戸田真琴さんという人のこと

戸田真琴さん、というセクシー女優がいる。

私は戸田真琴さんのファンだ。

 

この文章書いているヤツの頭完全にやべえなと思われることを承知で書くが

戸田真琴さんのことをわりと本気で

この世界に舞い降りた天使なんじゃないかと思っている。

 

戸田さんのことは

「処女のままAVデビューした子がいるらしい」という

異性愛者の男であれば誰しもチンコを中心に反応してしまう宣伝文句で知っていた。

ただそのときは特段ファンというわけではなかった。

変わった子がいたもんだシコシコ、くらいに思っていた。

 

この子はすごい人なのではと感じたのは、

(多くの人がそうかもしれないが)

戸田さんが書いた映画「シンゴジラ」の感想ブログを読んでからだった。

 

何という文章を書く人だろう。

単純に頭がいいとか、思慮深い人というだけでなく、

うまく言葉にできそうも無い細部の感情まで文章にして叩き付けるような。

すごい文章を書く人だと。

 

私は文章の専門家でもなんでもないので勘違いと言われればそうかもしれない。

小説とか詩の善し悪しなんてわからない。

基本的にチンコを軸に生きているのでエロくてかわいい女の人は全員天使に見えている。

冷静な判断ではない。

しかしどうしようもなく、私個人には響く文章だった。

 

この人は一体どうやって、これまでの人生で何をみて感じて

セクシー女優というという道を選んだんだろう。

そんなことを考えた。

 

そんなとき戸田真琴さんの発言をネットで見かけた。

「できることならファンの人全員と結婚したい」

なんの根拠も無いが私はこの発言は本気なんだろうと思った。

リップサービスとかファンサービスとかそういうレベルでなく、

戸田さんは本気でそう言ったんだと勝手に思った。

 

選択の経緯はわからない。心情を知る由もない。

ただ戸田真琴さんは本気の人だと信じている。

そして途方も無い寛容さを持った人なんだと感じている。

 

そうじゃなきゃ、そうでなかったなら

あんな文章は書けない。

戸田真琴さんの文章にはいつも

読んでいる見ている人への思いやりと優しさがあり、

自分の感情への素直さがあり、

全部ひっくるめて受け止めるくらいの強さがある。

 

私は戸田真琴さんの文章を読むと泣いてしまう。

戸田さんの文章にはいくつかよく出てくる言葉がある。

(いやこれは私個人が気にしているから頻出なような気がしてるだけかもしれない。

実際はそんなに使ってないのかも。)

 

「ひとり」、「おわり」、

そして「あなた」という言葉。

 

以下は私の勝手な解釈ですが、

誰かを、何かを大切にしたり愛することは本当は孤独なこと。

いつか終わりがくる有限な世界に全員が生きていること。

その悲しみと虚しさを知りながら

戸田真琴さんという人は

それでもあなたという一人ひとりの幸運としあわせを祈っている、

願ってくれているのだと思います。

その意味でセクシー女優として

モテない、暗い部屋で一人チンコをしごくしかやることがないような悲しい男たちにも、

これまで周囲に自分の存在を否定されてきた人間にも、

わずかな、しかし確かな光をくれる人なんだと思います。

 

社会的な地位や名誉を取り払って、そもそもの存在を肯定している。

それをサービスとしてやるのでなく本気で己の存在を賭して発信している。

それが戸田真琴さんという人だと思います。

 

それでも、戸田さん本人がどこまでも強い人なのかというとそうではなく。

戸田さん個人が抱える苦しみもあるのだと思います。

それでさえ、ツイッターやブログにその思いを吐露しないようにしているようで、

唯一インスタのストーリー(一定の時間しか表示されないもの)にのみ

個人的なつらい感情を書き込むようにしていて。

他の媒体だと文章が残るので議論を呼ばないようあえてそうしているみたいです。

どこまでも周囲への影響を考えられる人。

 

どういう環境にあっても自分がここまで利他的になれるかどうか。

他者のために自分を使い尽くす覚悟があるかどうか。

どれだけの人の心に寄り添うことができるのか。できているのか。

それに本気で懸けることができるのか。

そのことを思うたび、戸田真琴さんはほんとうにすごい人だと思う他ないわけです。

 

私は戸田真琴さんのファンです。

そして戸田真琴さんの幸福を、圧倒的に幸福になってくれることを願わずにはいられないです。 

 

送電線あるいは橋梁

最近どうしようもなく鬱が進行し

起きている間はほぼ自死について考える。

 

病院で処方された不安な気持ちを解消するらしい薬はほとんど効かない。

 

犬を飼っているので、一日に最低一度は散歩に出る。

そうして思うのは、

あの送電線の鉄塔に縄をかけるのはどうだろう

あの橋のたもとの出っ張りに縄をかけるのはどうだろう

ということばかりだ。

 

首を吊る縄を、どこにかけようか。

あまり人に見つからずに確実な高さがある

首を吊れる場所を探している。

 

自死ならば、なんとなく首つりかなと思っている。

電車に飛び込むのも、高所から飛び降りるのも

かなりの勇気が必要そうだ。

腰抜けの私にはたぶん首つりがいいと思う。

 

首をつると糞尿を垂れ流すらしいと何かで読んだ。

おむつをして実行すべきだ。

夜よりは晴れた昼間がいい。

 

よく晴れた気分のいい日だということが情報としてわかっても

それを気分のいい日だと感じる感性がしんでしまった。

それがとても悲しくて虚しい。

すべての日々は黒く塗りつぶされた連続でしかない。

 

スワロウテイルという映画で

雨の日には死んだ人の魂が雲や雨にぶつかって戻ってきてしまう

晴れた日なら天国まで昇っていけるみたいなセリフがあって

私はなんとなくそれを信じている。

 

せめて最期は今日はよく晴れている

遠くまで行ってみようという気分で死にたい。

 

 

二階堂奥歯さんのことを考える。

私はあの人のように真摯で美しい人間ではない。

けれど。

 

生きているふりを続けることがどれほど苦しいのか。

この世界では無言のうちに生きていることが定義されていて

そこに分類されなければ

属することができなければ

生きていけないんだろう。

 

狂うこともできない。

全てを失うこともできない。

それがただ悲しい。

 

明日と今とどちらが悲しく苦しいのか。

慰めは、いったいどれくらいこの世界での鎖としての効力をもつのか。

そう言いながらも、私はまだここに居ます。

 

 

 

ほこり

いきて いると ほこりが ふりつもる

のぞむ のぞまないに かかわらず

 

いきて いると ほこりがふりつもる

そこ ここに

ふと ぼくは そのほこりを ふきとり おもう

 

こんな ほこりが ふりつもる ことが

なくなればいい

ほこりを ふきとるような ことが なくなればいいと

 

ぼくが しんだら ほこりは 

もう ふりつもらない 

ああ なんて よいことだろう

 

おおきな ほこりも

ちいさな ほこりも

このへやを よごすばかりだ

 

ほこりが ふりつもらない せかいで

あるいは

ほこりを ふきとる ひつようのない せかいで

かぜ だけが ふけばいい

 

とおく まで 

ずっと とおく まで かぜが ふけばいい

 

いきて いると ほこりが ふりつもる

それを その ふりつもる じかんを 

ぼくは ながめている

美しい時間

おれの人生はそのほとんどが惨めなだけの時間だった。

これからなにか素晴らしい時間があったとしても

それは長い人生の中の慰みでしかない。

 

惨めな時間が報われるようなことはない。

 

それに対して不平を言う気分ではない、

いや生きていくことはそういう程度のものだろう。

 

ある人は生きるに値する幸せをすんなりと見いだす。

そうではない人はせいぜい出会ったいくつかの幸福を

何度も味のしないガムのように歯牙んで生きていくだけなんだろう。

 

歯牙んで、とシガーって似てるね。

 

おれが19歳のころ、生きていてもいいのかもしれないと

思えるような時間が少しだけあった。

 

今はそんな気分はないけど、

あのとき幻想だとしても感じた美しい時間を

反芻してなんとか生きている。

歯牙んで生きてる。

それは虚しいこと。

悲しいこと。

 

ああ、どうしようもないね。

 

残りカスのような、

シケモクのような人生。

それであとどれくらいいけるかな。

 

そんな遠くまではいけないな。

美しい時間がみんなにおとずれますように。

 

長く長く生きるに値する日々をみんなが見つけますように。

出会いますように。

 

アナウンサーは人の命の価値を他人が決めてはならない、と言った。

2018年7月26日、相模原市知的障害者施設『津久井やまゆり園』で

入所者ら46人が殺傷された事件から2年。

NHKおはよう日本「けさのクローズアップ」で特集が組まれていた。

障害者殺傷事件 被害者と家族の2年|けさのクローズアップ|NHKニュース おはよう日本

内容は被害者家族にとってこの2年間を追ったものだった。

 

ニュースの終わりにアナウンサーは

「少しずつ前へ進む尾野さんご一家の姿を見て感じるのは、

やはり、人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがないということです。

同時にこの事件をしっかり受け止めているのか、

目をそむけてはいないか、そう問われているような気もしました。」

 

人の命の価値を他人が決めてはならない

あっていいはずがない、というたしかに正しい言葉。

しかしなぜか空虚な言葉。

 

ひょっとしたら言ったアナウンサー本人も

何かむなしさを感じているのではないかと疑ってしまうほど、

それほどむなしい響きだった。

 

「ヒトノ イノチノ カチヲ タニンガ キメテハナラナイ」と

発した声がその意味をもつ前に消えてしまうような感じがした。

 

これは一体なんなのか。

 

端的に言ってしまえば、私たちを取り巻く社会が

「人の命の価値を他人が決めてはならない」という理想を

まるで実践できていないからだ。

 

それどころか

 「人の命の価値を他人が決めてはならない」というビジョンを

否定する具体的なメッセージや空気ばかりが社会には溢れている。

 

生活保護受給者に対する過剰なバッシング。

企業経営者による「能力の低い者の貧困は自己責任である」などの発言。

LGBTは生産性がない」などと発信する国会議員。

特に最近発覚した、障害者雇用の水増しについては

社会の「本音」があまりにくっきりと出ていた。

 

「社会的強者、または多数派や安全圏に属している者は

社会的弱者やマイノリティの価値を一方的に決めつけ、

無価値と判断した場合徹底して差別し、それを実行する」

「病人や障害者なんぞ役に立たないのだから、雇用するなんて到底ムリ」

いくら取り繕おうとしたところで、

社会が発する本音のメッセージはこのようなものだったのだ。

 

こうした社会に溢れる出来事と

やまゆり園で殺傷事件を起こした植松の思想は

根底ではつながっている。

 

植松は

知的障害者はいなくなるべきだ」

「人ではないから殺人ではない」

というような主張をし、

殺傷事件という極端な事件を起こしたが為に

その異常性が際立っている。

だがおそらく「殺人という行動」はしないものの

自分が「無能」「無価値」と断定した他人が

目の前で苦しもうが死のうが眉ひとつ動かさない経営者や政治家は大勢いる。

もちろん一般市民にもそういう感覚をもつ人はいくらでもいるのだ。

思想は個人の中に急にうまれるものではなく、

周囲の環境、時代の風潮や空気、得られる情報により形成されていくものだ。

そう考えたときにやまゆり園での殺傷事件は

植松が単独で起こした異常事態ではなく、

社会全体の風潮や仕組みが起こした発露なのだとも言える。

 

 

「人の命の価値を他人が決めてはならない」という言葉は

人の生死を他人が決めてはならない、という意味だけではなく

人の能力や社会的地位などによって個々の存在の価値を

上だ下だと断定してはならないという意味も含まれているだろう。

 

しかし現代の日本においてそのことは非常に難しい。

他の国のことはわからないが、少なくとも日本においては

人間を評価する基準、ものさしの種類が極端に少ない。

 

究極、「金になることをしているのか、していないのか」

という基準しかないと言ってもいい。

病気や障害で働けなかった人が就職することを「社会復帰」という。

これは暗に働いていない人(金を生み出さない人)は

社会に参加していませんよ。ということを示している。

日本における社会人とそうでない人の間には大きな意識的溝があって

社会人こそがまともなのだと、思い込まされている。

しかし、本当のところ病人だろうが障害者だろうが

子供だろうが老人だろうが

社会を構成する一員としてみれば全員が社会人である。

全員が生きている限り常に社会に参加しているはずだ。

それなのに、金を稼いでいる社会人のみが「社会に参加している人」で

それ以外の人は社会に参加できていないことにされている。

意識的、無意識的に関わらず「他人の価値を決めつけて」しまっている。

 

それでも「金になることをしなきゃダメだよ、社会人じゃないよ」と言われ

病気や障害に苦しむ人もムリをして社会に参加する。

そうしなければ自分の価値を認めてもらえないから。

お金を稼ごうとがんばる。

なのに、いざその社会から発されているメッセージは

「病気や障害のある人がまともに働けるわけないだろう。

一緒に働くなんて迷惑だ、ムリだ。」というものだ。

そうして、一度病気や障害をおった人はどんどん居場所を失って

追いつめられていく。

なんだこれは。

 

こういうことが事実起こり続けている社会の中で

「人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがない」と声に出してみても

それは当然むなしいだけだ。

 

「全員が働き、金になることをしなければならない」

という考えに固執して社会を動かしていくことにも

限界がきているのではないか。

働きたい人が経済を動かしその余力で

病気や障害を持つ人が安心して暮らせるような、

そして何より重要なのは「金になることをしない人」

を許容できる社会になっていければ。

今は病人に向かって「何故働いて金を生み出さない!」と

会社に引きずって連れて行きいざ働かせておいて

「どうして仕事がまともにできないんだ!無能が!」

と怒鳴りつけている状態でほとんど正気の沙汰ではない。

 

現代における「働いていない人」に対する扱いは

都会での「空き地」の扱いに似ている。

都会で空き地があればそれは

「金を生み出さない非生産的な土地」と見なされる。

そしてすぐにそこを

「金を生み出す生産的な土地」に変えていこうとする。

たとえば整地して月極駐車場にする。

マンションを建てて売る、貸す。店を建てて商売をするなど。

それが正しいこととされている。

 

「空き地」は確かに「金になるかどうか」の基準でみれば

「何もない」場所だが、

違う視点で見ると空き地には

色々な植物が生え虫たちが生きていてそこで遊ぶ子供たちもいる。

「金になるかどうか」の視点からは見えなくなっている、

見落としているものがたくさんある。

そしてそういう「金にならないから切り捨てた」ものが

いつか取り返しのつかない事態をまねくかもしれない。

逆に「金にはならないけどのこしておいた」ものが

社会や誰か個人を豊かにするかもしれない。

人間はそれほど賢いいきものではないで、先のことはわからない。

一方に偏るよりも可能性として様々な「隙間」「余裕」を残しておく方が

よりよいはずである。

 

「人は他人の価値をどうしたって決めたがる」

そのことはもうどうしようもない習性なのだと理解した上で

社会全体が色んな価値基準をもつこと。

一見価値がないと思うものでも許容すること、が重要だ。

 

それらを克服する画期的な社会システムなんておおげさなものは思い浮かばない。

だがせめて「金になる、ならない」とか「生産性がある、ない」という

狭い価値基準からは脱却してもいいころだ。

 

ごく個人的な話をしよう、

近所のスーパーマーケットでよくすれ違う男性がいる。

彼は全ての商品棚をさわりながら店内を周回したり、

スーパーマーケットが貸している車イスに乗って

店内を走り回ったりしている。

正直に言って私は彼を自分より下に見ている。ひどい話だ。

しょせん私も愚かな差別主義者だ。

しかし彼を見かけると「今日も元気そうでよかった」と思う。

他人を傷つけ多くの迷惑をかけてきた私より

彼のほうがずっと立派なのかもしれない。

彼が元気なことでご両親はとても幸せなのかもしれない。

 

スーパーマーケットをうろうろする人がいてもいい。

ただ道ばたで歌うだけのひとがいてもいい。

売れない絵を描き続ける人がいてもいい。

きれいな石を集めるだけの人がいてもいい。

酒を飲んでニコニコしてるだけの人がいてもいい。

 

いてはならない人なんて本当はいないはずで、

少しずつでもいろんな人を許す寛容な社会になってくれれば。

アナウンサーが言った

「人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがないということです。」というひとことが

ただのむなしい言葉の羅列ではなくてほんとうの意味をもつように。

 

社会の空気や風潮をつくりだしているのは

結局社会に生きるわたしたち全員。

つまりは

「人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがないということです。」

という言葉の意味を空虚なものにしてしまっているのも

まさにわたしたち自身だ。

そんな社会をほんとうに望んでいるのか。

許しを、寛容を忘れてはいけない。

 

 

 

 

するとして

おれは社会に適合できないうつ病患者で、

今のところ治る見込みもない。

非生産的な人間だ。

職も金もなく失うものはとりたててない、

無敵の人だ。

 

犯罪者になってしまったり、

長い苦痛をともなう病を患ってしまうより前に

自分で決着をつけるのが一番いいに決まっている。

 

決まっているのにそれを実行できずにいるのは

単純に死ぬのがこわいからだ。

死ぬ際の痛みや失敗を考えると踏み切れない。

 

それに

ここのところ自死について考えていて、

自死するにあたって一番こわいのは

「まさに死ぬとなった瞬間にわいてくるであろう様々な感情」

だと思い至った。

 

たとえばロープに首をかけ体重を預ける瞬間。

この人生に対する憎悪とか哀しみとか虚しさとか、

いくつかの幸福な出来事についての未練とか、

犬や猫に会えなくなるさみしさとか、

そもそも生まれるべきでなかった自分への落胆とか、

残された人への申し訳なさとか、

そういう思いがいっきに押し寄せるはずで

それは肉体の痛みよりずっとずっと恐ろしい。

 

おれはそのどうしようもない感情に飲み込まれたくない。

それが死そのものよりもこわい。

そういう感情の濁流は生きているからこそわいてくるもので、

生きるということは死に直面しようとするときでさえ

どこまでも追いかけてきておれを苦しめる。

 

やはり生ほどこわいものはない。

 

今日はいい天気だし鼻歌まじりに死んでみるか、

くらいの軽さでこの世界からいなくなりたい。

ふわっと。

じゃあまたね、くらいのかんじで。

 

すべてのノリのすべて

 「すべてのノリについていけない」

おれはそのようにツイートしたことが数回ある。

この一言でおれの人生について、すべて説明がつく。

 

この世にはありとあらゆる場、集団にノリが存在していて

人は自分にフィットするノリをもつ場や集団に属する。

そしてその中でノッリノリになる。

 

学校にも、会社にも、地域にも、家庭にも、

趣味の集まりにも、政治的な団体にも、宗教団体にも、

それぞれ固有のノリがある。

またひとつの団体、集団の中に

いくつかのノリが共存していたりもする。

学校だとスクールカーストとか言われたり

社会人になっても陽キャ陰キャだと別れている。

 

まあともかく、普通の人はみんな何かしらのノリに

うまいこと乗っかることができる。

 

たとえば陽キャのノリについていける人は

大学じゃ仲間で騒ぐだけのサークルに入って、

飲みだライブだ、夏には友達みんなで

海でバーベキューだ。

恋愛にも積極的、流行りにも敏感、

ワンピース泣ける仲間絆最高、

インスタに映えるようなキラキラした

青春を生きるんだろう。

そうして培った自己肯定感を武器に

どこまでもノリノリで生きていくんだろう。

仲間の死さえ自分の人生のノリの一部。

最高の仲間にマジ感謝、お前の分まで夢叶え、

見守っていてくれよなマジアツい友情。

ノリノリである

 

一方そんなノリについていけず日陰を行く人もまた、

それなりに色んなノリを楽しんでいるもんだ。

アニメやマンガ文化を彩るイベントは目白押しだもの。

学校でオタクだなんだとキモがられても、

学校を離れオタクオミュニティに参加すれば

そこにはたくさんの同じ趣味の仲間たち。

気持ちわるい発言を責めるヤツはいないぜ。

仲間意識を強める定型文には事欠かないぜ。

尊い、しんどい、わかりみが深い。

最近のコスプレーヤーさんは可愛いし

オフパコという単語に過剰反応。

ノリノリである

 

陽キャ陰キャだに関わらず意地の悪い人が集まれば

ノリでいじめをやってみちゃう。

ノリで悪口を浴びせ、ノリで人の物をこわし、

ノリで恐喝し、ノリで自殺に追い込む。

その顔はやはりノリノリである

 

新興宗教にどっぷりの人。

言うまでもなくノリノリである

 

真っ当な人間はノリについていけるんだろうと思う。

ノリノリなのがまともな人生。

意識するしないに関わらず、

ノリノリで生きるに値する楽しみを見いだす。

これがまともである人間の人生だ。

 

ひるがえって考える。

おれ自身はこの世に溢れるノリのどれにもついていけなかった。

子どもの時から今現在まであらゆるノリについていけない。

ノリが発生するとどうしたらいいかわからなくなる。

ネットでよく見かける文章に

「友人3人で集まると自分以外の2人が楽しく話していて

自分はいつも1人置いてけぼり」というのがある。

おれは人生常にこの「置いてけぼりの1人」であった。

あげく精神を病んだ。うつ病だ。

社会の大きなノリに乗り切れなかった者の末路。

昨今はこうした「うつ」発達障害」を個性だ何だとノリに変えて

世間にうって出るという新種のノリも出現してきた。

この手のノリには心底うんざりする。

 

ノリきれなかった人がノリきれなかった経験を

深刻に、ときにおもしろおかしく語ることで

新しいノリに変換しようだなんて、もう何が何だかわからん。

でもそうまでしてでもノリノリになることは大事なんだろう。

ノリとはつまり社会とのつながりそのものだからだ。

 

すべてのノリについていけなかった人、

というは別におれだけではなく。

ガチで引きこもっている人とか、

他者との接触が極端に少ない人はそうなんだろう。

そして、いわゆる「無敵の人」も。

加藤智大も小島一朗もやはりありとあらゆるノリに

ついていけなかったんだろうなと。

もし何か彼らなりにノリノリになれるものや場所があったら

違っていたのかもしれない。

あるいはすべてのノリについていけず、

唯一自分なりのノリノリを追い求め

ああいう結果になったのかもしれない。

 

世間のノリからはずれてしまった人がそれでもいいじゃないかとなる逃げ場が

どこかにあればいいなと思うが、ノリというのは恐ろしい魔物のようなもので、

逃げた先にもまた新たに生まれてしまうんだ。こわ。

 

そうなればやっぱり刑務所みたいに淡々としている場に憧れてしまう。

作業はあるが、たとえば上司に人間的成長を迫られたり、仲間意識を強制されない。

それで最低限の食と休息は保証されている。

(休息については普通に勤めるよりちゃんとしてる)

こういう静謐な日々を暮らしたい人は実は多いんじゃないのか。

少なくともおれは憧れる。

 

だからといって他人をアレしてまで刑務所に行こうとまではそんなに考えない。

自分はノリについていけない人間であることをちゃんと自覚しておき、

あとはいかにノリと無縁の静かな暮らしをするのか考えたいだけだ。

 

30数年生きて、何とか世間のノリについていこうとがんばってはみたが、

もはや最近は抗うつ薬もきかなくなってきてしまった。限界なんだ。

ムリなものはムリだ。

 

答えはすでにあって

「十分な金を稼ぎ、すべての人々から遠ざかりたい。」

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

圧倒的な正解だ。

これがクッソむずかしくてやってらんねえなクソが。

刑務所か、縄か。どちらもおれを呼んでやがる。