『なぜそんなに生きるのが「つらい」のか』の記事を読んでおれは思った「生きるのってやっぱつれぇわ」

日本における10歳~39歳までの死因1位は「自殺」だそうだ。ロシア・韓国とともに「若者の自殺率」が非常に高い国だという。日本が抱えるこの「生きづらさ」についてドイツ在住のライター雨宮 紫苑(しおん)さんが記事を書いていた。

若者の死因1位が「自殺」の日本、なぜそんなに生きるのが「辛い」のか(雨宮 紫苑) | FRaU

それを読んでなんとも言えない違和感に襲われた。おれはそれこそ常日頃「生きづらさ」を感じ自殺を考えない日はないうつ病の人間だ。そんなおれはこの記事を読んで「やっぱり生きるのってロクなもんじゃねえな」と思った。

まず記事の書き出しが

>ここ最近のトレンドなんだろうか。どうにも、「生きづらい」という言葉を見かけることが多い。

だ。生きづらさをいきなり「トレンド」扱いだ。人の生死が関わるシリアスな事柄について書こうというのにえらくふんわりドライな姿勢だ。まあそれは一旦置いておこう。雨宮さんは自身の体験を踏まえ、日本の日本人の「生きづらさ」を分析する。雨宮さんが言うには日本では「こうすべき」という固定観念が強過ぎる、他人にそれを強要するのもよくない。他人と比較する必要はない。「こうしたい」が尊重されるべきだ、ということだ。おおよその部分には賛成だ。ただやはり違和感というか、抜け落ちてる視点があるように思う。

ひとつに多くの人はそもそもチャレンジ精神にあふれているわけではないことだ。雨宮さんが例に出すような「突出した人物」になる必要性を感じておらず普通、平凡でいいのでつつましく暮らしたいと思っている人が実は多いこと。そして、そのつつましい暮らしさえかなわずに心身を壊す若者が多いことがこの国で起きていることなのだ。また、すでに労働でボロボロになっている大人たちや社会問題(上がらない賃金や過重労働、もらえるかどうか怪しい年金など)を見てつつましい暮らしがかなわないであろう未来を感じてしまい絶望する若者が多いことも大きな問題だ。

もうひとつ抜け落ちている視点として

>世の中には、大学を中退して起業した人、20代半ばから大学に入り直した人、40歳で単身海外移住に挑戦した人がいる。

こうした特殊な行動の先に「成功」したのであればいいが「失敗」した場合はどうなるのか。そこには触れていない。雨宮さん自身がおそらく「成功者」側の人間であるので、そこに想像が及ばないのかもしれないし、あえて書かなかったのかもしれない。この国では自己責任論が蔓延し脱落者や失敗した者に厳しい。「失敗した人でもとりあえずは生きていける」という社会的セーフティネットがすくないことも自殺率を高める一因となっている。

昨今「多様な価値を認める」や「好きを仕事にしよう」などという耳障りのいいスローガンが出てきたその反動で「突出した個性はみんなが持っている」「誰しも個性的であらねばならない」という誤解や「好きを見つけること」が義務化してしまったり、「好きをうまく仕事にできないヤツは無能」という発信までが世の中に出てきてしまっている。

本来的には「多様な価値を認める」や「したいことが尊重される」という言葉には「無個性、平凡でもよい」であったり「なにもしたくないことも尊重される」ことも含まれているはずだ。だが現実はそうなっておらず社会的に価値のある多様性やしたいこと(端的にはカネになるかどうか)しか認められていない。雨宮さんのような主張はつまり「金になる何かを成せ」ば生きていけると言っているに過ぎず、実は「生きづらさ」を解消する方法を一つも示してはいないのではないか。締めくくりに雨宮さんは

>テレビで取り上げられるような「オモシロイ人生を送っている人」にあなたがなっちゃえばいい。 

と言ってしまっている。

それだ。それこそが現代における「生きづらさ」の根源だ。

有名YouTuber?スポーツ選手?アイドル?大企業の社長?アーティスト?なんでもいい。とにかく結局「何者かにならなければ生きていけない」という巨大な固定観念と仕組みがありそれが世の中の苦痛の主たる原因なのだ。これは日本だろうがドイツだろうがおそらく関係ない。「何者かにならなければ価値がない」という人間がつくり出しそして信じきっている世の中の大前提、それが何より息苦しい。雨宮さんは

>他人と比較して「つらい」なんてナンセンス

と書いているが自殺を考えるほどの「生きづらさ」を抱えている人の多くはもはや他人との比較につらさを感じてはおらず、自分そのものの「無価値さ」に絶望しているのだ。否応なく叩き付けられる「無価値さ」。少なくともこの国で楽しく生きるにはそれだけでかなりの才能が必要なのだ。己の無価値さをはね除けるだけの才能、もしくは己の無価値さにまったく気付かない才能のどちらかだ。だからこそのこの自殺率の高さなのだろう。

テレビや本、あらゆるメディアがそそのかしてくる。「こうすればプロスポーツ選手になれる」「こうすれば金持ちになれる」「こうすれば有名YouTuberになれる」「こうすれば起業は必ず成功する」そのほとんどすべてが嘘だ。大谷翔平と同じことをしても誰しもが大谷翔平になれるわけがない。HIKAKINと同じことをしている人はそれこそ五万といるがそのほとんどがHIKAKINのような億万長者になんてなれやしない。どこかで気付く、自分が特別な人間ではないことに。テレビに取り上げられる「オモシロイ人生」なんぞ送れないことに。大量に産み落とされた子ガニのほとんどは大人のカニになる前に補食される。それが当たり前。だって全部のカニが無事に育ったら海はカニだらけになっちゃうもんね。自分は補食されるために生まれた側のカニだと自覚する。それでも人生は続く。その上でどうするかって話なんだろうがよ。

自殺率が低い社会を目指すのであれば「何者でなくても生きていける」「何者かになれなくても生きていてオーケー」「突出した才能がなくても大丈夫」という環境、風潮をつくっていくことが必要だ。社会全体の仕組み、システムをそういう方向へ少しずつでも向けていかねば若者の自殺率は減少しない。

すでに打ちひしがれ、心身がボロボロになった人に向けて成功者が「人生楽しんだもの勝ちだよ!」と元気な笑顔でハキハキ言っても何の解決にもならない。それでも個人にできることがあるとすれば、「多様な価値を認める」と言いながら「成功者しか認めない」という態度をやめること。失敗した者を追いつめないこと。また「好きなこと、したいことが尊重される」と言いながら「好きなことがない人を責めない」こと。なんにもしない、非生産的な人がいてもよいのだと寛容になること。

…と、そんな社会が、世界がくると思うか?おれは思わない。だからおれは今日もクスリを貪り食っているし、自殺のことばかり考えている。ただおれはそろそろ若者じゃなくなるから若者の自殺率だけは上げないつもりでいるぜ。よかったね!

 

 

小豆洗いクラブ

水木サンの短編にこんな話がある。山でひっそり小豆を洗うだけの日々を過ごしていた小豆洗いという妖怪のところに妖怪保存会の男がやってきて、街で暮らすことを勧める。人間の文明はすばらしい、その恩恵をきみも享受すべきだと言う。半ば強引に小豆洗いは街に連れてこられる。そこで小豆洗いはテレビ広告やポルノ雑誌を見る。「ここに映っているものはすぐ手に入るのかい?」と小豆洗いは問う。男は「手に入れるにはカネが必要だ」と答える。小豆洗いは「欲望ばかり刺激して生殺しにするのが文明というものか おれは小豆を洗っているほうがいい」と言い街を去ってしまう。

映画「ファイトクラブ」でタイラー・ダーデンはこう言う。「オレたちは広告を見て車や服を欲しいと思い、やりたくもない仕事をして欲しくもないモノを買っている。」「テレビにそそのかされていつの日か億万長者やロックスターになれると思っているが、誰もなれない。その現実に気付いてオレたちは心からムカついてる。」

小豆洗いもタイラー・ダーデンも同じことを言っている。この現代社会の資本主義社会の本質的なつまらなさ、退屈さ、無意味さ。カネと欺瞞にまみれ腐った日々の繰り返し。小豆洗いは街を去ることを選ぶが、タイラーは狂気と破壊を選んだ。実際現代の、この目の前の、退屈さから脱するには世を捨てて山にでもこもるか、狂気に走るかしかやりようがない。三島由紀夫も自分の死生観を語ったインタビューで「現代においては英雄的な、大義ある死などなくなってしまった。自分も大義ある死について考えながらいずれは畳の上で平凡に死ぬのだと思う」と語っている。語っていたのだが、最終的に三島由紀夫は狂気のほうへ振り切った。憂国というのは上辺の主張で、本質的には生きることの虚しさから何とか抜け出したかったのかもしれない。

それにしても問題は、世捨て人も狂人もありふれた退屈の中に収まってしまっていることだ。もはやエンタメの一部ですらある。退屈と空虚はどこまでも手を伸ばし、カネとか話題性とかそういうものに全てを変換していく。「世を捨てること」にも「合理性のない狂気」を実行するのにもある種の才能が必要になってしまった。なんというつまらなさ。気が狂うほどの退屈さ。

一体どこに向かえば、何を表現すれば、どうジタバタすれば、この退屈と空虚に対抗できるんだろうか。そんな方法はもうないのかもしれない。狂気、狂気が足りない。しかし並大抵の狂気ではマスメディアによってコンテンツ化されあまりにも退屈に消費されるだけに終わるのだ。

「大量消費とマスターベーションをやめろ。街に出てケンカをおっぱじめろ。」

それだけでは足りない。まだ脱出できない。広告とマスメディアは全てを退屈に変えようと追いかけてくる。狂気が足りないんだ。狂気が足りない。それならせめて小豆を洗うのがいい。小豆を洗ってどうするのか。そんなことは知らない。ただシャカシャカと小豆を洗う。一心不乱に。小豆を食うのか食わないのか、知ったことか。それは狂気でやっているのか、世を捨ててやっているのか、そんなことはどうでもいい。合理性を捨てることさえ捨てろ。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆を洗え。小豆洗いクラブへようこそ。

 

 

うつ、精神疾患、救い

相変わらずうつ病心療内科に通う日々だ。認知行動療法について調べて実践してみてはどうかと、医者が言うのでいくらか調べてみた。(医者も本当は時間をかけて患者を診るほうがよいとは分かっているらしいのだが昨今心を病む人間が増えすぎて一人一人に時間をかけられないらしい)「自分でできる」タイプの書籍も買ってみた。買って読んでみてこれは自分には向かないというか、それができたら苦労はないという感想しか残らなかった。認知行動療法は自分の中の感情のクセや陥りがちな思考パターンを系統立てて分析し、徐々に悪い考え方とアクションを変えて悪循環から抜け出しましょうということだ。自己肯定感を育みましょうとかそのためにこうしましょうとか。現実を正しく認知しましょうとか。調べるほどにむしろ憂うつが深まっていくのを感じる。

当たり前と言えばそうなのだが、結局のところ「まっとうな人間になること」が正しい解答とされている。そこへどう向かっていくかの話な訳だ。しかしおれは根っからいかれてしまっていて、ひねくれきっている。社会生活をうまく送り、救われることがゴールですよと言われれば、裏を返せば社会生活をうまく送れないまま救われることなどないのですよ、と叩き付けられたような気になってしまう。

「世の中の役に立つ人間になりましょう、それが正解です」というのは社会全体の総意なのだ。ここはもうきっと変えられない。そもそもそれに対してそれは違うとか叫んだり絶望しても意味がないのだ。精神疾患は確固として役に立たないもの「間違ったもの」であり、それがそのままで救いに出会うことはこの社会において絶対にないのだ。京都アニメーションの事件の犯人は精神疾患もちだったらしい。彼がもし精神疾患が完治するという意味じゃなく、もう少し具体的なかたちで救われていたらどこかの時点で社会システム的にケアされていたら今回のような悲劇はなかったんじゃないか、と考える。と同時にそれが虚しい想像であることも知っている。

今回の事件については「何の生産性もない人間が、素晴らしい作品を生み出す人たちを殺した。それが許せない」というのがいわゆる一般的な感想だ。必要な人間、不必要な人間を誰かがそしておれを含めて皆が無意識的にまたは意識的に選別している。価値がある、無価値であるというその物差しから、おれたちは抜け出せない。

以前にも書いたがやまゆり園の連続殺傷事件での植松被告の主張(重度の障害者は安楽死させるべき等)に対して、そのカウンターとして「人の命の価値を他人が決めてはならない」というメッセージがあった。NHKのアナウンサーが言っていた。しかし日本社会を見回せばそんな耳障りのいいメッセージが嘘であったことがすぐにわかる。ひとつ例にあげれば障害者雇用率の水増しに社会の本音が隠れている。建前は「障害がある人でも働く機会は均等に与えられるべき」というものだが実際には「障害があるヤツなんて役に立たない、雇ってられるか」だった訳だ。じゃあ社会の取り組みとしてより罰則と監視を厳しくして障害者雇用率をあげれば「救われる」のか。そうではないだろう。そんなものは救いでもなんでもない。

「多様な生き方を認める」とかいう欺瞞が少しでも本当の意味で機能するためには、世の中には役に立たないものがある、生産性のない人がいる、だがそれでよしとするという方向にむかっていくことしかないのではないか。

そのためには人間の感情を排したシステムを充実させるしかないのだと思う。人間が感情で人間を救おうとすると、必ずそこには救うべき人間と救わなくていい人間を選別してしまうという間違いが起こる。救いとは無機質に行われなければ、本当に必要な人に届かないしこぼれてしまうのだ。ただそこに張られたままのネットのように落ちてきてしまった人を意味や感情とは無関係に受け止めるシステムこそが必要なんだ。落ちてくる人を見て選別してネットをどかしたりしてはいけないんだ。ネットの上で這いつくばっている人に向かって罵声を浴びせてはいけないんだ。

しかし、そんなシステムができるためには社会は今より少し理性を働かせなくちゃならない。それがきっとむずかしいんだろう。いやこんな事を書いておいて、虚しいばかりだ。そんなシステムの実現は夢物語だ。

たとえばおれ個人がこの先なんとか救われたとして、それでオーケーなのか。そうではないんだ。価値があるとかないとか、精神疾患があるとかないとか、生産性があるとかないとか、世の中の役に立つとか立たないかとか、金になるのかならないのか、そういうことのぜんぶが本当はどうでもいい、すべては一人ひとりの思い込みでしかない。でもそこからの出口がない。そのことだ。問題はつねにそれだけなんだ。ユートピアをつくれと言いたいわけではない。ぜんぶがない交ぜでオーケーだとされる社会なら世界ならいいなと、うすぼんやりと空想しているだけ。そういう幼稚な話だ。救われない。救いがない。まったく救いがないという締念の先にしか救いがない。救われない。

 

京都アニメーションの事件のこと

京都アニメーションで40代の男がガソリンをまいて放火、数人の死者と40名ほどの負傷者が出ているとのこと。

今日(18日)の昼前にこのニュースの一報を知ったが、あまりにつらいのでリアルタイムでこの事件の続報を追うことをやめた。山本寛氏による最悪なツイートを目にしてしまい、気分が悪くなった。怒りと悲しみで手が震えた。ツイッターもログアウトしてしばらく見ないことにした。

それでもイヤな気分は消えず言葉にならないような感情がぐるぐるとして落ち着かない。落ち着くために、何かに向かって吐き出すためにムリヤリこの文を書いている。多くの人が犠牲になるような災害や事件は他にもあるのに、なぜ今回とくにつらい気分になるのか。なんなんだろう。おれは昔ちょっとアニメ業界で働いていたが、おれがいたのは小さな下請けスタジオで、京都アニメーションとはなんの関わりもない。知り合いが働いているわけでもない。専門学校の後輩が京都アニメーションに勤めることになった、という話を人づてに聞いたことがあるが特に親しい後輩ではないし、今在籍しているかもわからない。しかし何だ、ともかく他の事件や災害や事故のニュースを知るよりずっとイヤな気分に襲われている。

さっき少し外を歩きながら考えていた。京都アニメーションの人とおれの共通項といえば、絵を描く人間であることだけだ。それだけだ。でもつらい気分はその小さい共通点のせいかもしれない。

アニメスタジオに勤めている人たちはきっと皆ちいさいころから絵を描くことが好きで、それを周囲に誉めてもらって得意になって、また描いて。と繰り返してきて、いろんなアニメや漫画を好きになり真似して描いてみたり、やがて絵を描くことが仕事になればいいなと考えて漫画家やイラストレーターやアニメーターという職業があること知り、希望をもってそれをこころざし、才能や環境に恵まれてそういう場にいたのだ。そしてときにつらいこともありながらも絵を描く仕事に誇りをもってよりよいものを作るために日々尽力していたんだ。おれも少しだけどそこに居たから。そこへいたる日々の大変さや、でも絵を描いていてよかったと思えるときもあること、がなんとなくわかる。それが一瞬で破壊され奪われた虚しさや悲しみを勝手に近しく感じてしまっているのかもしれない。

絵を描く人が紙を前に夢中で絵を描いているとき、こころの中には「絵を描くって楽しいな」という子供のときとあまり変わらない気持ちがある。そういうものが無惨に踏みにじられた苦しみ。京都アニメーションのスタジオにはおれなんかが到底及ばない才能ある人たちが日々すばらしい絵を作品を生み出していただろう。人を楽しませるために力をつくしていた。ただそれだけだ。それなのに、たくさん人が膨大な時間をかけて作り上げた絵や映像やお話が焼き尽くされてしまった。ものをつくりだす場所が機会が絵を描く人のいのちが消された。

もっと描きたい絵があったと思う。もっと上手くなりたい人もいたと思う。今まさに自分の能力がうまく発揮された作品を作っているところだったかもしれない。そういうものが暴力的に奪われた。もちろん人のいのちが失われたことが一番かなしい。それと同時に生まれるはずだった作品がなくなってしまったこと。世に出るはずだった絵がもうなくなってしまったこと。その人がこれから描くはずだったすてきな絵がなくなってしまったこと。作品はその人そのものだ。未来にあるはずだったそれがなくなってしまった。そういうぜんぶがつらく悲しい。

くるしい。息が詰まる。なんでこんな悲しいことが起こってしまうんだ。ただただ打ちひしがれている。今現在事態がどうなっているかはわからない。知るためのエネルギーがでない。せめて、ひとりでも多くの人が助かりますように。無事でありますように。むなしいけれど、祈ることしかできない。

 

 

 

ひび

うちゅうを ひとつ つかむような

まんだらの なかに とびこむような

しんりに さわったとしても

そのつぎの しゅんかん もう

うめつくす にちじょうが まっている

それは ぜつぼうか

そうでは ないのか

 

きれいな ほうぶつせんが ありました

いくつかの まるいいしを ならべました

その あしくびの いたみのような

うめつくす にちじょうが まっている

 

はなびのおとは とおい とおい

せんこうの においは どこから

あのながい はしのことを わすれましたか

どうして

そうして

にちじょうに もどるので

 

へいきなかおを みていました

たれながされる かなしみに

どうして

そうして

にちじょうも いずれは

 

おくじょうの こと

ゆうぐれの こと

でんしゃの こと

 

それは ぜつぼうか

 

たずねることを やめました

いきるほどのソレ

周りの人間や環境は自分をぶち壊そうとしてくるというのに、やさしさの欠片もない仕打ちを与えてくるというのに、なぜ自分は周囲に対してまともであるようになるべくやさしくあるように努力しなければならないのか。そういう気分がいつもどこかにあって消えることがない。

今日、おれの人生がグシャクシャになった原因をつくった人間に会わざるを得ない状況になった。最悪の気分を押し殺し、つとめて普通の対応をしなければならなかった。しかしほんとうに、おれがそんな労力をさく必要性が果たしてあったのだろうか。お前のせいでおれがどんなに惨めな日々を送ってきたのか、当たり散らしてもよかったのではないか。そういう考えがぐるぐるとまわり眠れもしない。そいつは人の人生を踏みにじった自覚もなくヘラヘラとしていた。これからもヘラヘラとし続けるんだろう。「また遊びに来てください」じゃねえんだよ。どのツラ下げて言うんだ頭がおかしいのか、いやおれの頭がおかしくなるぜおれの頭をおかしくさせるためにそういう言葉を選んでいるのか。二度と来るわけないんだよ。おれはお前を本当のところ●したいんだよ。お前がアホみたいにヘラヘラ生きる一方でおれはなぜ消えない苦しみに耐えなければならないのか。お前が自分の欲望にまかせてふりまいた悪意を、その後始末をなぜおれがしなければならないんだろうなおい。

この世界はそんなことばかりだろうが、なんなんだこれはははは。何も感じないヤツだけが無敵だ。どんなに人を傷つけ尊厳を踏みにじっても「自分は生きるに値するりっぱな人間です」という顔を平気でできるヤツだけが人生を楽しむことができる。ああ。おれも気付かないうちに誰かを踏みにじっているだろう。おれが踏みにじったヤツよ、ガマンするな今すぐにおれに復讐してくれはやくしろ。

互いを貶め合い、憎悪を連鎖させていくだけのこんな世界たのしいねたのしすぎて気がくるうね。クスリを飲もうアルコールを飲もうあびるようにもっともっと。何もわからなくなるまで。縄が呼んでるおれを呼んでる。目を閉じると曼荼羅の中にのまれていく。いきるほど逃れようもなくのしかかるソレをどこまで背負っていこうという。もういいぜ。うんざりだ。やさしさも希望もいらん。クスリをくれ。目の前を塗りつぶしてもうとっくに頭はいかれてしまいましたとさ。バカみたいな無敵の笑顔がちらつく。お前はたのしそうだなおい。自分に生きる価値があるとでも思っているんだろうそうかそうか。発狂するほど平和でうつくしいお話だぜおれを●せ。すべてうんざりだ。お前みたいなやつだけのうのうと生きる世界ならいらない。そんな世界に低姿勢で歩み寄る意味ってなんだい?ああ?だれか答えてくれよ。生きるほど坂道を転げ落ちドロとクソとヘドロにまみれるばかり。つかれつかれつかれきったんだおれは。終わりをくれよ。つかれた、つかれきった。なんなんだこれは。

「無敵の人」はぜんぜん無敵ではないという話

無敵の人、とはじめに言ったのは2ch開設者ひろゆき氏だったとか。無敵の人、要は何も失うものがない人のこと。恋人も友人もいない、家族がいない、いても疎まれている、仕事もない金もない趣味もない人。そういう人が起こす犯罪が何度もあった。最近では川崎市で19人が刺された。これからもそんな事件はまた起こる。そんな無敵の人に対する世間の議論も出そろった昨今。いやはやしかし、ひろゆき氏は「キモくて金のないおっさん」にウサギをくばれなどと捨て鉢なことを言う。ウサギを飼うことで義務感や達成感を得られるということか。案外効果があるのかも知れないがとにかく何か「こんなもんでいいでしょ」的なスタンスにも見える。

一方、相も変わらず「死にたいなら一人で死ね」と言う人もあとを断たない。気持ちは分かる。罪もない人を殺して犯人は自殺した、というニュースを聞けばまず脊髄反射的にそう思うのは普通のことだ。ごくありふれた、それなりに恵まれた環境に身を置く人間の感想だ。だからこそ、そんな一言で終わらせるのではなく、思考停止することなくその先を考えなければ世の中の風潮はよくならない。そういうカウンターとしての発信も増えてきている。

単に「死にたいなら一人で死ね」と言わなければいい、ということではない。なぜ無敵の人は、犯人はそこまで追いつめられていたのかを想像しなければならないのだと。川崎の事件の犯人の部屋からはとくに異常性のある物証は見つからなかったようだ。せいぜいゲーム、いくつかの外国で起きた猟奇殺人についての書籍が見つかった程度。そんなものなら多くの犯罪とは無縁の普通の人でも所有している。

たとえば「犯人は猟奇殺人の映画と書籍だけを大量に所有し、自ら宗教めいたものを生み出しそれについて書き貯めた支離滅裂な内容のノートが500冊出てきた」とかであれば、ある種安心する人はたくさんいるだろう。マスコミもそのほうが報道的においしいと思うんだろう。しかし事実はどうやら違う。川崎の犯人はごく普通の人だったのかもしれない。そのことを出発点として想像し世の中全体としてどう対応していくべきかを考えなければならない。「死にたいなら一人で死ね」としたり顔で何か言ってやったつもりで終わりにするのなら、無敵の人は増え続ける。

 

そもそも、無敵の人は実はなんにも「無敵」ではない。マリオでいうところのスター状態とはほど遠い。ひろゆき氏発の理論だと無敵=何も失うものがない人だ。しかし何も失うものがないとは本当のところ「心の支えがない」「依存先がない」ということだ。成熟した、余裕のある大人になるということは本来依存先が沢山ある状態のことをいう。ほとんどの人間は、何かを心の支えにし依存して生きている。家族、恋人、友人、社会的地位、肩書き、成功体験、宗教、お金、酒、おいしい料理、ペット、好きなアイドル、好きな音楽、好きな小説などなど。人間は自分だけで自分の存在や精神を支えられるほど強くできていない。意識的、無意識的に関わらず何かに依存し支柱とすることで生存していけるだけの精神力を保っている。依存の理想形は「依存先はできるだけ多く、依存度はなるべく浅く」だ。依存先はある日突然消えてしまう可能性がある。家族や友人の突然の死、恋人に振られる、職場をクビになる、応援していたアイドルが引退する。そうしたときどれかひとつに深く依存していると心身のバランスを崩すこととなる。だから依存先は多いにこしたことはない。しかし、いわゆる無敵の人にそのどれもが無い。あるいはすでに失われている。今、ごく普通に暮らしている人でも「すべての依存先が失われた状態」に陥り、しかもそれが長く続けば己をニュートラルな状態にたもつことは難しいだろう。何も失うものがない人とは「無敵」とはほど遠い、寄る辺もなく精神がこわれそうな人のことだ。そういった人に「死にたいなら一人で死ね」と言う言葉を叩き付ける、それは人を刺すのとは違うがやはり暴力に違いない。

また「無敵の人」は単純に死にたい訳ではないと思う。どうしたらよいかわからない混乱、社会への疎外感、怒り、うまく世を渡っていける人への羨望や嫉妬、消えてしまいたいという思い。いろいろな感情がない交ぜになっているはずで、今回の事件のように一貫性がない行動として出てきてしまう。そしてそれに対して簡単に解答したり対策をしめすことができない。

今の日本には自己責任論が蔓延し「無敵の人」に対しそいつが望んでそうなったんだろう、無能だからそうなった、努力が足りなかった、と追いつめる風潮が多く見受けられる。しかし想像すべきだ、「自分がそうならなかったのはたまたま運がよかったからかも知れない」「自分もそうなっていたかもしれない」「自分もいつああなるかわからない」己がその立場になったらどうなるか思索する。それが理性というものだ。そして人間に理性があるというなら、その人個人がどういう人間であるかに関わらず打ちひしがれ追いつめられている人がすこしでも救われる社会を目指すべきではないのか。その一歩として、まず「死にたいなら一人で死ね」や「無能だから社会でうまくやれないんだ」という言葉になにか意味があるのか、それによって社会はよりよくなるのかそれを発信する前に考えてほしい。「無敵の人」という事実と剥離した呼び方もやめたほうがいい。せめて何ももたない、もつことがかなわなかった人が今以上に追いつめられないようにと願っている。