京都アニメーションの事件のこと

京都アニメーションで40代の男がガソリンをまいて放火、数人の死者と40名ほどの負傷者が出ているとのこと。

今日(18日)の昼前にこのニュースの一報を知ったが、あまりにつらいのでリアルタイムでこの事件の続報を追うことをやめた。山本寛氏による最悪なツイートを目にしてしまい、気分が悪くなった。怒りと悲しみで手が震えた。ツイッターもログアウトしてしばらく見ないことにした。

それでもイヤな気分は消えず言葉にならないような感情がぐるぐるとして落ち着かない。落ち着くために、何かに向かって吐き出すためにムリヤリこの文を書いている。多くの人が犠牲になるような災害や事件は他にもあるのに、なぜ今回とくにつらい気分になるのか。なんなんだろう。おれは昔ちょっとアニメ業界で働いていたが、おれがいたのは小さな下請けスタジオで、京都アニメーションとはなんの関わりもない。知り合いが働いているわけでもない。専門学校の後輩が京都アニメーションに勤めることになった、という話を人づてに聞いたことがあるが特に親しい後輩ではないし、今在籍しているかもわからない。しかし何だ、ともかく他の事件や災害や事故のニュースを知るよりずっとイヤな気分に襲われている。

さっき少し外を歩きながら考えていた。京都アニメーションの人とおれの共通項といえば、絵を描く人間であることだけだ。それだけだ。でもつらい気分はその小さい共通点のせいかもしれない。

アニメスタジオに勤めている人たちはきっと皆ちいさいころから絵を描くことが好きで、それを周囲に誉めてもらって得意になって、また描いて。と繰り返してきて、いろんなアニメや漫画を好きになり真似して描いてみたり、やがて絵を描くことが仕事になればいいなと考えて漫画家やイラストレーターやアニメーターという職業があること知り、希望をもってそれをこころざし、才能や環境に恵まれてそういう場にいたのだ。そしてときにつらいこともありながらも絵を描く仕事に誇りをもってよりよいものを作るために日々尽力していたんだ。おれも少しだけどそこに居たから。そこへいたる日々の大変さや、でも絵を描いていてよかったと思えるときもあること、がなんとなくわかる。それが一瞬で破壊され奪われた虚しさや悲しみを勝手に近しく感じてしまっているのかもしれない。

絵を描く人が紙を前に夢中で絵を描いているとき、こころの中には「絵を描くって楽しいな」という子供のときとあまり変わらない気持ちがある。そういうものが無惨に踏みにじられた苦しみ。京都アニメーションのスタジオにはおれなんかが到底及ばない才能ある人たちが日々すばらしい絵を作品を生み出していただろう。人を楽しませるために力をつくしていた。ただそれだけだ。それなのに、たくさん人が膨大な時間をかけて作り上げた絵や映像やお話が焼き尽くされてしまった。ものをつくりだす場所が機会が絵を描く人のいのちが消された。

もっと描きたい絵があったと思う。もっと上手くなりたい人もいたと思う。今まさに自分の能力がうまく発揮された作品を作っているところだったかもしれない。そういうものが暴力的に奪われた。もちろん人のいのちが失われたことが一番かなしい。それと同時に生まれるはずだった作品がなくなってしまったこと。世に出るはずだった絵がもうなくなってしまったこと。その人がこれから描くはずだったすてきな絵がなくなってしまったこと。作品はその人そのものだ。未来にあるはずだったそれがなくなってしまった。そういうぜんぶがつらく悲しい。

くるしい。息が詰まる。なんでこんな悲しいことが起こってしまうんだ。ただただ打ちひしがれている。今現在事態がどうなっているかはわからない。知るためのエネルギーがでない。せめて、ひとりでも多くの人が助かりますように。無事でありますように。むなしいけれど、祈ることしかできない。