サヨナラゲーム業界

先月、10年間勤めたゲーム会社を辞めた。

やめた理由は山ほどあるが、まあとにかく疲れてしまったんだ。

 

割と規模の大きな開発会社(デベロッパー)だったので、

有名どころと組んでの仕事にもいくつか関わった。

いい思い出ですね。

(ゲーム業界にはパブリッシャーとデベロッパーがあって

ざっくりいうと

・パブリッシャー→企画、広告、資金を集める、が主な仕事

デベロッパー→実際のデザイン、プログラミングなどソフト開発

と別れている。もちろん企画開発両方やっているところもある)

 

それなりの期間働いたけど

ゲーム業界の闇、みたいなのは特になかったよ。

だいたいが色んな業種の人がブチ当たる問題と同じ。

マネジメントなんて出来ないのに長年業界にいるって理由で

マネージャーやディレクターをやっている人が多数だとか。

それによって現場がいつも混乱してるとか。

実際の制作現場のことをまったく知らない

クライアントによる無茶振りとか。

ほぼ完成までつくったソフトがお偉い人たちの判断でお蔵入りとか。

 

ただ、なんと言うか

「こんなんじゃ日本からいいゲームは出ないよな」

と思うことは多かった。

他の国のことは知らんけど。

 

子どもの頃大好きで楽しませてもらっていた

ゲームを作っていた会社ともお仕事したけどね。

あんなにがっかりさせれるとは。ひどいもんだった。

ゲーム業界で成功してスター扱いされることで、

クリエイターとしての感覚がおかしくなっている人が

ずいぶんいたよ。全員じゃないと思うけど。

 

ものをつくるっていうのは

作る人間が有名だろうが無名だろうが、

チームが大規模だろうが小規模だろうが、

基本的にやることは変わらないはずなんだ。

 

まず完成イメージや根幹となるコンセプトがあって、

そのイメージに近づくために実際に手を動かし

デザインを描いたりプログラムをしたりする。

最初から完成イメージに近いものなんて

まず作れるはずもないので、

具体化することと修正することを繰り返して、

完成形に近づけていく。

また、具体化する中で当初のイメージになかった

要素を入れた方がいいということもあるし、

逆にこれはなくてもいいと気付くこともある。

チームであるなら作りながら完成イメージやコンセプトについて

何度も確認、共有し合いつつ進める。

トライ&エラーを繰り返しながら

時間をかけて少しずつ積み上げていくことのぜんぶが

ものをつくる、ということだ。

当然のことながら作っては捨て、捨ててはまた拾いなので

この道程はかなり面倒くさくて苦しい。

 

某企業と組んだときヤベー進め方をされたことがあった。

まず、ゲーム業界で有名なスターNさんの絵が一枚だけある。

この絵をもとにゲームを作りたい。

ゲームの完成イメージやコンセプトはざっくりとしか決まっていない。

 ーまあここまではよくあること。こういう場合は現場からいろいろ提案して

  作りながらすり合わせていくしかない。

一点決まっているのはこのゲームのディレクション(最終決定を下すポジション)

はNさんであること。

 ーなるほど、ではNさんはこのゲームの打ち合わせには出席するのだな。

  そうじゃないと何も進まないからな。

ところがNさんはほとんど打ち合わせに現れなかった。

海外に行っている、他のゲームを掛け持ちで見ているので時間が取れないなど。

こちらとやり取りするための窓口役のディレクターもいるのだが、

あくまでも最終決定権を持っているのはNさん。

こちらがこのゲームはこの方向性でいいのかデザインはこれでいいのかと聞いても

「Nの確認が取れないことには何とも」の一点張り。

ときには「Nは忙しいですからね〜」と何故か誇らし気に言ってくる始末。

そして数ヶ月に一度窓口役のディレクターがNさんの伝言をもってくるだけになった。

そこで伝えられるのは毎回ちゃぶ台返し、やっぱりこうしましょうという大幅な変更。

つまりは最終決定しますよと言った人物が不在のまま、

現場はこのゲームはこの方向でいいとも悪いとも判断されずゲームをつくり、

それを数ヶ月に一度方向転換させられるという状況を繰り返した。

 

その後、当然と言えば当然でこのゲームはお蔵入りとなった。

おれはむしろお蔵入りでよかったと思った。

こんなやり方で現場が無理して作り上げたゲームでも

世間的にはNさんが作ったゲームになるのだ。

すごい、これはすごいぞ。

何せNさんはこのゲームのトライ&エラーに、

ものつくる過程に、ほぼ参加していないのだ。

数ヶ月に一度、出来上がってきたものに対し

あんまり気に食わないな、と言ったに過ぎない。

打ち合わせや会議に参加し、アイデアを出したり

修正箇所をすぐに確認することさえしていない。

 

これは「クリエイターごっこ」でしかない。

一番苦しい、面倒くさいところを現場に押し付け

暇なときにちょっと見て思いついたことを言って、

完成したら私が作りましたと言い放つ、

おいしいところだけいただいてしまおう、

というのは少なくともクリエイターの態度ではない。

資本家の態度ではあるが。

先に書いたようにトライ&エラーを繰り返し

時間をかけて構築していく過程そのものが

ものをつくるということだ。

クリエイターとしての矜持があるなら

むしろこの程度の関わり方で

「自分の作品です」と言ってしまうのは恥ずかしいことだ。

 

何故Nさんはあきらかにディレクションする時間がないのに

ディレクター職を他の人に任せなかったのだろう。

今でもまったく理解できない。

 

「自分が優れたクリエイターである」という思いばかりが先走ってしまって、

「具体的にものをつくるということはどういうことか」という感覚が

マヒしているように感じられてならない。

 

Nさんに限らず有名企業の案件ではこういった進め方に何度か出会った。

進め方のおかしさもさることながらそのような企業や人は

スケジュール感覚やコスト感覚もマヒしていることが多かった。

ものづくりにおいて

「いつまでに」「どれくらいのコストで」つくるか、というのも重要だが、

いくつかの企業はそれをどういうわけか度外視していた。

有名企業であればいくらでも資金が集まるのだろうか。

これについてはおれのような末端の人間にはどういう仕組みかわからない。

ただ現場としては長期間同じものを作り続けるのはかなりキツい。

個人としてもチームとしても作ったものが結果を出さない状況は精神を摩耗させる。

ゴールがどこにあるのか知らされずに長距離走をしているようなもので、

どこにどれくらい力を入れればいいのか、

どれくらい余力を残せばいいのかわからない。

するとアイデアも枯れてくるし、チームの雰囲気も閉塞感に溢れてくる。

時間をかければ必ずしもいいものになるわけではない。

これも少し考えればわかる程度のことだ。

そんな程度の判断ミスを続けている企業がずいぶんある。

 

ゲーム業界に大層な闇なんかない。

いくつかの不愉快な事実があるだけだった。

おれは「こんな状況じゃいいゲームは出来ないよな」

と感じたし、心底うんざりした。

それでもまあたまにはいいゲームは出来上がるし

それに運良く関われることもあるだろう。

あるだろうとは思うけども、

おれはもう疲れてしまった。

ここらでもういいだろう。

 

サヨナラ、サヨナラ、サヨナラゲーム業界。

 

無機的なシステムを愛せ

ベーシックインカム生活保護に関する

様々な主張や論争を見るにつけ、

つくづく、人間の感情に頼っていては人間は救われないな、

感情を排した無機的なシステムによってのみ

人間は救われるんだなと思う。

 

「人間の感情に判断をゆだねる」とか

「人間の感情にうったえる」とかいったことは

本当に無意味でそこに依存しては人間を救うことなどできない。

 

人間は個々の解釈で他者に優劣をつける。

ベーシックインカム生活保護の話になると

必ずと言っていいほど同じ意見が出てくる。

「貧しいのは自己責任だろう」

「自分たちの税金が使われるのは許さない」

「勉強してこなかった、努力しなかった本人が悪い」

そう言いたい気持ちも分かる。

究極、ベーシックインカム生活保護に反対する人たちの中に

渦巻いている感情は

「バカに金をやるな」「怠け者が楽をするのが気に食わない」

「頭の悪いやつは死んでも仕方ないだろ」

という非常に「人間らしい」ものだ。

 

人間には理性があるだなんていうのは上辺だけの話で、

根底には非常に動物的な

自然淘汰」や「弱肉強食」の本能があるのだろう。

常にどこかで食いものにされてたまるか、

食う側でいなくてはならないという強迫観念。

 

人間は結局、自分に近しい人以外の

自分の知らないところにいる劣った人間は

死ねばいい、消えればいいと思っている。

自分と近しい人さえ守れればよいのだから、

不安要素である不愉快で危険な他者は

いないにこしたことはない。

それがいい悪いではなくそれはごく普通の感情で

人間がみんな持ち合わせているものだ。

だからこそ戒めのためにあらゆる宗教は

自分の近しい人以外を、

隣人を愛せとわざわざ教えているのだ。

 

こういった人間の感情に

最終的なシステムの施行の判断をまかせていては

やはり間違いが起こるのは当然のこと。

 

人間の感情に判断をまかせて失敗している例として

飲酒運転の撲滅がある。

飲酒運転撲滅運動は大抵の場合

「あなたの家族が悲しむことになります」や

「被害者の悲しみを知ってください」などの

人間の感情に、それぞれの善意に

うったえることを前面に押し出していく。

 

しかしこれは悲しいことにあまり意味がない。

どんなに広く人々の感情にうったえても、

そこに何にも感じない人はいるし、

自分だけは事故を起こすはずはないと思う人たちもいる。

善意や想像力というものが欠落してしまった

人間というのは一定数確実にいるのだ。

 

だからこそ飲酒運転を撲滅するにはシステムに頼るしかない。

酩酊状態では運転することができない自動車が

普及しなければいけない。

一部ではすでに開発されているが、

呼気を吹きかけアルコールが検出されれば

エンジンがかからない自動車の普及でしか

飲酒運転は撲滅されない。

運転者が善意ある人だろうが

他人に迷惑をかけても何とも思わない人だろうが

アルコールを飲んだ人間には運転をさせない

無機的なシステムこそが必要だ。

 

一方で、

私は赤ちゃんポストは非常に優れたシステムだと思っている。

日本で赤ちゃんポストが導入される際には

やはりというか様々な意見が出ていた。

「赤ちゃんをモノのように扱うのか」

「赤ちゃんを捨てるような親なんてとんでもない」

など、これまたとてもまっとうな人間の感情だ。

 

しかし実績として

熊本県にある「こうのとりのゆりかご」では

運用10年間で125人もの赤ちゃんの命が救われている。

赤ちゃんポスト、運用10年で125人 熊本・慈恵病院 :日本経済新聞

 

赤ちゃんポストは完全匿名性で、

病院側は事前の相談をすすめているものの必須ではなく

誰がいつ赤ちゃんを預けてもよいことになっている。

無機的にポストは開いていて、

環境に恵まれなかった赤ちゃんを受け入れてくれる。

ポストはそこに赤ちゃんを預けにきた人を

どのような人物でも選別しないし、

計画性がない、愛情がないなどと責めることもしない。

 

もしも受け入れる病院側が

ポストに預けるかどうかを判断する人間を

そこに配置してしまっていたら、

これほど多くの命は救われなかっただろう。

 

最終的なシステムの施行の判断を人間がすることなく、

ただポストに赤ちゃんを入れれば淡々と命が守られる。

感情を排したシステムの成功だと思う。

 

話を生活保護に戻すと、

この制度の最大の欠陥は

「最終的なシステムの施行の判断を人間がする」ことだ。

人間はものごとを感情で判断するので、

生活保護を受けるやつはロクなもんじゃない」

「不正受給しようとしてるかもしれない」

というフィルターがかかり施行がうまくいかない。

結果、本当に生活保護を必要としている

人たちに制度が行きわたらない。

82歳母と52歳娘、孤立の末に 札幌のアパートに2遺体 「8050問題」支援急務 (北海道新聞) - Yahoo!ニュース

 

本当は必要な人にほぼ自動的に生活保護

行きわたるようなシステムになるのが一番いい。

(たとえば自治体ごとで健康診断などを行い、

著しく健康が損なわれているのに通院履歴がなく

数ヶ月後にも健康状態が改善しない人は

自動的に生活保護対象になるなど)

だがそれも難しいだろう。

 

だからこそベーシックインカムなのではないか。

「人間らしい」観点から言えば、

「怠けたものに金をやるのか」

「努力しないで金をもらったら堕落するやつが出てくる」

などの意見は出るであろうが。

それでも命と生活よりも優先させるものはない。

「とりあえず全員生きていける」

ことに不満を言うだなんてどうかしてるぜ。

人間の感情はいったん無視して

無機的なシステムを施行してはどうだ。

 

 

人間のやさしさ、思いやりそれ自体では人間は救えない。

人間を救うのは感情のない無機的なシステムだけ。

ただそのシステムを構築するまでには本当のやさしさと思いやりが必要。

 

 

頼むぜ、ベーシックインカム

ああ〜働かずに暮らしていきてぇ〜。

目を閉じるとチカチカと見えるのだった

ああ、あれは曼荼羅だと思った

古い記憶を見るのだった 覚えていない記憶だった

何度回った

懐かしくもない 悲しくもない

左手を握りしめた

せまい場所に閉じこめられた犬を見た

古い土の壁だった

指をならし駆け下りて ほんとうは泣きたいのだった

なにも なにも

大声で泣きたいのだった

それすら許されないせかいで

軽いとびらを開ける

それは終わったのだ 終わったのだと言いきかせる

なおも

チカチカと回り消え またあらわれ

その先を見るか

もう見たくないのか

いずれ見るのか そこへ行くのか

つめたい空気がながれて

階段はきしむ

すべてはやさしく むなしい

泣いている 泣いていない

チカチカ

チカチカ

美しいものを見せてくれ、生きていてよかったと思えるような。
汚れたものを見せてくれ、生まれてくるべきじゃなかったと思うような。

きれいな声を聴かせてくれ、生きていてよかったと思えるような。
きたない罵声を浴びせてくれ、生まれてくるべきじゃなかったと思うような。

笑ってくれ、生きていることを肯定するような。
泣いてくれ、生まれたことを否定するような。

ずっとここにいたい。
すっと消えてしまいたい。

終わることのかなしい。
始まることの素晴らしい。
終わることのすばらしい。
始まることの悲しい。

音が鳴っていて響きあって喜びも悲しみもなかった。

ただ音が。

幸福論

幸せな人ってのは不幸に出会わない。

なに普通のこと言ってんだ。

 

幸せな人は大抵円満で生活や進学に困らない家庭に生まれる。

大切に育てられる。学校でもうまくやれる。いじめに遭遇しない。

周囲の人間関係にも恵まれる。

好きなことを素直に楽しめる健全なこころで、

仕事もうまくこなし、未来に希望を持ち生きていく。

 

幸せって「なる」ものじゃなくて

「不幸をいかに回避するか、遭遇しないか」ってだけじゃないのかと。

上から来るぞ!気をつけろ!

 

衣食足りて礼節を知るじゃないけど、

人がよい状態にあるためには環境が重要なわけで。

 

クソのような環境の中でまともな人間性を保つのは難しい。

だからこそ困難な状況でも人間らしさを失わなかった人物を聖者と呼ぶのだろう。

たとえばアウシュビッツの収容所に入れられて、

他人をかばい死刑を受け入れるなんてほとんどの人間には無理だ。

 

誰もが不幸を回避して、まともでいられる環境を維持したいんだ。

この国で普通の幸せとされている状態にたどり着くまでにも、

 

(世の中には貧しい家庭や暴力を振るう親もいるなか運よく)

円満で生活や進学に困らない家庭に生まれて大切に育てられ

(学校でいじめられる子が多くいるが自分は標的にならず)

たのしい学校生活を送り

ブラック企業で頭のおかしな上司に詰められて精神を病む人を横目に)

まっとうなホワイト企業に就職。

性自認の問題に悩む人もいるらしいことは知っているがそれはともかく)

異性と普通に結婚し

不妊に悩む要因もなかったのし収入面も心配ないので)

子どもを二人つくり、幸せに暮らしています。

 

これだけの不幸を回避している。

でもそういう自覚はたぶん幸せな本人にはないのだろう。

これはきっと幸せであるために必要なもうひとつの要素なんだろう。

不幸を見ない、考えないという。ないこととする。

 

幸せな人は

「せっかくだから俺はこの不幸を真剣に考えるぜ!」とはならない。

いい悪いではなくそういうもんだ。

日本に生きている人のほとんどが

世界には紛争や飢餓にくるしむ人々がいるという

事実は知っていてもそれを真剣には考えないことと同じ。

 

不幸をクソ真面目に受け止めてしまうと

慈善活動化家か、宗教家か、もしくは詩人とか芸術家になるしかない。

 

そういうわけにもいかないから

とりあえず不幸を回避できている間は不幸をないものとする。

幸せは「とりあえず」の曖昧な状態でしかない。

 

かたや不幸には具体性があり最終的には回避しきれない。

どんなにうまく不幸を避けてきた人ですら、

辿り着くのは 老い、病、死と決まっているからだ。

終着点が決まっているのに生きること、

その始まりであるこの世に生まれるということ。

生老病死。苦界ですわ。

 

ああ、なんだ、なんでこんな文章を書いているんだっけ。

 

あー、この世に確固としてある不幸にたいして
人間が得られる幸のうすっぺらさにうんざりしているということだ。

 

どこまでも続く砂漠に放り出され500mlのペットボトルしか手元にはないんだ。

すぐに飲みきってしまう奴。人のペットボトルを奪う奴。

大事にとっておいてそのうちに干からびて死んでしまう奴。

それでも人間らしさを保てとかね、そりゃないぜ。

 

苦界をのりきるために僅かばかりの幸をすすりながら生きるってのは

なんとも割に合わない話じゃねえか。そう思わねえか野郎ども。

 

そりゃあ死だけが救いと思うしかない。思うしかないんだよ。クソが。

あ~生まれてきてよかった~。

とおいところにあるチボー

チボーの歌を聴くことだってある。

 雨はいつかあがる

 明けない夜はない

 涙のあとには虹がでる

 あと一歩すすもう

 すべてはきっとうまくいく


そんな歌詞をきいても別に反感はない。いやな気分にはならない。

ああ世の中にはそういうこともあるのか、と思う。

 

明日へのチボー、未来へのチボー、日々のチボー

それはきっと大切なものなんだろう。

たくさんの人々を照らすあたたかな光なんだろう。

 

やむことない雨にうたれて遠くの雲の切れ間をながめる。

ああ向こうはきっと明るいのだろう。

 

明けることのない夜に空の青を想像してみる。

ああきっとすがすがしいのだろう。

 

 

とおいところにあるチボー、ぼくを照らすことのないチボー

とおくからながめるだけ。