 

 

私たちはずっとバカでこれからもバカを続けるのだということ

最近ふと本屋に立ち寄ると目立つところに平積みされている本がある。堀江貴文氏と西野亮廣氏の本「バカとつき合うな」だ。堀江氏と西野氏はこれまでそれぞれに似たような内容の書籍を出しているし、おおよそネットなどのインタビューでも同じ内容を発信し続けている。

 

端的に言えば彼らが言いたいのは「新しい時代が来ているのだからそれについていけないものはバカだ。無能だ。そんな奴らにかまうな。バカは置いて行け。行動しろ。そうでなければ生き残れないぞ」というメッセージだ。

 

各センテンスごとに「〜なバカ」というタイトルを付け続ける徹底ぶり。最終的には「僕らだってバカなんです」という虫酸が走るいやらしいユーモアも忘れない。(自分たちは気鋭の才能だと思っているくせにこういうタイトルをつけやがる)

 

ある時代の思想や凝り固まった機構を旧態依然として無意味でバカなシステムなんだ、と断言してしまう動きというのは今この現代にはじまったわけではない。

 

近いところで言えば戦中戦後がそうだった。戦中の極端な教育を取り出せば米英は鬼畜であり、捕まったら命無し。捕虜になるくらいなら自害せよ。一億玉砕の覚悟と精神で挑めば竹槍で爆撃機も落とせよう。

 

今でこそ大国の圧倒的物量に精神で勝てるわけがないことは明白であるが、おおよその国民を騙してきた大本営発表である。しかしまたある程度のインテリ層では軍部の暴走を理解していたはずである。

 

同時に日本国民に全体に刷り込まれていた最悪の事態として「戦争に負ければ日本という国がなくなる」という強烈なイメージがあった。進駐軍の占領があり、文化ですら蹂躙されるのではないかと。

 

ところがなくならなかった。敗戦後多くの植民地を失ったものの軍部が、国民が極端に怯えた国家崩壊にまではいたらなかったのだ。

 

そういった事態に直面したとき、日本のアカデミズム、インテリ層は色めきだっていたのだと三島由紀夫氏がとあるインタビューで語っていた。「新しい日本がくるのだ。自分たちの時代だ。軍閥は終わり精神的な前進、知的再建がはじまる。それを我々がつくるのだ。」と。

しかし三島氏はそれを懐疑的に捉えていた。

そして戦後20年(そのインタビューは1966年に収録されたものだった)何がおこなわれたかと言えばあくまでも戦争のない平和な時代における工業的発展、つまりは近代化と資本主義の進出でしかなかった。戦後、アカデミズムが「こうなるはずだ」と目論んだ精神的な前進、知的再建などどこにも見当たらなかったと三島氏は断じている。

 

何かしら精神的前進、知的再建のようなものがあったなら今日、日本の状況はこうではなかったかもしれない。「バカにかまうな。無能は生活に困窮して当然だ」というメッセージは理性や知性からほど遠い態度である。人間には生まれながらに能力差があり、また環境や出生によって様々なハンディキャップが生じる。それはもはや大前提であり、平等とはその差異をなきものにしようとするのではなく差異をそのままに互いの存在を認め合えないかと、肯定し合えることはできないものかと思索する道程そのもののことである。

 

しかし、少なくともこの国はその段階にさえ至っていない。「障害のある人を積極的に雇用しよう」などといかにも平等を謳ったスローガンのみをかかげ、実際には障害者の雇用率を誤魔化し「障害者など企業にはいらない」というメッセージをまき散らしている。障害があって働けない人を無理に労働に参加させること自体が個々人の差異を認めることに反していることにすら気付いていないのが現状だ。

 

話を冒頭に戻すと「バカとつき合うな」というタイトルに透けて見える「俺たち(この場合堀江氏と西野氏)が気に食わないヤツはバカだ、そんなヤツらと付き合いたくない」というスタンス。両氏がいかに俺たちこそが時代にフィットした先鋭的な思考の持ち主だと主張したところで、これはまさに精神的前進、知的再建から遠ざかるための思考である。ただただ他者の否定からスタートしてしまっては、ただの繰り返しでしかないのだ。思うに人間は何度も飽きることなく同じ道をゆき同じあやまちを繰り返すのだろうということだ。私たちは愚かでバカである、前進なんぞ実はしないのだ。せめてその自覚を持ってできれば少しだけでもバカにブレーキをかけるべきなのではないかと。そういうことだけを思うのだ。まずはバカだろうがなんだろうが全員つれて先へいってみないと何もわからない。せめてそういうバカを続けるしかない。

 

少なくともそういう試行錯誤が必要なのだと思うが、始めから(個人的な価値観で決めた)バカを切り捨てろ、という態度は試行錯誤さえ拒否した態度である。私が憎んでいるのはその傲慢さであり、堀江氏と西野氏の言うことを実践する意味は見当たらないと思う。時代についていけない他人をバカと断定するなとは言わないが、じゃあその人たちを切り捨てることとは何なのか。何をもって切り捨てたと言えるのか。そんな単純な話ではなくバカかもしれない人も賢者かもしれない人ももないまぜになって私たちは生きて行くしかないのではないか。それが社会なのではないかと。生き残るもクソもなく、選別するされるのではなく、なんとなく人間はどこまでもごちゃついた固まりとしてやっていくしかないはずである。とことん訳の分からぬほうへ行く。行くのだからバカを切り捨てようなんて偉そうなことをのたまうのはやめにしとうこうぜ。誰だって神にも仏にもなれやしないのだ。

 

 

 

だれの手

だれの手もにぎることができない

にぎり返すことができない

 

だれかの手をあたためることなんてできない

 

だれもいない場所にむなしく手をのばし

どれほどの

 

とおく凍えているのでしょう

そうでなければ そうでないことを祈るばかりの

 

切れ間からでもひかりは差すでしょうか

いくつもの

 

きれいな氷を買うべきだった

 

からりからりと鳴っている

うつくしい曲線のガラス瓶

 

指先の感覚もうすれるころに

しかし街は楽し気だった

 

永い距離を隔てて手を伸ばす

猫はなにも言わず遠くへ行ってしまった

 

だれの手をにぎることもない

届くこともない

 

それは悲しみより

ただしずかにたたずむ憎悪でしかなった

 

うすい氷がわれるように

 

ただ1枚の白い紙になにを

 

だれに届くでもない手をもがき

のばす

エンプティ、エンプティ

酒を飲み過ぎて

外に出る 雪が降っている

冷たい空気を吸い込む

アルコールに氷点下のぴんとした匂いが混ざる

 

踏む雪は鳴る

タクシーは行列をなす

曖昧に川を渡る

点滅は遠い

 

張り付いた缶ビールをはがしたところで

 

消火栓を掘り出さなければならない

雪の重さで枝は折れる

 

通気口の寒さ

澄んでしまって見える電飾への恨み

 

一秒たりとも疑うこともせず

 

金も土地もあるのだと言った

むやみに笑うのだ

うやむやに泣くのだ 泣いていない

 

明日がなければこわいこわい

明日があればこわいこわい

 

ガソリンのメーターはどこを指している

 

あなたの気持ちはわかりません

 

あなたの手を

握って

泣くことを

どうか

お許しください

 

今だけの

 

氷が鳴って

おしまいさ

 

歩け どれだけ いや

何もなく 大丈夫なように

たいそうな 看板が建っても

何も言わないから

 

信号を待って

どうにもならない

君が ぼくが

 

まだ手を伸ばす また手を伸ばす

 

生きるに値するナーニカ

この世には

生きるに値する何か、があるよ。

それは自分の将来の夢とか目標だったり、

大好きな誰かだったり、子供のために生きたり、

動物のために生きたり。

 

それは理屈として分かっていても、

生きるに値するもののために

生きることのできない人もまたいるよ。

 

その差はなんなんだろう。

いやそれは

問うことに意味もない、むなしい話だね。

 

有限であることを、

不平等であることを、理不尽であることを

どこかで見ないことにできる人じゃないと

生きるに値する何かに夢中になれない。

そうでしょ?

 

愛する孫や子供を自分の運転する自動車でひき殺してしまう人もいる。

愛する人にいくら思いを伝えてもいっこうに誰からも愛されない人がいる。

いろんな夢や目標があったのに重い病気にかかり諦めざるを得ない人がいる。

大切な誰かが、他人の痛みなんて想像もしない

非道な人間に殺されることもある。

 

そういうことに自分が遭遇しなければ、

とりあえずよいことにする。それが普通ということだ。

 

全てのひとは幸せになれない。

望む望まないに関わらず

この世界の幸せは常に誰かの不幸の上に成り立っている。

わたしではない誰かが不幸になった。それを見て心底安心する。

 

でもそういう理不尽と真正面に向き合ってはいけない。

わたしは幸せでも他の誰かは不幸かもしれないだなんて、

そんな想像力は身を滅ぼすだけなんだ。

自分の家族や、親しい友人が平穏無事ならそれでいい。

遠い国、いや同じ国のどこかで誰かが理不尽に殺されても

それはただニュース映像のむこうのこと。対岸のこと。

 

人間の幸せなんて限定的なんだ。

それが何より正しくて、目の届く範囲がなんとなく幸福であればいいんだ。

全体の幸せなんて願おうものなら、

不幸を招きそうな人を、

端的に言って気に入らないすべての人を

殺して回らなければいなくなる。

カルト的な宗教や政権がやってきたのはそういうことだ。

 

人間は基本的に何かに気付かないほうがいい。

愚かさを露呈するだけなら、アホのほうがいいんだ。

 

しかしこの世界の欺瞞に気付いてしまった人はどうすればいいんだろう。

いやでも、すべは無い。この世は不平等で不条理だって

気付いたからって何もできるわけじゃなく。

気付かなくも阿呆。

気付いても阿呆。

人間とはとことん間が抜けた生き物ですね。

 

だいたいのことには目をつむって、

できれば目をつむった自覚すらなく、

のほほんと生きていきましょう。