目を閉じるとチカチカと見えるのだった

ああ、あれは曼荼羅だと思った

古い記憶を見るのだった 覚えていない記憶だった

何度回った

懐かしくもない 悲しくもない

左手を握りしめた

せまい場所に閉じこめられた犬を見た

古い土の壁だった

指をならし駆け下りて ほんとうは泣きたいのだった

なにも なにも

大声で泣きたいのだった

それすら許されないせかいで

軽いとびらを開ける

それは終わったのだ 終わったのだと言いきかせる

なおも

チカチカと回り消え またあらわれ

その先を見るか

もう見たくないのか

いずれ見るのか そこへ行くのか

つめたい空気がながれて

階段はきしむ

すべてはやさしく むなしい

泣いている 泣いていない

チカチカ

チカチカ

美しいものを見せてくれ、生きていてよかったと思えるような。
汚れたものを見せてくれ、生まれてくるべきじゃなかったと思うような。

きれいな声を聴かせてくれ、生きていてよかったと思えるような。
きたない罵声を浴びせてくれ、生まれてくるべきじゃなかったと思うような。

笑ってくれ、生きていることを肯定するような。
泣いてくれ、生まれたことを否定するような。

ずっとここにいたい。
すっと消えてしまいたい。

終わることのかなしい。
始まることの素晴らしい。
終わることのすばらしい。
始まることの悲しい。

音が鳴っていて響きあって喜びも悲しみもなかった。

ただ音が。

幸福論

幸せな人ってのは不幸に出会わない。

なに普通のこと言ってんだ。

 

幸せな人は大抵円満で生活や進学に困らない家庭に生まれる。

大切に育てられる。学校でもうまくやれる。いじめに遭遇しない。

周囲の人間関係にも恵まれる。

好きなことを素直に楽しめる健全なこころで、

仕事もうまくこなし、未来に希望を持ち生きていく。

 

幸せって「なる」ものじゃなくて

「不幸をいかに回避するか、遭遇しないか」ってだけじゃないのかと。

上から来るぞ!気をつけろ!

 

衣食足りて礼節を知るじゃないけど、

人がよい状態にあるためには環境が重要なわけで。

 

クソのような環境の中でまともな人間性を保つのは難しい。

だからこそ困難な状況でも人間らしさを失わなかった人物を聖者と呼ぶのだろう。

たとえばアウシュビッツの収容所に入れられて、

他人をかばい死刑を受け入れるなんてほとんどの人間には無理だ。

 

誰もが不幸を回避して、まともでいられる環境を維持したいんだ。

この国で普通の幸せとされている状態にたどり着くまでにも、

 

(世の中には貧しい家庭や暴力を振るう親もいるなか運よく)

円満で生活や進学に困らない家庭に生まれて大切に育てられ

(学校でいじめられる子が多くいるが自分は標的にならず)

たのしい学校生活を送り

ブラック企業で頭のおかしな上司に詰められて精神を病む人を横目に)

まっとうなホワイト企業に就職。

性自認の問題に悩む人もいるらしいことは知っているがそれはともかく)

異性と普通に結婚し

不妊に悩む要因もなかったのし収入面も心配ないので)

子どもを二人つくり、幸せに暮らしています。

 

これだけの不幸を回避している。

でもそういう自覚はたぶん幸せな本人にはないのだろう。

これはきっと幸せであるために必要なもうひとつの要素なんだろう。

不幸を見ない、考えないという。ないこととする。

 

幸せな人は

「せっかくだから俺はこの不幸を真剣に考えるぜ!」とはならない。

いい悪いではなくそういうもんだ。

日本に生きている人のほとんどが

世界には紛争や飢餓にくるしむ人々がいるという

事実は知っていてもそれを真剣には考えないことと同じ。

 

不幸をクソ真面目に受け止めてしまうと

慈善活動化家か、宗教家か、もしくは詩人とか芸術家になるしかない。

 

そういうわけにもいかないから

とりあえず不幸を回避できている間は不幸をないものとする。

幸せは「とりあえず」の曖昧な状態でしかない。

 

かたや不幸には具体性があり最終的には回避しきれない。

どんなにうまく不幸を避けてきた人ですら、

辿り着くのは 老い、病、死と決まっているからだ。

終着点が決まっているのに生きること、

その始まりであるこの世に生まれるということ。

生老病死。苦界ですわ。

 

ああ、なんだ、なんでこんな文章を書いているんだっけ。

 

あー、この世に確固としてある不幸にたいして
人間が得られる幸のうすっぺらさにうんざりしているということだ。

 

どこまでも続く砂漠に放り出され500mlのペットボトルしか手元にはないんだ。

すぐに飲みきってしまう奴。人のペットボトルを奪う奴。

大事にとっておいてそのうちに干からびて死んでしまう奴。

それでも人間らしさを保てとかね、そりゃないぜ。

 

苦界をのりきるために僅かばかりの幸をすすりながら生きるってのは

なんとも割に合わない話じゃねえか。そう思わねえか野郎ども。

 

そりゃあ死だけが救いと思うしかない。思うしかないんだよ。クソが。

あ~生まれてきてよかった~。

とおいところにあるチボー

チボーの歌を聴くことだってある。

 雨はいつかあがる

 明けない夜はない

 涙のあとには虹がでる

 あと一歩すすもう

 すべてはきっとうまくいく


そんな歌詞をきいても別に反感はない。いやな気分にはならない。

ああ世の中にはそういうこともあるのか、と思う。

 

明日へのチボー、未来へのチボー、日々のチボー

それはきっと大切なものなんだろう。

たくさんの人々を照らすあたたかな光なんだろう。

 

やむことない雨にうたれて遠くの雲の切れ間をながめる。

ああ向こうはきっと明るいのだろう。

 

明けることのない夜に空の青を想像してみる。

ああきっとすがすがしいのだろう。

 

 

とおいところにあるチボー、ぼくを照らすことのないチボー

とおくからながめるだけ。

子ども

おれは反出生主義ではない。

 

子どもをつくり育てることはすばらしいことだと思う。

赤ちゃんや小さな子どもを連れた若い夫婦を見ると立派だなと思うし、

子どもをきちんとした社会人に育て上げた人たちを素直に尊敬する。

 

ただ、おれ自身は絶対に子どもをつくることだけはしないでおこうと決めている。

自分が、子どもをつくり育てるに値しない人間であることを自覚しているからだ。

 

社会不適合者であること。

精神を病んでいること、それが回復不能であること。

低収入であることが主な理由だ。

子どもにまともな選択肢を用意できないことは確定している。

 

もっと悪いのは

おれはこの世界を生きるに値しないものと感じていることだ。

そんなおれが一時的な生殖器の快楽衝動のために、

80年にも渡る人生を子どもに押し付け、何を教えることができる。

この世はクソだがお前はイキロとは言えない。

そんな理性の欠片もないことはやるべきではない。

 

確実に不幸になる子どもをこの世に迎え入れるべきではない。

それだけのこと。

 

おぞましい考えが浮かんだことがある。

「子どもがいれば生きることに前向きになれるかもしれない。

張り合いがでるかもしれない」と。

これには自らの考えに心底ぞっとした。

自分の肯定感への欲求のために子どもをつくるのもいいかもしれないと思ったのだ。

なんとおそろしい。

そんな簡単な気まぐれで産み落とされ、

80年もこの世を生きなければならないことになったら

その子どもは親を恨んでも恨みきれないだろう。

 

そんな程度の短絡的思考しか持たないおれだからこそ

絶対に子どもをもってはいけない。

これだけはきちんと守っていかなければならないルールだ。

 

子どもを産み育てることは

この世に生きるに値する何かを見いだし、

心身ともに健康で、

子どもに未来への選択肢を用意できる、

きちんとした大人たちにまかせればいい。

これが淘汰というもんだ。ごく自然な流れだ。

 

そして、この世に生まれてしまった子どもたちにはほんとうに幸せになってほしい。

何とか、なんとか幸せになってくれ。幸せにしてあげてくれ。

そうぞうしてごらん

自殺についてどっかのライターが

「他の選択肢があるのに想像力がないから自殺する」ぽいこと書いてたのを読んだ。

 

自殺するまでの日々を書いた人のブログを引用していた。

その人は(おそらく)自殺した日、

最期の食事に近所のなんてことないファミレスのステーキを食べていた。

そのことについて、

「最期だったらもっといいもの食えばいいのに」とどっかのライターは書いていた。

「私だったら食べたことないような銀座の寿司とか高級料亭へ行く。想像力がない」と。

 

いかにも健全な人の思考だな、とおれは思った。

どっかのライターは一ミリたりとも自殺を選択肢に入れたことがない、

幸福な人なんだろう。いいことだね。

 

自殺する人は想像力がない、わけではないと思う。

むしろ自分を取り巻く環境、この先のことに想像を巡らせて、

暗さや虚しさ、おぞましさを感じてしまっているのかもしれない。

選択肢があることそれ自体にうんざりしているというか。

 

あるいは、

想像力がない→うつ状態が悪化→社会で生きていくのが困難→自殺を選択

というより

社会で生きていくのが困難→うつ状態が悪化→想像するエネルギーすらなくなる→自殺

といった順序かもしれない。

 

どちらにせよ「想像力がないから自殺する」

=「想像力があれば自殺なんてしない」なんて簡単な話ではないと思う。

 

たとえばおれは20年近くうつを薬でごまかしながら生きている。

おれがいざ自殺するとしても

きっと最期の食事にたいそうなものを食べようと思わない。

 

食べたことない高級な食べ物が一瞬選択肢には上がるがすぐ消える。

高級寿司屋にしろ高級料亭にしろ、行くにはエネルギーがいる。

行ったことのない場所に行くことはうつ状態の人間には

とんでもなく大きな覚悟と気力が必要なんだ。

小汚い恰好で行って店の人にイヤな顔をされるかもしれないとか、

高級店でのマナーがわからないのでひどく緊張するとか、

そういう心配を考えると行く気にならない。

死ぬ前にさらに惨めな気持ちになるくらいなら、

普段行き慣れた牛丼屋やファミレスでいいということになる。

 

「美味しいものを素直に楽しむ」

というのも心が健全である前提が必要なことなんだ。

大抵、うつの人の中には

常に「自分が感じたことと逆のこと」を囁くバケモノが住み着いている。

最期の食事に高級な美味しいものを食べたとして、

「うまいもの食べた。それがどうした?」

「これから死ぬくせに何故こんなもの食べてるんだ」

「こんな料理くらいで空っぽな自分が満たされるとでも?」とバケモノは囁く。

きっとさらに空しい気持ちになる。

 

とはいえ、最期だから少しだけいいものを食べておくか…

くらいの着地点が「いつも行くファミレスのステーキ」

だったのだろう。たぶん。

 

自殺寸前の人が「想像力」で救われることはほとんどないと思うんだ。

想像力があれば自殺しない、と信じている人は

自殺する人がどのような道程を経てその選択に至るのか、

それこそ想像する力が足りていないのだろう。

人は自分が体験していない痛みを知ることはできない、

だから仕方ないのかもしれない。

 

自殺を止めるにはそこに至るもっと前に、

もっと早く救われることこそ必要なんだ。

でもそれにはどうすりゃいい。何にも思い浮かばないね。

 

いや、いいんだ。こんなのはキチガイの戯言だ。忘れてくれ。

こんな文章を読むのはやめて、人生の明るい美しい部分だけ見て生きればいい。

見る必要のないものに目を向けることはない。

それが健全な生き方だ。

 

よりよい明日を想像し、愛を信じ、人々にキスを。

そうしてくれ。

2018年大予想!!

2018年も人類は戦争を止められないでしょう。

 

2018年も人は人をたくさん殺すでしょう。

 

2018年も人類は武器を捨てることはできないでしょう。

 

2018年も多くの人々が飢えや病に苦しむでしょう。

 

2018年も大規模な自然災害が襲いかかるでしょう。

 

2018年も富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるでしょう。

 

2018年もこの国では2万数千人が自死を選択し、その根本的な解決はなされないでしょう。

 

 

それがどうしたという顔をしているな。

それがこわい。

有効な解決策もないのに慌ても騒ぎもしないこのせかいがこわい。

 

どうか、よい1年を。

明けましておめでとう。