するとして

おれは社会に適合できないうつ病患者で、

今のところ治る見込みもない。

非生産的な人間だ。

職も金もなく失うものはとりたててない、

無敵の人だ。

 

犯罪者になってしまったり、

長い苦痛をともなう病を患ってしまうより前に

自分で決着をつけるのが一番いいに決まっている。

 

決まっているのにそれを実行できずにいるのは

単純に死ぬのがこわいからだ。

死ぬ際の痛みや失敗を考えると踏み切れない。

 

それに

ここのところ自死について考えていて、

自死するにあたって一番こわいのは

「まさに死ぬとなった瞬間にわいてくるであろう様々な感情」

だと思い至った。

 

たとえばロープに首をかけ体重を預ける瞬間。

この人生に対する憎悪とか哀しみとか虚しさとか、

いくつかの幸福な出来事についての未練とか、

犬や猫に会えなくなるさみしさとか、

そもそも生まれるべきでなかった自分への落胆とか、

残された人への申し訳なさとか、

そういう思いがいっきに押し寄せるはずで

それは肉体の痛みよりずっとずっと恐ろしい。

 

おれはそのどうしようもない感情に飲み込まれたくない。

それが死そのものよりもこわい。

そういう感情の濁流は生きているからこそわいてくるもので、

生きるということは死に直面しようとするときでさえ

どこまでも追いかけてきておれを苦しめる。

 

やはり生ほどこわいものはない。

 

今日はいい天気だし鼻歌まじりに死んでみるか、

くらいの軽さでこの世界からいなくなりたい。

ふわっと。

じゃあまたね、くらいのかんじで。

 

すべてのノリのすべて

 「すべてのノリについていけない」

おれはそのようにツイートしたことが数回ある。

この一言でおれの人生について、すべて説明がつく。

 

この世にはありとあらゆる場、集団にノリが存在していて

人は自分にフィットするノリをもつ場や集団に属する。

そしてその中でノッリノリになる。

 

学校にも、会社にも、地域にも、家庭にも、

趣味の集まりにも、政治的な団体にも、宗教団体にも、

それぞれ固有のノリがある。

またひとつの団体、集団の中に

いくつかのノリが共存していたりもする。

学校だとスクールカーストとか言われたり

社会人になっても陽キャ陰キャだと別れている。

 

まあともかく、普通の人はみんな何かしらのノリに

うまいこと乗っかることができる。

 

たとえば陽キャのノリについていける人は

大学じゃ仲間で騒ぐだけのサークルに入って、

飲みだライブだ、夏には友達みんなで

海でバーベキューだ。

恋愛にも積極的、流行りにも敏感、

ワンピース泣ける仲間絆最高、

インスタに映えるようなキラキラした

青春を生きるんだろう。

そうして培った自己肯定感を武器に

どこまでもノリノリで生きていくんだろう。

仲間の死さえ自分の人生のノリの一部。

最高の仲間にマジ感謝、お前の分まで夢叶え、

見守っていてくれよなマジアツい友情。

ノリノリである

 

一方そんなノリについていけず日陰を行く人もまた、

それなりに色んなノリを楽しんでいるもんだ。

アニメやマンガ文化を彩るイベントは目白押しだもの。

学校でオタクだなんだとキモがられても、

学校を離れオタクオミュニティに参加すれば

そこにはたくさんの同じ趣味の仲間たち。

気持ちわるい発言を責めるヤツはいないぜ。

仲間意識を強める定型文には事欠かないぜ。

尊い、しんどい、わかりみが深い。

最近のコスプレーヤーさんは可愛いし

オフパコという単語に過剰反応。

ノリノリである

 

陽キャ陰キャだに関わらず意地の悪い人が集まれば

ノリでいじめをやってみちゃう。

ノリで悪口を浴びせ、ノリで人の物をこわし、

ノリで恐喝し、ノリで自殺に追い込む。

その顔はやはりノリノリである

 

新興宗教にどっぷりの人。

言うまでもなくノリノリである

 

真っ当な人間はノリについていけるんだろうと思う。

ノリノリなのがまともな人生。

意識するしないに関わらず、

ノリノリで生きるに値する楽しみを見いだす。

これがまともである人間の人生だ。

 

ひるがえって考える。

おれ自身はこの世に溢れるノリのどれにもついていけなかった。

子どもの時から今現在まであらゆるノリについていけない。

ノリが発生するとどうしたらいいかわからなくなる。

ネットでよく見かける文章に

「友人3人で集まると自分以外の2人が楽しく話していて

自分はいつも1人置いてけぼり」というのがある。

おれは人生常にこの「置いてけぼりの1人」であった。

あげく精神を病んだ。うつ病だ。

社会の大きなノリに乗り切れなかった者の末路。

昨今はこうした「うつ」発達障害」を個性だ何だとノリに変えて

世間にうって出るという新種のノリも出現してきた。

この手のノリには心底うんざりする。

 

ノリきれなかった人がノリきれなかった経験を

深刻に、ときにおもしろおかしく語ることで

新しいノリに変換しようだなんて、もう何が何だかわからん。

でもそうまでしてでもノリノリになることは大事なんだろう。

ノリとはつまり社会とのつながりそのものだからだ。

 

すべてのノリについていけなかった人、

というは別におれだけではなく。

ガチで引きこもっている人とか、

他者との接触が極端に少ない人はそうなんだろう。

そして、いわゆる「無敵の人」も。

加藤智大も小島一朗もやはりありとあらゆるノリに

ついていけなかったんだろうなと。

もし何か彼らなりにノリノリになれるものや場所があったら

違っていたのかもしれない。

あるいはすべてのノリについていけず、

唯一自分なりのノリノリを追い求め

ああいう結果になったのかもしれない。

 

世間のノリからはずれてしまった人がそれでもいいじゃないかとなる逃げ場が

どこかにあればいいなと思うが、ノリというのは恐ろしい魔物のようなもので、

逃げた先にもまた新たに生まれてしまうんだ。こわ。

 

そうなればやっぱり刑務所みたいに淡々としている場に憧れてしまう。

作業はあるが、たとえば上司に人間的成長を迫られたり、仲間意識を強制されない。

それで最低限の食と休息は保証されている。

(休息については普通に勤めるよりちゃんとしてる)

こういう静謐な日々を暮らしたい人は実は多いんじゃないのか。

少なくともおれは憧れる。

 

だからといって他人をアレしてまで刑務所に行こうとまではそんなに考えない。

自分はノリについていけない人間であることをちゃんと自覚しておき、

あとはいかにノリと無縁の静かな暮らしをするのか考えたいだけだ。

 

30数年生きて、何とか世間のノリについていこうとがんばってはみたが、

もはや最近は抗うつ薬もきかなくなってきてしまった。限界なんだ。

ムリなものはムリだ。

 

答えはすでにあって

「十分な金を稼ぎ、すべての人々から遠ざかりたい。」

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

圧倒的な正解だ。

これがクッソむずかしくてやってらんねえなクソが。

刑務所か、縄か。どちらもおれを呼んでやがる。

 

 

  

潔白なお笑い

最近SNSなどで「人の容姿をいじって笑いにするのはもう古い」「そういう笑いは淘汰されつつあり新しい時代がきている」というような意見をみる。

 

まあ、そうなのかもしれない。でもなんだか違和感がある。なんだべ。

 

そもそも他人の容姿や身分や性別を理由に侮辱したり嘲笑したりする行為は許されるべきではない。それは大前提だ。

 

その上で、お笑い芸人は一般的には侮辱にあたるような行為を「笑い」に変えてきたし、変えている。だがそこにNOと言う人が多く出てきた。「笑えない」「見たくない」「差別的だ」、なるほど確かにそういった捉え方もあるのはわかる。

ではそういった笑いはすべて排除されるべきなのか。

 

まずお笑い芸人の側から考えると芸人の多くはこの「差別的」「侮辱的」な扱いを「必要」としていることは明白である。

「ブサイク」「デブ」「ハゲ」「ガリガリ

これらを自身のキャラとし、ネタとして人前で披露することで仕事を得ている芸人はかなりいる。トレンディーエンジェルがハゲネタを禁止されたら困るだろうし、アンガールズの田中さんがカニのモノマネをしても気持ち悪がるのはやめましょう、みたいな空気になったらやりにくいだろう。

 

では逆にお笑い芸人ではない人、お笑いを見る側の視点で考えるとどうなのか。お笑い芸人ではない人たち、つまり私たちは差別的な、侮辱的な表現をまったく求めていないのか。他人に対する差別や侮辱行為を排除できているのか。

昨今のSNSなどで起こる出来事をみるととてもそうはなっていない。

 

普段差別的な発言や侮辱的な行動をしないひとでも条件や環境によっては差別的な思考に偏る。たとえば、こいつは○○だから笑いものにしてもいいだろう、という条件付けがあると人はたやすく差別主義者になれる。正しい側にいるという免罪符は何よりつよい。

 

子どものいじめの多くはそういった意識から生まれる。

「あいつはキモイからいじめていいんだ」

「あいつは暗いからいじめていいんだ」

「あいつは頭が悪いからいじめていいんだ」

だがどんな理由や前提条件があっても人をいじめていいはずはない。
 

年齢を重ねようが同じようなことは繰り返される。いわゆる「普通の人」が大勢参加しているSNSで、おっさんが女性に送ったラインやメールが晒されるというのをよく見かける。個人的に送った文章を大勢の前に晒し笑いものにする。これは侮辱にあたる行為だと思うが、やってるほうにしてみればおっさんはキモイのだから笑いものにしてもいいんだ、という免罪符をもっているのでその行為に抵抗がない。
 
他にも、SNSにスーツの自撮りをアップしただけで「サスペンダーもネクタイもダサい」と晒されたツイートが数千いいねをもらったりしている。この場合も、こいつはクソダサいんだから笑いものにしていいんだという意識が根底にある。
 

どこかで誰しも差別的、侮辱的行為を楽しみたいという欲望をもっている。人間はそういうものだ。

差別意識を克服できたことなどない。そんなにすぐに高尚な存在にはなれない。

 

そういう視点で見たときに人がどうしても持ってしまう差別思想のガス抜き装置としてお笑い芸人という職業があるんじゃねえかと。

お笑い芸人だから、笑ってもいい。だって彼らはそれがお仕事で給料をもらっている。人を笑わせ、ときに自分の欠点やコンプレックスを晒し笑いものになる。あえてそうなってくれている。

 

普通に暮らしている人を笑いものにするのとは根本的に意味が違う。ただ、お笑い芸人はあえてそういう立場でいてくれているのだということを見る側は忘れてはいけない。芸人個人の尊厳を真に傷つけるようなことはすべきではない。それは芸人の笑いの範疇ではない。

 

アンガールズ田中さんやハリセンボン近藤さんは「キモイ」「ブサイク」と笑いものにされた経験を「お笑い」にすることで救われたり周囲に受け入れられたことを語っている。それを思うと差別や侮辱をやめよう、で済む簡単な話ではない。

差別や侮辱を排し、田中さんや近藤さんがブサイクをネタにしたとき「ここで笑っては差別だ」と目を伏せ黙り込むのは田中さんや近藤さんが覚悟して選択したお笑いに対してむしろ失礼にあたるのではないか。

 

一方で、渡辺直美さんのように差別的なお笑いにNOの態度を取る芸人がいてもよいと思う。

「私は容姿いじりを笑いにするタイプの芸人ではありません」と前面に押し出すのは新しくていい。ただ、その方向性が唯一正解であるように扱うのは違う。

 

渡辺直美さんのやり方が新しい時代の正解で、それ以外はダメとなってしまうと「○○さんのお笑いのやり方は古くてダメ」にとどまらず「○○さんはくだらない」「○○さんはクソ」など個人への人格攻撃に行き着くことは容易に想像がつく。言葉狩りのようになって「○○さんのあの発言は差別、侮辱に当たるのでそんなヤツは攻撃してもよい」というところまで簡単にいきつくことだろう。差別に敏感になりすぎるあまりベクトルを変えただけのまた新たな差別になってしまう。

 

渡辺直美さんのような芸人が出てきたのはお笑いの方向性が増えたということで、時代が変わった、これからはこの方向性になると言い切ってしまうのは極端な話だ。

 

ほんとうに大人から子どもまで差別的思想から脱却し、互いに侮辱することのなくなった美しい世界ならまったく差別表現の無い、侮辱表現の無いお笑いに溢れてもいいだろうが、そんな理想郷はこない。

相変わらず私たちは誰かを差別するし侮辱する。

 

ただ「お前のカニのマネすげーきもちわるいな!でもめちゃくちゃ面白いしお前のファンになった」だとか「シュレックみたいな顔ですね、でもキャラクター的なかわいさがあって好きです」みたいな侮辱と好意がないまぜになった感情もきっとある。

 

人間が捨てきれない差別を、侮辱をユーモアで乗り切ることをお笑いは示してくれていて、それでいいんじゃないかと思う。白か黒かで簡単にすっぱりとは割り切れないものを濁った灰色のままにしておく。

清廉潔白なお笑いを、少なくともおれ個人は求めていない。

 

 

 

 

なんとなくの日々

ふと思う。みんなしんどくないのかな、と。

生きていくこと、あまりにしんどくないか。

 

生きていくにはお金を稼がなきゃいけない。

自分が無能で社会に上手く適合できないのだとしても

あるいは精神に障害があったのだとしても、

お金だけはなんとかしなくてはいけない。

 

薬を飲んだりムリヤリ自分を啓発して奮い立たせて、

疲れのとれない体で満員電車に乗り込み会社へ行く。

心ない経営者や上司と折り合いを付け

なるべく波風をたてないよう円滑にコミュニケーションをとり、

したくもない笑顔を貼り付けて夜遅くまで労働をする。

疲弊し帰宅したあとには自分の時間を楽しむ時間もエネルギーもない。

せいぜい酒に逃げるくらいしか自分を慰める術がない。

立派な大人。

 

それほど人生を切り売りしても手にする給料もわずか。

昇給もたいしてのぞめない。人生のお値段。

それでも平均的な日本人におさまるには

良好な人間関係を保つための努力をし

パートナーを捜し家庭をもち子どもを育て

老後の備えもしなければならない。

立派な大人。

 

ああ。

 

自分の無能さや不器用さをどんなに思い知っても

逃げ場はない、己の足場を崩すわけにもいかない。

誰かに攻撃されるくらいなら、攻撃する側でいるほうが楽だ。

立派な大人。

 

テレビをつける。ネットをみる。

災害、過労自殺、通り魔、子どもへの虐待。

不条理な死。

経営者たちが発する無能は淘汰されるべきと言う力強いメッセージ。

弱者は死ね。弱者は死ね。

あらゆる対立軸で巻き起こる啀み合い。

男はクソ。女はクソ。老人はクソ。オタクはクソ。日本はクソ。

訳知り顔のコメンテーター。

飯や商品を紹介するだけで莫大な金をもらう芸能人。

まあこわい。まあすごい。まあ美味しい。

 

ああ。

 

…それで?

  

物語の中ならいつか決着や区切りがつくのだろうが

現実にはそうはいかず、長く生きれば生きるほど

消化できない出来事やぐちゃぐちゃとした

名前のない感情がふりつもっていく。

 

なんとなくまだ今日は続いている。

なんの解決もないまま。

 

きっとこの世にあるであろう幸せにたどり着くことは

針の穴に糸をとおすよりむずかしい。

わずかばかりのいくらかマシなものを集める。

それが?

 

悟り切った態度を取るか、

あるいは麻痺してしまうのがいい。それがいい。

だけれどそう言ってみたところでどうしようもない。

 

みんなはしんどくないのかな。

おれはしんどい。ひたすらにしんどい。

 

 

アニメーター哀歌

10年ほど前、アニメーターとして働いていた。月に25〜28日朝から晩まで働き、月給は5万円以下だった。心身ともにボロボロになり1年で辞めた。

 

当時の給与明細が出てきてツイッターにアップしたところたくさんの反響があった。

 

多くの人がアニメは低賃金だとウワサには聞いていたようだが、実際にあまりに低い給与明細を見ておどろいたようだ。そりゃそうだ。クールジャパン。Yes! So cool.

 

低すぎる賃金がおもしろネタとして忘れ去られないうちにアニメ業界について思うところをまとめておこうと思う。

 

●新人アニメーターの現実

アニメ業界といっても業種は、編集、制作進行などいろいろとあるがよく問題として語られるのは主に作画部門の待遇だ。まず新人アニメーターは動画を担当する。動画とは原画(動きのキーポイントとなる絵)の間の絵を描いていく仕事だ。たとえばキャラが歩くアニメーションであれば、原画には右足を前に出している絵と左足を前に出している絵が描かれていて、動画担当者はその間の足を前に出す途中の絵を描くことになる。そして、それらを全てクリンナップして線をキレイに整える。その後デジタル担当者がコンピュータ上で着彩する。皆さんが目にするアニメの絵は全て動画マンがクリンナップしたものだ。テレビアニメであれば1秒間に8枚の絵が必要になる。劇場版であれば1秒間に12枚だ。アニメ業界では動画1枚あたりに単価がついていて主に出来高制となっている。この動画単価の相場がおよそ200円前後である。「動画を月に300枚描ければとりあえず動画マンとしては一人前だ」と言われたことがある。200円×300枚で6万円だ。もう一度言うぞ、月に25〜28日大の大人が朝から晩まで働き、月給が6万円である。ガキの使いやあらへんで。

最近は固定給+出来高制を採用しているスタジオもいくつかあるが、固定給は多くても5万円ほど。新人アニメーターの平均月収はおよそ9万だと言われている。それでいてアニメスタジオは東京都に集中している。上京し一人暮らしをしながら働こうにも生活が成り立たない。新人アニメーターは貯金を切り崩しながらギリギリの生活を続けるか、親御さんによる仕送りに頼るしかない。これが新人アニメーターの現実だ。

おそらく多くの新人アニメーターが自分の待遇に疑問を持つはずだが、「最初は皆こんなもんだ」「好きな仕事ができているのだから我慢しなきゃ」「いずれは原画を担当して稼げる」などと周囲に言われたり、もしくは自分に言い聞かせてなんとか耐えている。

 

●アニメーターは芸術系の仕事なのか

アニメの仕事のことを「芸術系の仕事なんて金にならないのが当たり前」と言う人がいるが、それは着眼点がズレている主張だ。

アニメの仕事は「誰に頼まれるでもなく好きで芸術作品を制作してるが、売れないので貧乏だ」という状態とは違うのである。アニメーションは放送局や制作会社からこういう作品を作りたいという正式な注文があり、完成したコンテンツは電波にのって放映されたりDVD化されたりする。つまりは世の中に需要があり、利益につながる「製品」をつくる仕事だ。8分の1秒しか画面に映らない動画1枚でもその「製品を成立させるための部品」として充分な価値をもっている。事実放送されているアニメーションに使われているのだから。アニメーターとはそういう仕事をしているのだ。

それなのに生活できないような賃金しか得られない、「需要のある製品をつくっているのにも関わらず労働に価値がないように扱われている、不当な賃金で買いたたかれている」という状態が問題なのだ。

また、当然のことだが原画の間の絵を描くといっても絵の技能が低くてもやれるわけではない。まず何より素早く絵を描くことが要求される。さらに絵を立体的に捉えること、物理法則を理解していること、人体の構造が分かっていることなどが必要とされる。求められる技能に対してあまりにも対価が安いのである。

 

●拘束時間が長くなおかつ低賃金、そして偽装請負

例えば売れていない芸人ならばそもそも仕事が少ないのでその他の時間でバイトをするなどして生活をつなぐことは出来るが、アニメーターは月25〜28日びっしり働くので(スタジオによってはもっと)その他の仕事で生活費を稼ぐ術がない。かといって、「生活のために作画の仕事は週2日ほどにして空いた時間に別の仕事をします」とスタジオに申し出ればおそらく「そんなやる気のないヤツは来なくていい」と言われる。しかしこういった主張をはね除けるためには、スタジオ側はアニメーターをちゃんと社員として雇用している必要がある。

社員として契約されていないアニメーターはフリーランス、つまり個人事業主として働いているので仕事をする場所や時間を個々にきめる裁量を有している。アニメ業界はこのあたりを曖昧にして、実態として雇用状態である(勤務地や勤務時間の指定など指揮命令をしている)にも関わらずアニメーターを個人事業主として扱うことが常態化している。これは偽装請負という違法行為である。雇用状態にあっても個人事業主扱いとすることで、多くのアニメスタジオは労働基準法の適用、各保険料負担、健康診断を受診させる安全配慮義務、有給休暇の付与などの雇用する側の義務から逃れている。

このあたりのことをうやむやのまま放置していることも、アニメ業界における大きな問題である。普通に犯罪が放置されてるのがウケる。

 

●それでも人が集まるのは何故か

上記のようなあまりにもおっそろしい環境であるはずのアニメ業界だが、それでもよい人材がつぎつぎにアニメ業界に入ってきている。これはなぜかと言えば答えは簡単で「アニメが人気だから」である。若い人の憧れの職業である、というだけで何とかまわっているに過ぎない。アニメ業界と似た体質をもつのがいわゆる日本の伝統工芸業界だ。見習いのうちには基本的に給料がない。師匠や先輩は丁寧に教えてくれたりもしないしマニュアルもない。見て盗めの一点張り。何年も耐えてかじりついて技術を身につけようやく職人として独り立ちできる。このようなやり方はその職業、職能が人気のうちは成立する。業界をあげて人を呼ばなくても育てなくても、勝手にどんどん入ってくる人材を雑なやり方でふるいにかけて勝手に才能あるやつが生き残る、という仕組みで回っていく。

だが一度人気が落ちればすぐになり手がいなくなる。入ってきたとしても、これまで人をちゃんと育ててこなかった業界に人材を育成することは難しい。そういう風にして失われてしまった、また失われつつある伝統工芸や技術がたくさんある。アニメ業界はこのような伝統工芸の業界が直面している事態の一歩手前にいる。ギリギリである。若い人たちの人気が落ち込んだとき、アニメ業界は瞬く間に落ちぶれてしまうはずである。そうなった場合アニメ業界に打つ手はあるのか。

それでもおそろしいことに、アニメ業界には「今の業界についてこれないような才能のないやつはこなくていい」という態度をとる人もいるのだ。それは自分たちの足場を崩す選択だ。どんな業界でも突出した才能だけを集めて成り立っているわけではない。目立つような突出した才能がなくともその業界にその仕事に尽力したい人たちこそ、その業界を支える基礎だ。基礎が弱いまま、裾野がせまいまま先鋭化するのはそれだけ変化や外圧に弱くなるということだ。

 

● この先は

じゃあどうすればいいのか。上に書いたようなことを解決していくしかないわけだが、どうすれば。これはもうほとんど打つ手がない。最近では新人アニメーターのためにクラウドファンディングで資金を募り、格安の寮を運営しようという動きがある。もちろん支持するし、若い人のために具体的に動いている人たちには頭が下がる。しかし同時にむなしさも感じる。この運動は「もうアニメーターの給料が改善することはないので、働く側が何とか対応しよう」というものだ。諦めゆえの苦肉の策なのだ。なぜこんなことになってしまったのか。アニメ制作は広告会社、放送局、出版社など多くの企業が関わり、一概にどこが悪くてどこを改善すればいいとは言えない。いっそ今の体制がすべて立ち行かなくなって一度アニメ業界が崩壊しまったく新しい制作の流れができるまで待った方が早いのかもしれない。あるいは日本のアニメ大好きな石油王を探し出しアニメにガンガンお金を出してもらうか。そんな夢物語を思ってしまう。

それではあまりにもなので、可能性があるとすれば現在の制作体制とは別の流れでアニメを作れないかと考える。例えば、地域密着でアニメを作れないか。アニメ制作にたずさわりたい若者は全国にいるはずだが現状東京近辺にスタジオが集中しているため、リスクを負って上京せざるを得ない。これを地方にアニメスタジオをつくることで、若者が勤務しやすい環境にする。そして、その地方のローカルテレビ局や地域の企業に対し協力や資金を募る。どんな企業が協力してもいいがあくまで「出資者」と「制作者」というすっきりした立場をくずさない。CMもアニメで作って、ローカル局とインターネットで放映する。今やどこで作られたコンテンツだろうと全国そして世界向けに発信することは可能だ。話題になれば地域おこしとしても成功する。そうすれば地元企業の協力も増える。うまく循環すればシリーズ化できるし、ご当地キャラクターとしても売り出していける。というようなアイデアを夢想している。

私はアニメが好きだ。だからこそ強い憤りを感じる。やはり一番いいのは今あるアニメ業界が自浄能力をもって改革していくことだ。その第一歩としてどうしたら現場にお金が回るのか、情熱をもってやってくる若者たちに報いることができるのか、そのことを早急に解決してもらいたい。まずはそこからである。アニメーターが若い人たちにとって本当の意味で憧れの職業であってほしい。そう願ってやまない。

というのはまあ嘘で、アニメ業界はさっさと滅びたほうがいくらかマシだと確信している。ひゃっほう。

 

高畑勲さんが危惧した「清太を糾弾する私たち」

アニメ監督の高畑勲さんが亡くなった。

高畑勲さんは「太陽の王子ホルスの大冒険

アルプスの少女ハイジ」「赤毛のアン」などの演出を担当し

日本におけるアニメーションの新たな方向性を示した人物だ。

 

その中でも日本人なら誰しも一度は観たことがあるほど

有名な作品といえば「火垂るの墓」だろう。

高畑勲さんへの追悼として4月13日の放映が決まったそうだ。

 

火垂るの墓」は多くの人に様々なトラウマを植え付けた作品でもあるはずだ。

映画冒頭、駅構内で死を迎える清太。

爆撃により大やけどを負う清太の母。

徐々に衰弱していく節子。

衝撃的なシーンが多くあった。

 

そしてまた、直接的な残虐さではないが今なお

火垂るの墓」において多く語られるのは

母を亡くした清太たちの受け入れ先となった親戚の叔母さんの言動と

その後の清太の行動についてだ。

身寄りのない清太と節子の面倒をみることとなった叔母さんは、

ふたりにつらく当たる。

『あんたらは お米ちっとも出さんと

それで御飯 食べたいいうても そらいけませんよ!

通りません!』

『なんや!そんならおばさんが ズルイことしてるいうの!

えらいこというねえ!

みなしご 二人あずかったって そう いわれたら世話ないわ!

よろし!うちと あんたらと 御飯 別々にしましょ!

それやったら文句ないでしょ!』

 

 それに耐えかねた清太は節子とふたり家を出て防空壕で暮らすことを選択する。

しかし子どもだけで生活しているがための情報不足、配給の遅れなどが原因で

節子は栄養失調となりやがて命を落としてしまう。

 

この物語の一連について多く見られるのが

「子どもの頃観たときには叔母さんが悪者に見えたが、

大人になって観ると清太のクズっぷりに腹が立つ」

「人様の家に置いてもらいながら、

手伝いもしていないし、一日中部屋でごろごろしている。

叔母さんが叱るのも仕方ない」

「清太がガマンの足りないボンボンだった。

叔母さんに頭を下げればよかった。

節子を殺したのは清太だ。」

というような意見だ。

「火垂の墓」悪いのは本当に叔母さん?清太が一番悪いとの声・・・ - NAVER まとめ

  

 

一方でこの一連について高畑勲さん自身がどう意識して

描いたのか、インタビューに残っている。

アニメージュ1988年5月号)

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あの時代、未亡人のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった。

清太はそれを我慢しない。

 

徹底して社会生活を拒否するわけです。社会生活ぬきの家庭を築きたかった。

 

無心に”純粋の家庭”を築こうとする。

そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。

しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。

 

おとなもみんな清太になりたがり、

自分の子どもが清太的になることを理解し認めているんじゃないんですか。

社会生活はわずらわしいことばかり、

出来るなら気を許せない人づきあいは避けたい、

自分だけの世界に閉じこもりたい、それが現代です。

 

清太の心情は痛いほどわかるはずだと思います。

 

現代の青少年が、私たちおとなが、心情的に

清太をわかりやすいのは時代の方が逆転したせいなんです。

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清太が間違った判断を下したのは確かだが、

全体主義から逆転し個人主義的な考え方が

広まってきた時代(公開当時1988年)において、

多くの人々は清太に共感するようになったのだと指摘している。

 

そしてさらに、ある種予言のようにこうも語っている。

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もし再び時代が逆転したとしたら、果して私たちは、

いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。

全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。

清太になるどころか、

未亡人以上に清太を糾弾することにはならないでしょうか、

ぼくはおそろしい気がします。

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前述の「清太が悪い」という意見はまさに

高畑勲さんが危惧していた事態である。

もちろん公開当初にも

清太には共感できないという人もいただろうし、

今現在も社会生活を拒絶した清太に共感をもつ人もいるだろう。

しかしそれでも「清太を糾弾する」流れが

これだけはっきりと見えてくるということは

この30年で社会の風潮や「空気」が変わったことはやはり確かなのだ。

 

全体主義に合わせられない者は悪。

非国民であると。

現代的な言い方をすれば、

社会に合わせられない者の無能さや愚かさは

「自己責任」でありそれによって困窮したり最悪命を落としても

それは同情されないものでむしろ責められるべきものある、と。

 

そういった視点を意識的、無意識的に関わらず

私たちは清太に向け始めているのだ。

 

これはいったい何だろう、と思う。

 

私たちは、なまじインターネットやスマホに触れ

過去になかった技術を使っているというだけで

なんとなく過去の人間たちより賢くなった、優れていると考えている。

 

過去(といっても当事者ではなく生まれる前の出来事)

と同じ失敗は繰り返さないと思い込んでいる。

しかしそれは本当だろうか。

 

たとえば今現在、生活困窮者や低所得層に対し

浴びせられる世間の声は「自己責任」という糾弾である。

「努力が我慢が足りない。

無能さや愚かさは罪だ。

本人が悪いのだから、助ける必要はない。」

 

戦時中、全体主義に合わせられなかった者を「非国民」と罵倒したことと

今、社会生活にうまく適応できない、脱落した者を「自己責任」と追いつめること。

そこに違いはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

 

全体主義から個人の時代へと進んできたはずである。

大家族は減り核家族化がすすみ、

携帯電話は一人一台。

集団は個人へと分割され続け

誰でもコンテンツを発信したり

ネット上で商売もできる。

趣味や生き方の多様性を広げそれを認め合っていこうと、

していたはずでしているのではなかったのだろうか。

 

なにか同時に揺り戻しが起こっている。

もちろん単純に「過去に戻ったのだ」というようなものではなく、

時代が進んだなりの、また新たな全体主義的な抑圧が迫っているのかもしれない。

戦時における反時代的行為を選んだ清太が1988年には共感され、

その30年後、2018年には再び反時代的だと糾弾されはじめている。

 

私たちは、

劇中に出てきた農家のおじさんのように

必死に謝る清太を袋だたきにするのかどうなのか。

堪忍してください。

堪忍してください。

 

 

 

 

 

 

衰退ドット

この国は縮小再生産のいっと。

衰退していくみらい。

きっとすべてはドット絵のようになる。

少ない容量のなかでうまいことやっていくしかない。

たぶんそれほどぜつぼう的ではない。

にほんにはそれが合っているかもしれない。

でもうつくしいドット絵がうてるようになるにも時間はかかる。

まだ先のはなし。

だがしかし

PS4やswichになれしたしんだ子どもたちからそれらをうばい、

もういちどファミコンであそぼうぜと言わなければならぬ。

その過程はあまりすてきな話じゃない。

でももはやそうするしかない。

ドット絵をもういちど、ドット絵を打とう。