ほこり

いきて いると ほこりが ふりつもる

のぞむ のぞまないに かかわらず

 

いきて いると ほこりがふりつもる

そこ ここに

ふと ぼくは そのほこりを ふきとり おもう

 

こんな ほこりが ふりつもる ことが

なくなればいい

ほこりを ふきとるような ことが なくなればいいと

 

ぼくが しんだら ほこりは 

もう ふりつもらない 

ああ なんて よいことだろう

 

おおきな ほこりも

ちいさな ほこりも

このへやを よごすばかりだ

 

ほこりが ふりつもらない せかいで

あるいは

ほこりを ふきとる ひつようのない せかいで

かぜ だけが ふけばいい

 

とおく まで 

ずっと とおく まで かぜが ふけばいい

 

いきて いると ほこりが ふりつもる

それを その ふりつもる じかんを 

ぼくは ながめている

美しい時間

おれの人生はそのほとんどが惨めなだけの時間だった。

これからなにか素晴らしい時間があったとしても

それは長い人生の中の慰みでしかない。

 

惨めな時間が報われるようなことはない。

 

それに対して不平を言う気分ではない、

いや生きていくことはそういう程度のものだろう。

 

ある人は生きるに値する幸せをすんなりと見いだす。

そうではない人はせいぜい出会ったいくつかの幸福を

何度も味のしないガムのように歯牙んで生きていくだけなんだろう。

 

歯牙んで、とシガーって似てるね。

 

おれが19歳のころ、生きていてもいいのかもしれないと

思えるような時間が少しだけあった。

 

今はそんな気分はないけど、

あのとき幻想だとしても感じた美しい時間を

反芻してなんとか生きている。

歯牙んで生きてる。

それは虚しいこと。

悲しいこと。

 

ああ、どうしようもないね。

 

残りカスのような、

シケモクのような人生。

それであとどれくらいいけるかな。

 

そんな遠くまではいけないな。

美しい時間がみんなにおとずれますように。

 

長く長く生きるに値する日々をみんなが見つけますように。

出会いますように。

 

アナウンサーは人の命の価値を他人が決めてはならない、と言った。

2018年7月26日、相模原市知的障害者施設『津久井やまゆり園』で

入所者ら46人が殺傷された事件から2年。

NHKおはよう日本「けさのクローズアップ」で特集が組まれていた。

障害者殺傷事件 被害者と家族の2年|けさのクローズアップ|NHKニュース おはよう日本

内容は被害者家族にとってこの2年間を追ったものだった。

 

ニュースの終わりにアナウンサーは

「少しずつ前へ進む尾野さんご一家の姿を見て感じるのは、

やはり、人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがないということです。

同時にこの事件をしっかり受け止めているのか、

目をそむけてはいないか、そう問われているような気もしました。」

 

人の命の価値を他人が決めてはならない

あっていいはずがない、というたしかに正しい言葉。

しかしなぜか空虚な言葉。

 

ひょっとしたら言ったアナウンサー本人も

何かむなしさを感じているのではないかと疑ってしまうほど、

それほどむなしい響きだった。

 

「ヒトノ イノチノ カチヲ タニンガ キメテハナラナイ」と

発した声がその意味をもつ前に消えてしまうような感じがした。

 

これは一体なんなのか。

 

端的に言ってしまえば、私たちを取り巻く社会が

「人の命の価値を他人が決めてはならない」という理想を

まるで実践できていないからだ。

 

それどころか

 「人の命の価値を他人が決めてはならない」というビジョンを

否定する具体的なメッセージや空気ばかりが社会には溢れている。

 

生活保護受給者に対する過剰なバッシング。

企業経営者による「能力の低い者の貧困は自己責任である」などの発言。

LGBTは生産性がない」などと発信する国会議員。

特に最近発覚した、障害者雇用の水増しについては

社会の「本音」があまりにくっきりと出ていた。

 

「社会的強者、または多数派や安全圏に属している者は

社会的弱者やマイノリティの価値を一方的に決めつけ、

無価値と判断した場合徹底して差別し、それを実行する」

「病人や障害者なんぞ役に立たないのだから、雇用するなんて到底ムリ」

いくら取り繕おうとしたところで、

社会が発する本音のメッセージはこのようなものだったのだ。

 

こうした社会に溢れる出来事と

やまゆり園で殺傷事件を起こした植松の思想は

根底ではつながっている。

 

植松は

知的障害者はいなくなるべきだ」

「人ではないから殺人ではない」

というような主張をし、

殺傷事件という極端な事件を起こしたが為に

その異常性が際立っている。

だがおそらく「殺人という行動」はしないものの

自分が「無能」「無価値」と断定した他人が

目の前で苦しもうが死のうが眉ひとつ動かさない経営者や政治家は大勢いる。

もちろん一般市民にもそういう感覚をもつ人はいくらでもいるのだ。

思想は個人の中に急にうまれるものではなく、

周囲の環境、時代の風潮や空気、得られる情報により形成されていくものだ。

そう考えたときにやまゆり園での殺傷事件は

植松が単独で起こした異常事態ではなく、

社会全体の風潮や仕組みが起こした発露なのだとも言える。

 

 

「人の命の価値を他人が決めてはならない」という言葉は

人の生死を他人が決めてはならない、という意味だけではなく

人の能力や社会的地位などによって個々の存在の価値を

上だ下だと断定してはならないという意味も含まれているだろう。

 

しかし現代の日本においてそのことは非常に難しい。

他の国のことはわからないが、少なくとも日本においては

人間を評価する基準、ものさしの種類が極端に少ない。

 

究極、「金になることをしているのか、していないのか」

という基準しかないと言ってもいい。

病気や障害で働けなかった人が就職することを「社会復帰」という。

これは暗に働いていない人(金を生み出さない人)は

社会に参加していませんよ。ということを示している。

日本における社会人とそうでない人の間には大きな意識的溝があって

社会人こそがまともなのだと、思い込まされている。

しかし、本当のところ病人だろうが障害者だろうが

子供だろうが老人だろうが

社会を構成する一員としてみれば全員が社会人である。

全員が生きている限り常に社会に参加しているはずだ。

それなのに、金を稼いでいる社会人のみが「社会に参加している人」で

それ以外の人は社会に参加できていないことにされている。

意識的、無意識的に関わらず「他人の価値を決めつけて」しまっている。

 

それでも「金になることをしなきゃダメだよ、社会人じゃないよ」と言われ

病気や障害に苦しむ人もムリをして社会に参加する。

そうしなければ自分の価値を認めてもらえないから。

お金を稼ごうとがんばる。

なのに、いざその社会から発されているメッセージは

「病気や障害のある人がまともに働けるわけないだろう。

一緒に働くなんて迷惑だ、ムリだ。」というものだ。

そうして、一度病気や障害をおった人はどんどん居場所を失って

追いつめられていく。

なんだこれは。

 

こういうことが事実起こり続けている社会の中で

「人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがない」と声に出してみても

それは当然むなしいだけだ。

 

「全員が働き、金になることをしなければならない」

という考えに固執して社会を動かしていくことにも

限界がきているのではないか。

働きたい人が経済を動かしその余力で

病気や障害を持つ人が安心して暮らせるような、

そして何より重要なのは「金になることをしない人」

を許容できる社会になっていければ。

今は病人に向かって「何故働いて金を生み出さない!」と

会社に引きずって連れて行きいざ働かせておいて

「どうして仕事がまともにできないんだ!無能が!」

と怒鳴りつけている状態で正気の沙汰ではない。

 

現代における「働いていない人」に対する扱いは

都会での「空き地」の扱いに似ている。

都会で空き地があればそれは

「金を生み出さない非生産的な土地」と見なされる。

そしてすぐにそこを

「金を生み出す生産的な土地」に変えていこうとする。

たとえば整地して月極駐車場にする。

マンションを建てて売る、貸す。店を建てて商売をするなど。

それが正しいこととされている。

 

「空き地」は確かに「金になるかどうか」の基準でみれば

「何もない」場所だが、

違う視点で見ると空き地には

色々な植物が生え虫たちが生きていてそこで遊ぶ子供たちもいる。

「金になるかどうか」の視点からは見えなくなっている、

見落としているものがたくさんある。

そしてそういう「金にならないから切り捨てた」ものが

いつか取り返しのつかない事態をまねくかもしれない。

逆に「金にはならないけどのこしておいた」ものが

社会や誰か個人を豊かにするかもしれない。

人間はそれほど賢いいきものではないで、先のことはわからない。

一方に偏るよりも可能性として様々な「隙間」「余裕」を残しておく方が

よりよいはずである。

 

「人は他人の価値をどうしたって決めたがる」

そのことはもうどうしようもない習性なのだと理解した上で

社会全体が色んな価値基準をもつこと。

一見価値がないと思うものでも許容すること、が重要だ。

 

それらを克服する画期的な社会システムなんておおげさなものは思い浮かばない。

だがせめて「金になる、ならない」とか「生産性がある、ない」という

狭い価値基準からは脱却してもいいころだ。

 

ごく個人的な話をしよう、

近所のスーパーマーケットでよくすれ違う男性がいる。

彼は全ての商品棚をさわりながら店内を周回したり、

スーパーマーケットが貸している車イスに乗って

店内を走り回ったりしている。

正直に言って私は彼を自分より下に見ている。ひどい話だ。

しょせん私も愚かな差別主義者だ。

しかし彼を見かけると「今日も元気そうでよかった」と思う。

他人を傷つけ多くの迷惑をかけてきた私より

彼のほうがずっと立派なのかもしれない。

彼が元気なことでご両親はとても幸せなのかもしれない。

 

スーパーマーケットをうろうろする人がいてもいい。

ただ道ばたで歌うだけのひとがいてもいい。

売れない絵を描き続ける人がいてもいい。

きれいな石を集めるだけの人がいてもいい。

酒を飲んでニコニコしてるだけの人がいてもいい。

 

いてはならない人なんて本当はいないはずで、

少しずつでもいろんな人を許す寛容な社会になってくれれば。

アナウンサーが言った

「人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがないということです。」というひとことが

ただのむなしい言葉の羅列ではなくてほんとうの意味をもつように。

 

社会の空気や風潮をつくりだしているのは

結局社会に生きるわたしたち全員。

つまりは

「人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがないということです。」

という言葉の意味を空虚なものにしてしまっているのも

まさにわたしたち自身だ。

そんな社会をほんとうに望んでいるのか。

許しを、寛容を忘れてはいけない。

 

 

 

 

するとして

おれは社会に適合できないうつ病患者で、

今のところ治る見込みもない。

非生産的な人間だ。

職も金もなく失うものはとりたててない、

無敵の人だ。

 

犯罪者になってしまったり、

長い苦痛をともなう病を患ってしまうより前に

自分で決着をつけるのが一番いいに決まっている。

 

決まっているのにそれを実行できずにいるのは

単純に死ぬのがこわいからだ。

死ぬ際の痛みや失敗を考えると踏み切れない。

 

それに

ここのところ自死について考えていて、

自死するにあたって一番こわいのは

「まさに死ぬとなった瞬間にわいてくるであろう様々な感情」

だと思い至った。

 

たとえばロープに首をかけ体重を預ける瞬間。

この人生に対する憎悪とか哀しみとか虚しさとか、

いくつかの幸福な出来事についての未練とか、

犬や猫に会えなくなるさみしさとか、

そもそも生まれるべきでなかった自分への落胆とか、

残された人への申し訳なさとか、

そういう思いがいっきに押し寄せるはずで

それは肉体の痛みよりずっとずっと恐ろしい。

 

おれはそのどうしようもない感情に飲み込まれたくない。

それが死そのものよりもこわい。

そういう感情の濁流は生きているからこそわいてくるもので、

生きるということは死に直面しようとするときでさえ

どこまでも追いかけてきておれを苦しめる。

 

やはり生ほどこわいものはない。

 

今日はいい天気だし鼻歌まじりに死んでみるか、

くらいの軽さでこの世界からいなくなりたい。

ふわっと。

じゃあまたね、くらいのかんじで。

 

すべてのノリのすべて

 「すべてのノリについていけない」

おれはそのようにツイートしたことが数回ある。

この一言でおれの人生について、すべて説明がつく。

 

この世にはありとあらゆる場、集団にノリが存在していて

人は自分にフィットするノリをもつ場や集団に属する。

そしてその中でノッリノリになる。

 

学校にも、会社にも、地域にも、家庭にも、

趣味の集まりにも、政治的な団体にも、宗教団体にも、

それぞれ固有のノリがある。

またひとつの団体、集団の中に

いくつかのノリが共存していたりもする。

学校だとスクールカーストとか言われたり

社会人になっても陽キャ陰キャだと別れている。

 

まあともかく、普通の人はみんな何かしらのノリに

うまいこと乗っかることができる。

 

たとえば陽キャのノリについていける人は

大学じゃ仲間で騒ぐだけのサークルに入って、

飲みだライブだ、夏には友達みんなで

海でバーベキューだ。

恋愛にも積極的、流行りにも敏感、

ワンピース泣ける仲間絆最高、

インスタに映えるようなキラキラした

青春を生きるんだろう。

そうして培った自己肯定感を武器に

どこまでもノリノリで生きていくんだろう。

仲間の死さえ自分の人生のノリの一部。

最高の仲間にマジ感謝、お前の分まで夢叶え、

見守っていてくれよなマジアツい友情。

ノリノリである

 

一方そんなノリについていけず日陰を行く人もまた、

それなりに色んなノリを楽しんでいるもんだ。

アニメやマンガ文化を彩るイベントは目白押しだもの。

学校でオタクだなんだとキモがられても、

学校を離れオタクオミュニティに参加すれば

そこにはたくさんの同じ趣味の仲間たち。

気持ちわるい発言を責めるヤツはいないぜ。

仲間意識を強める定型文には事欠かないぜ。

尊い、しんどい、わかりみが深い。

最近のコスプレーヤーさんは可愛いし

オフパコという単語に過剰反応。

ノリノリである

 

陽キャ陰キャだに関わらず意地の悪い人が集まれば

ノリでいじめをやってみちゃう。

ノリで悪口を浴びせ、ノリで人の物をこわし、

ノリで恐喝し、ノリで自殺に追い込む。

その顔はやはりノリノリである

 

新興宗教にどっぷりの人。

言うまでもなくノリノリである

 

真っ当な人間はノリについていけるんだろうと思う。

ノリノリなのがまともな人生。

意識するしないに関わらず、

ノリノリで生きるに値する楽しみを見いだす。

これがまともである人間の人生だ。

 

ひるがえって考える。

おれ自身はこの世に溢れるノリのどれにもついていけなかった。

子どもの時から今現在まであらゆるノリについていけない。

ノリが発生するとどうしたらいいかわからなくなる。

ネットでよく見かける文章に

「友人3人で集まると自分以外の2人が楽しく話していて

自分はいつも1人置いてけぼり」というのがある。

おれは人生常にこの「置いてけぼりの1人」であった。

あげく精神を病んだ。うつ病だ。

社会の大きなノリに乗り切れなかった者の末路。

昨今はこうした「うつ」発達障害」を個性だ何だとノリに変えて

世間にうって出るという新種のノリも出現してきた。

この手のノリには心底うんざりする。

 

ノリきれなかった人がノリきれなかった経験を

深刻に、ときにおもしろおかしく語ることで

新しいノリに変換しようだなんて、もう何が何だかわからん。

でもそうまでしてでもノリノリになることは大事なんだろう。

ノリとはつまり社会とのつながりそのものだからだ。

 

すべてのノリについていけなかった人、

というは別におれだけではなく。

ガチで引きこもっている人とか、

他者との接触が極端に少ない人はそうなんだろう。

そして、いわゆる「無敵の人」も。

加藤智大も小島一朗もやはりありとあらゆるノリに

ついていけなかったんだろうなと。

もし何か彼らなりにノリノリになれるものや場所があったら

違っていたのかもしれない。

あるいはすべてのノリについていけず、

唯一自分なりのノリノリを追い求め

ああいう結果になったのかもしれない。

 

世間のノリからはずれてしまった人がそれでもいいじゃないかとなる逃げ場が

どこかにあればいいなと思うが、ノリというのは恐ろしい魔物のようなもので、

逃げた先にもまた新たに生まれてしまうんだ。こわ。

 

そうなればやっぱり刑務所みたいに淡々としている場に憧れてしまう。

作業はあるが、たとえば上司に人間的成長を迫られたり、仲間意識を強制されない。

それで最低限の食と休息は保証されている。

(休息については普通に勤めるよりちゃんとしてる)

こういう静謐な日々を暮らしたい人は実は多いんじゃないのか。

少なくともおれは憧れる。

 

だからといって他人をアレしてまで刑務所に行こうとまではそんなに考えない。

自分はノリについていけない人間であることをちゃんと自覚しておき、

あとはいかにノリと無縁の静かな暮らしをするのか考えたいだけだ。

 

30数年生きて、何とか世間のノリについていこうとがんばってはみたが、

もはや最近は抗うつ薬もきかなくなってきてしまった。限界なんだ。

ムリなものはムリだ。

 

答えはすでにあって

「十分な金を稼ぎ、すべての人々から遠ざかりたい。」

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

圧倒的な正解だ。

これがクッソむずかしくてやってらんねえなクソが。

刑務所か、縄か。どちらもおれを呼んでやがる。

 

 

  

潔白なお笑い

最近SNSなどで「人の容姿をいじって笑いにするのはもう古い」「そういう笑いは淘汰されつつあり新しい時代がきている」というような意見をみる。

 

まあ、そうなのかもしれない。でもなんだか違和感がある。なんだべ。

 

そもそも他人の容姿や身分や性別を理由に侮辱したり嘲笑したりする行為は許されるべきではない。それは大前提だ。

 

その上で、お笑い芸人は一般的には侮辱にあたるような行為を「笑い」に変えてきたし、変えている。だがそこにNOと言う人が多く出てきた。「笑えない」「見たくない」「差別的だ」、なるほど確かにそういった捉え方もあるのはわかる。

ではそういった笑いはすべて排除されるべきなのか。

 

まずお笑い芸人の側から考えると芸人の多くはこの「差別的」「侮辱的」な扱いを「必要」としていることは明白である。

「ブサイク」「デブ」「ハゲ」「ガリガリ

これらを自身のキャラとし、ネタとして人前で披露することで仕事を得ている芸人はかなりいる。トレンディーエンジェルがハゲネタを禁止されたら困るだろうし、アンガールズの田中さんがカニのモノマネをしても気持ち悪がるのはやめましょう、みたいな空気になったらやりにくいだろう。

 

では逆にお笑い芸人ではない人、お笑いを見る側の視点で考えるとどうなのか。お笑い芸人ではない人たち、つまり私たちは差別的な、侮辱的な表現をまったく求めていないのか。他人に対する差別や侮辱行為を排除できているのか。

昨今のSNSなどで起こる出来事をみるととてもそうはなっていない。

 

普段差別的な発言や侮辱的な行動をしないひとでも条件や環境によっては差別的な思考に偏る。たとえば、こいつは○○だから笑いものにしてもいいだろう、という条件付けがあると人はたやすく差別主義者になれる。正しい側にいるという免罪符は何よりつよい。

 

子どものいじめの多くはそういった意識から生まれる。

「あいつはキモイからいじめていいんだ」

「あいつは暗いからいじめていいんだ」

「あいつは頭が悪いからいじめていいんだ」

だがどんな理由や前提条件があっても人をいじめていいはずはない。
 

年齢を重ねようが同じようなことは繰り返される。いわゆる「普通の人」が大勢参加しているSNSで、おっさんが女性に送ったラインやメールが晒されるというのをよく見かける。個人的に送った文章を大勢の前に晒し笑いものにする。これは侮辱にあたる行為だと思うが、やってるほうにしてみればおっさんはキモイのだから笑いものにしてもいいんだ、という免罪符をもっているのでその行為に抵抗がない。
 
他にも、SNSにスーツの自撮りをアップしただけで「サスペンダーもネクタイもダサい」と晒されたツイートが数千いいねをもらったりしている。この場合も、こいつはクソダサいんだから笑いものにしていいんだという意識が根底にある。
 

どこかで誰しも差別的、侮辱的行為を楽しみたいという欲望をもっている。人間はそういうものだ。

差別意識を克服できたことなどない。そんなにすぐに高尚な存在にはなれない。

 

そういう視点で見たときに人がどうしても持ってしまう差別思想のガス抜き装置としてお笑い芸人という職業があるんじゃねえかと。

お笑い芸人だから、笑ってもいい。だって彼らはそれがお仕事で給料をもらっている。人を笑わせ、ときに自分の欠点やコンプレックスを晒し笑いものになる。あえてそうなってくれている。

 

普通に暮らしている人を笑いものにするのとは根本的に意味が違う。ただ、お笑い芸人はあえてそういう立場でいてくれているのだということを見る側は忘れてはいけない。芸人個人の尊厳を真に傷つけるようなことはすべきではない。それは芸人の笑いの範疇ではない。

 

アンガールズ田中さんやハリセンボン近藤さんは「キモイ」「ブサイク」と笑いものにされた経験を「お笑い」にすることで救われたり周囲に受け入れられたことを語っている。それを思うと差別や侮辱をやめよう、で済む簡単な話ではない。

差別や侮辱を排し、田中さんや近藤さんがブサイクをネタにしたとき「ここで笑っては差別だ」と目を伏せ黙り込むのは田中さんや近藤さんが覚悟して選択したお笑いに対してむしろ失礼にあたるのではないか。

 

一方で、渡辺直美さんのように差別的なお笑いにNOの態度を取る芸人がいてもよいと思う。

「私は容姿いじりを笑いにするタイプの芸人ではありません」と前面に押し出すのは新しくていい。ただ、その方向性が唯一正解であるように扱うのは違う。

 

渡辺直美さんのやり方が新しい時代の正解で、それ以外はダメとなってしまうと「○○さんのお笑いのやり方は古くてダメ」にとどまらず「○○さんはくだらない」「○○さんはクソ」など個人への人格攻撃に行き着くことは容易に想像がつく。言葉狩りのようになって「○○さんのあの発言は差別、侮辱に当たるのでそんなヤツは攻撃してもよい」というところまで簡単にいきつくことだろう。差別に敏感になりすぎるあまりベクトルを変えただけのまた新たな差別になってしまう。

 

渡辺直美さんのような芸人が出てきたのはお笑いの方向性が増えたということで、時代が変わった、これからはこの方向性になると言い切ってしまうのは極端な話だ。

 

ほんとうに大人から子どもまで差別的思想から脱却し、互いに侮辱することのなくなった美しい世界ならまったく差別表現の無い、侮辱表現の無いお笑いに溢れてもいいだろうが、そんな理想郷はこない。

相変わらず私たちは誰かを差別するし侮辱する。

 

ただ「お前のカニのマネすげーきもちわるいな!でもめちゃくちゃ面白いしお前のファンになった」だとか「シュレックみたいな顔ですね、でもキャラクター的なかわいさがあって好きです」みたいな侮辱と好意がないまぜになった感情もきっとある。

 

人間が捨てきれない差別を、侮辱をユーモアで乗り切ることをお笑いは示してくれていて、それでいいんじゃないかと思う。白か黒かで簡単にすっぱりとは割り切れないものを濁った灰色のままにしておく。

清廉潔白なお笑いを、少なくともおれ個人は求めていない。

 

 

 

 

なんとなくの日々

ふと思う。みんなしんどくないのかな、と。

生きていくこと、あまりにしんどくないか。

 

生きていくにはお金を稼がなきゃいけない。

自分が無能で社会に上手く適合できないのだとしても

あるいは精神に障害があったのだとしても、

お金だけはなんとかしなくてはいけない。

 

薬を飲んだりムリヤリ自分を啓発して奮い立たせて、

疲れのとれない体で満員電車に乗り込み会社へ行く。

心ない経営者や上司と折り合いを付け

なるべく波風をたてないよう円滑にコミュニケーションをとり、

したくもない笑顔を貼り付けて夜遅くまで労働をする。

疲弊し帰宅したあとには自分の時間を楽しむ時間もエネルギーもない。

せいぜい酒に逃げるくらいしか自分を慰める術がない。

立派な大人。

 

それほど人生を切り売りしても手にする給料もわずか。

昇給もたいしてのぞめない。人生のお値段。

それでも平均的な日本人におさまるには

良好な人間関係を保つための努力をし

パートナーを捜し家庭をもち子どもを育て

老後の備えもしなければならない。

立派な大人。

 

ああ。

 

自分の無能さや不器用さをどんなに思い知っても

逃げ場はない、己の足場を崩すわけにもいかない。

誰かに攻撃されるくらいなら、攻撃する側でいるほうが楽だ。

立派な大人。

 

テレビをつける。ネットをみる。

災害、過労自殺、通り魔、子どもへの虐待。

不条理な死。

経営者たちが発する無能は淘汰されるべきと言う力強いメッセージ。

弱者は死ね。弱者は死ね。

あらゆる対立軸で巻き起こる啀み合い。

男はクソ。女はクソ。老人はクソ。オタクはクソ。日本はクソ。

訳知り顔のコメンテーター。

飯や商品を紹介するだけで莫大な金をもらう芸能人。

まあこわい。まあすごい。まあ美味しい。

 

ああ。

 

…それで?

  

物語の中ならいつか決着や区切りがつくのだろうが

現実にはそうはいかず、長く生きれば生きるほど

消化できない出来事やぐちゃぐちゃとした

名前のない感情がふりつもっていく。

 

なんとなくまだ今日は続いている。

なんの解決もないまま。

 

きっとこの世にあるであろう幸せにたどり着くことは

針の穴に糸をとおすよりむずかしい。

わずかばかりのいくらかマシなものを集める。

それが?

 

悟り切った態度を取るか、

あるいは麻痺してしまうのがいい。それがいい。

だけれどそう言ってみたところでどうしようもない。

 

みんなはしんどくないのかな。

おれはしんどい。ひたすらにしんどい。