小豆洗いクラブ

水木サンの短編にこんな話がある。山でひっそり小豆を洗うだけの日々を過ごしていた小豆洗いという妖怪のところに妖怪保存会の男がやってきて、街で暮らすことを勧める。人間の文明はすばらしい、その恩恵をきみも享受すべきだと言う。半ば強引に小豆洗いは街に連れてこられる。そこで小豆洗いはテレビ広告やポルノ雑誌を見る。「ここに映っているものはすぐ手に入るのかい?」と小豆洗いは問う。男は「手に入れるにはカネが必要だ」と答える。小豆洗いは「欲望ばかり刺激して生殺しにするのが文明というものか おれは小豆を洗っているほうがいい」と言い街を去ってしまう。

映画「ファイトクラブ」でタイラー・ダーデンはこう言う。「オレたちは広告を見て車や服を欲しいと思い、やりたくもない仕事をして欲しくもないモノを買っている。」「テレビにそそのかされていつの日か億万長者やロックスターになれると思っているが、誰もなれない。その現実に気付いてオレたちは心からムカついてる。」

小豆洗いもタイラー・ダーデンも同じことを言っている。この現代社会の資本主義社会の本質的なつまらなさ、退屈さ、無意味さ。カネと欺瞞にまみれ腐った日々の繰り返し。小豆洗いは街を去ることを選ぶが、タイラーは狂気と破壊を選んだ。実際現代の、この目の前の、退屈さから脱するには世を捨てて山にでもこもるか、狂気に走るかしかやりようがない。三島由紀夫も自分の死生観を語ったインタビューで「現代においては英雄的な、大義ある死などなくなってしまった。自分も大義ある死について考えながらいずれは畳の上で平凡に死ぬのだと思う」と語っている。語っていたのだが、最終的に三島由紀夫は狂気のほうへ振り切った。憂国というのは上辺の主張で、本質的には生きることの虚しさから何とか抜け出したかったのかもしれない。

それにしても問題は、世捨て人も狂人もありふれた退屈の中に収まってしまっていることだ。もはやエンタメの一部ですらある。退屈と空虚はどこまでも手を伸ばし、カネとか話題性とかそういうものに全てを変換していく。「世を捨てること」にも「合理性のない狂気」を実行するのにもある種の才能が必要になってしまった。なんというつまらなさ。気が狂うほどの退屈さ。

一体どこに向かえば、何を表現すれば、どうジタバタすれば、この退屈と空虚に対抗できるんだろうか。そんな方法はもうないのかもしれない。狂気、狂気が足りない。しかし並大抵の狂気ではマスメディアによってコンテンツ化されあまりにも退屈に消費されるだけに終わるのだ。

「大量消費とマスターベーションをやめろ。街に出てケンカをおっぱじめろ。」

それだけでは足りない。まだ脱出できない。広告とマスメディアは全てを退屈に変えようと追いかけてくる。狂気が足りないんだ。狂気が足りない。それならせめて小豆を洗うのがいい。小豆を洗ってどうするのか。そんなことは知らない。ただシャカシャカと小豆を洗う。一心不乱に。小豆を食うのか食わないのか、知ったことか。それは狂気でやっているのか、世を捨ててやっているのか、そんなことはどうでもいい。合理性を捨てることさえ捨てろ。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆洗いクラブへようこそ。