情念を

人間にとって情念というものがいちばん厄介で、これはもうどうしようもない。生きている限りわき起こるコントロールのきかない感情の渦。あるいは生そのものの慟哭、叫び、嘆き。すべてに、あらゆるすべてに情念がはり付いて人間はそれに突き動かされ、支配され、ときにはそれこそが正義であるかのように唯一の正解であるかのように振る舞う。

己が他者よりも優れていると証明したい、自らの思考、思想こそが皆を幸福へと導くと信じたい、弱者に手をのばす慈愛に満ちた人間であると思われたい、多くの権力を握り金を掴み周囲を意のままに操りたい。すべては人間の情念でありそれがどこからくるのかは正確には分からない。

渦巻き湧き出る人間の存在証明への欲望。そういった澱としての情念。人を愛するも人を憎むも根は同じであるのが人間の不幸だ。いや幸福か。ただ情念に振り回されているのだ。

我々は否応なく生きている限りこの世界に情念を叩き付ける。その自覚の有る無しに関わらずだ。ある者は芸術にそれを叩き付ける、絵を描く、音楽を奏でる、踊りつづける。ある者は他者を軽蔑し、その根拠を主張することに己の存在価値を見いだそうとする。人種だ、性的差別だ。平等を訴えるよりも先に他者を攻撃することに主体をおく人物は多い。ある者は他者を巻き込みそれを叩き付ける、己を支持する人間を集める、利益を追求する、限られた内輪の中で尊敬を集めることに腐心する。ある者は他者を傷つけることに情念を向ける。それは実は理由のいらないことで、本人の情念がどう昇華するかのみが重要事項であったりする。傷つけられる理由もない他者が犠牲になる。ある者は全ての情念を自己の中にしまい込む。あらゆる情念のやり取りそれ自体を避けることを望む。他者、社会との関係を断ち引きこもる。これもまた傷つきたくない、社会に参加することに意味を見いだせないという情念である。

人間は苦しみから抜け出せない生き物であることは2000年以上前から言われている。今我々がやっているのはただのわかりきった苦しみの連鎖の繰り返しでしかない。

そんなところからも抜け出せていないのが我々でありブッダもキリストも諦めまじりに鼻で笑っていることだろう。

しかしながら2000年の時をかけても克服できないのならそれはもう人間の課題ではなく、ただの性質、習性なのかもしれない。この愚かな情念とともに生きるにはどうすればいいのか。それを考えなければいけないのかもしれない。

常にわき起こる他者を見下す心情、コントロールしきれない他者を貶す情念。

我々はどうするのか。せめて最近理解されてきたのは分かりあえない人間同士どうしたってどう話し合っても相互理解などあり得ないことがわかったというくらいだ。そこに人間的な情念を持ち込めばただの殺し合いになろうが、いい加減少しでも人類は学んだと証明するためには少しでも情念を排して話合うことのできる場とそれを実行できる人が必要なんだろう。人間はとことんまでどうしようもない。本当は必要以上に憎しみ合い殺し合うようにできている。そこに抵抗するにはどうすればいいのか。グローバルである必要もないナショナリズムに染まる必要もない。互いに人間である、生活がある。そのことをひとまず優先するしかないのではないか。情念はさておくしかない。情念は人間の一番率直でありかつ愚かな感覚、感情であるのだから。

国も人種も違う。歴史の解釈も違う。それでも今の時代を殺し合って生きていくわけにはいかないというコントロールが必要なんだろう。

 

…国際的態度はそうでも国内にすら様々な格差や見捨てられた世代や人々による情念が渦巻いている。これをどうするかの答え、もしくは社会制度としての答えは出ていない。楽観視はできない状況で、見捨てられてきた家族や個人がどうなってしまうかは誰にも分からない。人間は、情念をなきものとすることはいついかなるときも本当はできないのだと思う。情念を抱え、せめてただ情念で他者を不幸に陥れようとすることだけは避けなければいけないのだ。