とあるジョーカー

少し前にホアキン・フェニックス主演の映画「ジョーカー」を観た。ホアキンリバー・フェニックスの弟だということは見た後で知った。へえ。

ジョーカーといえば「ダークナイト」でのヒース・レジャーが演じたジョーカーが有名だ。ヒース版ジョーカーは演技もすごかったがそもそもキャラクターとして『狂気と悪意』の塊であるという意味合いが強かった。息をするように人を殺す、自分の苦痛すら笑う、自身について悲劇的な過去をいくつも語るがどれもすぐに嘘だと言う。普通に生まれた人間のなかに『狂気と悪意』が育ってジョーカーになったというよりも、すでに『狂気と悪意』がパンッパンにつまった存在としてある日何も無いところからポンと出現したようなキャラクターがヒース版ジョーカーだった。

一方でホアキン版ジョーカーはそうではない。貧しく不幸な、ありふれた存在である青年アーサーが徐々にジョーカーへと変貌していく一連が描かれる。ジョーカーの誕生を描いた作品なのだが必ずしもホアキン版ジョーカーが他作品のジョーカーのオリジナルであるわけでないのだろう。例えばヒース版ジョーカーとホアキン版ジョーカーでは内包する感情の質があまりに違う。ヒース版ジョーカーが持つのは混沌や破壊を純粋に迷いなく実行する透明感のある『狂気と悪意』であるのに対して、ホアキン版ジョーカーが持つのは葛藤と混乱と苦痛がない交ぜになった濁った感情だ。ホアキン版ジョーカーは映画のラストでこそ破壊を行い混沌を呼ぶがそこにはブレイクスルーした解放感なんぞない。はっきりした輪郭のない悪夢を見ているような、混濁した感情を引きずったままのジョーカー、それがホアキンが演じたジョーカーだった。

ヒース版ジョーカーはカリスマ性やある種の美しさをもっており、見ている側にカタルシスを感じさせる。普通に生きていても破壊願望やぶっ殺してやりたい奴の一人や二人誰しもいるわけだが(暴論)しかし一方そんな純粋な悪には自分はなれやしないということも当然理解して大半の人は常識的に日々を生きている。だがヒース版ジョーカーは気持ちいいくらいの勢いで破壊し殺す。そこには野球少年がメジャーリーガーのプレーを見たときのような憧れの感情が湧いてくる。いいぞ!ナイスプレー!そんなホームランをオレも打ってみたかった!そんな剛速球をオレも投げてみたかった!!

しかし、ホアキン版ジョーカーにそういった類のカタルシスはない。むしろアーサーが最初殺人を犯したところで俺は「ああ、やってしまった」と思った。その後もラストに向けてアーサーは何人も殺していくわけだがそのたびに「やめてくれアーサー」と感じずにはいられなかった。まるで自分が人を殺めたような気分の悪さがあった。

ヒース版ジョーカーの殺人と破壊は「手の届かない憧れのメジャーリーグ級スーパープレー」であるのに対し、ホアキン版ジョーカーの殺人と破壊は身近すぎ生々しさがそれを楽しむことを許さなかった。

もちろん、それはこの感想文を書いている俺個人の感じ方だ。アーサーがジョーカーに変貌したとき、態度の悪いエリートビジネスマンを撃ち殺したとき、カタルシスを感じた人もいるだろう。むしろそちらのほうが正常なのかもしれない。

映画の前半で描かれたアーサーというキャラクター像に俺は感情移入しすぎていた。貧しく、機能不全の家庭に育ち、精神を病んで、わずかな仕事で糊口をしのぐ生活。その仕事もクソガキどもにバカにされ蹂躙される。何かしらわずかな希望を描こうにも、現実がそれすら許さない。電車で前の席に座った子供を笑わせようとする、善意からのささやかな行動ですらうまくいかず疎まれる。クスリと無意味なカウンセリングでなんとかごまかす日々。望むのはただ優しく大きな存在に抱きしめてもらいたい、ということだけ。

アーサーがネタ帳に書いた「心の病をもつ者にとってもっともつらいことは周囲の、心の病など存在しないという目だ」という言葉。

そういったアーサー像に同じく精神を病み貧しい俺は共感してしまっていた。貧富の格差が、成功者と落伍者の格差が広がり精神を病む人が増えている今の世界において、同じようにアーサーに共感する人間は多くいるだろう。

ヒース版ジョーカーは遥か高みにいる唯一無二のジョーカーだったのに対し、ホアキン版ジョーカーはすぐ隣にいる「とあるジョーカー」の存在を示している。誰しも、とまでは言わないが世界から「お前なんていらない」「お前の居場所などどこにもない」と烙印を押されジョーカーのようになってしまう可能性を含んだ人間が多くいるんだと、そういう世界に俺たちは生きているのだと突き付けられた。そういう映画に感じられた。

ただ映画を観終わってしばらくたったとき、ふと思った。

ラストシーンの、カウンセラーとの「ジョークを思いついてね」「どんな?」「理解できないさ」というやり取り。

待てよ。ホアキン版ジョーカーも実はヒース版ジョーカーのように自身の過去、出自について嘘をつく、ジョークだよと言うキャラクターだったとしたら?

アーサーの「心優しい青年が悲劇的な運命と周囲や社会の悪意によって破壊されジョーカーへと変貌した話」それが全てジョーカーの嘘だったら?ジョーカーが「アーサーのような弱者こそがジョーカーになるのだ」という嘘の物語を世の中に放ち、それを受け取った弱者たちが「これは俺の物語だ」とか「俺が悪いんじゃない世界が狂っているんだ」「俺もジョーカーになる可能性がある」と感じたら、それはとても面白いジョークだと考えたのだとしたら。

この映画がヒットしていることそれ自体がジョーカーという『狂気と悪意』が仕掛けたジョークだという可能性すらある。

事実、「ジョーカー」の解釈や感想をめぐって記事を書いた人への誹謗中傷や悪意をぶつける行為を見かけた。「ジョーカー」が世に放たれたことで、より人々がいがみ合い憎しみ合い、人間の愚かさが露呈するような事象。それら全部をヒースが演じたジョーカーではなく、ホアキンが演じたジョーカーではなく、監督や脚本家が思い描いたジョーカーでもなく、実体のない『狂気と悪意』の塊としてのジョーカーが、どこかでニヤニヤと笑いなら眺めている気がしてならない。これぞ喜劇だと。