私はただ旋律のようになりたい

自死、自殺とはなんだろうな。自らを殺すとは。

自殺を悪いことのようにいう風潮とか宗教とかあるみたいだけども、おれはそんなの大嫌いだ。この世界でどうしようもなく追い詰められて苦しみぬいて、逃げ場もない苦痛にさらされ自らをどこかに逃がしてあげたくて死を選択した人間に向けて、さらに追い詰めるようなことをのたまう神仏ならそんなものいらない。おれが死んだらまず「自殺はいけません」なんてたわ言を抜かす神仏を殴り倒す。天国の果てだろうが地獄の果てだろうが追い詰めて殴りにいく。お前ら現世に生きもせず、小さく愚かな人間の苦しみがわかるのかと問い詰めてやる。

魂、みたいなものがあるとしてそれは風船のように軽くてたまたまこの世界に細いひもで括りつけられているだけなのか。あるいは魂はやたらと重いものでどこかに落ちてしまそうなギリギリのバランスで耐えているだけなのか。

どちらにせよ、生きていると余計なことばかりがこの身に降りつもっていくのだけは確かだ。それは人間関係だったり金銭の心配だったり社会的な地位や名誉への固執だったり己の欲だったり後悔だったり、老いて病んでいく体だったり理想と隔てられていく自分の姿だったりイノセントではあり続けられないどうしようもなさ、かといってうまく世を渡る器用さも身に着けられないもどかしさ、そういうものがつもりつもって魂をこの世につなぎとめる紐をいっそ切ってしまおうとかこの世でたまたまバランスを保っているこの身を落ちるところまで落としてしまおうとか考える。

自死とはなんだろう。もしみんなが救われるならそんなものなかった。誰もが望むようにうつくしくあれるならそんな選択肢はなかったのにな。

リリィ・シュシュのすべて』という映画があってその内容がずっとこころに引っかかっている。あれは現代に生きるほとんど誰もがとおる若い日の一時的な青臭い息苦しさを示唆しただけの物語だと思う。たとえば14歳くらいの、とある苦痛の拡大解釈。結局ほどんどの人がそれぞれの人生の中で苦しみからある程度抜けだす道を見出したり、どこかで妥協して成長することでそういった苦しみは過去のものになる。それが大人になるということだし、正しいことだ。

一方でこの映画が示すような苦しみから抜け出せない人もたくさんいるんだとも思う。全員が器用ではないように、誰しもがうまく大人になれるとは限らない。それを愚かだと幼稚だと笑うのが大多数の人だろうけども、おれはそれを笑わない。この世はとある主観によっては希望に満ちた世界だろうが、また別の視点ではあまりに悲しく苦しみに満ちた世界でもある。それは同時に起こっていることでどちらが正解ではない。

誰かが死を甘くやさしい逃げ場所として感じているときどんなに周囲が「自殺はよくない」「残される人のことを考えろ」「いつかきっといいことがある」などとそれらしい文句を言ったところで意味がない。そんな言葉は何の救いにもならない。

リリィ・シュシュのすべて』のエンドロールではいくつもの印象的な言葉がテロップで流れる。

≪全ての終わりが、どれほど素晴らしいことなのか。腐っていく肉、壊れていく僕。≫

≪傷がないのにイタイイタイ。傷があるのにイタクナイ。きれいな綺麗な青い空をミタイナ。≫

≪居場所を探し続けて、人は死んでいくんだわ。≫

≪人間にとって最大の心の傷は、存在。≫

≪ニンゲンハ、トベナイ。≫

≪「私はここにいるの。」そう叫びたくて、これを書いているのかもしれない。≫

それは希望の言葉ではない。希望とはほど遠い。明るくもなくやさしくもない。しかし上辺だけの希望を装った言葉よりはほんのわずかにあたたかいような気がする。どうしようもなく傷つき、寄る辺もなくやっと呼吸しているだけの人間。そういう人間はどうやらあなた一人ではなくおれ一人でもない。それで、それがわかったからといって何か救われるわけでも、何かがうまくいくわけでもない。何も変わりはしない。ほんのわずかなあたたかさ、気を付けて感じてみてやっとわかる程度の温度。自死を考えるとき、そういうものをすこしだけ求めているのかもしれない。自分の、間違ってきた道を選択を傷をそれでもいいと誰かに言ってもらうでもなくただ肯定してほしくて、自分でも肯定したい。

リリィ・シュシュのすべて』の中で登場人物の一人の少女が自ら死を選ぶ。死の直前、彼女は原っぱでカイトを飛ばす青年たちに出会いいっしょにカイトを飛ばす。彼女はとても楽しそうに笑いながらカイトを空に舞い上がらせ、ふとつぶやく「空飛びたい。」そして彼女は鉄塔から飛び降り、死ぬ。

本当は誰もが、うつくしくありたい。純粋でありたい。苦痛なんかとは無縁でありたい。周りを明るく照らすような人間でありたい。でも大抵の人はそのようになれない。

もしこの文章を読んでいる人が自死を考えるほど悩んでいたり自分に失望していたとして、おれにできることは何もないのだけど。似たような苦しみの中にいる人間もいるんだということだけ知っておいてほしい。一人ではないのだということ。それが大した救いになんてならないこともわかっている。

もしあなたが自分にどうしようもなく失望して頭や胸をかきむしり絶叫するようなことがあってもおれはそれでもいいと思う。うまくこの世界を生きていけないとしてもあなたが悪いわけではない。愚かでも不器用でもいい。さいごに自死を選ぶならそれでもいい。あなたにとって世界がどう見えているのか、それは誰にも分らないんだから。ただ似たような苦しみの中にいる人がこの世を去るならそれはやはり寂しく悲しいことだ。

リリィ・シュシュのすべて』のエンドロール、「グライド」という曲。繰り返し歌われるねがい。

「私はただ旋律のようになりたい」

「私はただ空のようになりたい」

「私はただ風のようになりたい」

「私はただ海のようになりたい」

人間はうつくしい何かになれない。ただそこにあるだけでいい存在になれず、価値だの意味だの振り回されつづける。むなしい希望を口ずさむように、諦めに近い気分で歌うように、生きるしかない。おれは結局自ら死を選ぶかもしれないし、だらだらと老いて死を迎えるのかもしれない。それは分からないけど愚かさや悲しみや生きづらさを抱え懸命に生きている人を否定せず、それでもいいんだということだけは言い続けたい。みんなが信じてしまっている嘘のせいでわからなくなっているけれど、ほんとうの本当はあなたはそこにあるだけでいい。いるだけでいい。いてはいけない人なんていないんだ。むなしくても諦めながらでもそう言い続ける。