幸福論

幸せな人ってのは不幸に出会わない。

なに普通のこと言ってんだ。

 

幸せな人は大抵円満で生活や進学に困らない家庭に生まれる。

大切に育てられる。学校でもうまくやれる。いじめに遭遇しない。

周囲の人間関係にも恵まれる。

好きなことを素直に楽しめる健全なこころで、

仕事もうまくこなし、未来に希望を持ち生きていく。

 

幸せって「なる」ものじゃなくて

「不幸をいかに回避するか、遭遇しないか」ってだけじゃないのかと。

上から来るぞ!気をつけろ!

 

衣食足りて礼節を知るじゃないけど、

人がよい状態にあるためには環境が重要なわけで。

 

クソのような環境の中でまともな人間性を保つのは難しい。

だからこそ困難な状況でも人間らしさを失わなかった人物を聖者と呼ぶのだろう。

たとえばアウシュビッツの収容所に入れられて、

他人をかばい死刑を受け入れるなんてほとんどの人間には無理だ。

 

誰もが不幸を回避して、まともでいられる環境を維持したいんだ。

この国で普通の幸せとされている状態にたどり着くまでにも、

 

(世の中には貧しい家庭や暴力を振るう親もいるなか運よく)

円満で生活や進学に困らない家庭に生まれて大切に育てられ

(学校でいじめられる子が多くいるが自分は標的にならず)

たのしい学校生活を送り

ブラック企業で頭のおかしな上司に詰められて精神を病む人を横目に)

まっとうなホワイト企業に就職。

性自認の問題に悩む人もいるらしいことは知っているがそれはともかく)

異性と普通に結婚し

不妊に悩む要因もなかったのし収入面も心配ないので)

子どもを二人つくり、幸せに暮らしています。

 

これだけの不幸を回避している。

でもそういう自覚はたぶん幸せな本人にはないのだろう。

これはきっと幸せであるために必要なもうひとつの要素なんだろう。

不幸を見ない、考えないという。ないこととする。

 

幸せな人は

「せっかくだから俺はこの不幸を真剣に考えるぜ!」とはならない。

いい悪いではなくそういうもんだ。

日本に生きている人のほとんどが

世界には紛争や飢餓にくるしむ人々がいるという

事実は知っていてもそれを真剣には考えないことと同じ。

 

不幸をクソ真面目に受け止めてしまうと

慈善活動化家か、宗教家か、もしくは詩人とか芸術家になるしかない。

 

そういうわけにもいかないから

とりあえず不幸を回避できている間は不幸をないものとする。

幸せは「とりあえず」の曖昧な状態でしかない。

 

かたや不幸には具体性があり最終的には回避しきれない。

どんなにうまく不幸を避けてきた人ですら、

辿り着くのは 老い、病、死と決まっているからだ。

終着点が決まっているのに生きること、

その始まりであるこの世に生まれるということ。

生老病死。苦界ですわ。

 

ああ、なんだ、なんでこんな文章を書いているんだっけ。

 

あー、この世に確固としてある不幸にたいして
人間が得られる幸のうすっぺらさにうんざりしているということだ。

 

どこまでも続く砂漠に放り出され500mlのペットボトルしか手元にはないんだ。

すぐに飲みきってしまう奴。人のペットボトルを奪う奴。

大事にとっておいてそのうちに干からびて死んでしまう奴。

それでも人間らしさを保てとかね、そりゃないぜ。

 

苦界をのりきるために僅かばかりの幸をすすりながら生きるってのは

なんとも割に合わない話じゃねえか。そう思わねえか野郎ども。

 

そりゃあ死だけが救いと思うしかない。思うしかないんだよ。クソが。

あ~生まれてきてよかった~。