子ども

おれは反出生主義ではない。

 

子どもをつくり育てることはすばらしいことだと思う。

赤ちゃんや小さな子どもを連れた若い夫婦を見ると立派だなと思うし、

子どもをきちんとした社会人に育て上げた人たちを素直に尊敬する。

 

ただ、おれ自身は絶対に子どもをつくることだけはしないでおこうと決めている。

自分が、子どもをつくり育てるに値しない人間であることを自覚しているからだ。

 

社会不適合者であること。

精神を病んでいること、それが回復不能であること。

低収入であることが主な理由だ。

子どもにまともな選択肢を用意できないことは確定している。

 

もっと悪いのは

おれはこの世界を生きるに値しないものと感じていることだ。

そんなおれが一時的な生殖器の快楽衝動のために、

80年にも渡る人生を子どもに押し付け、何を教えることができる。

この世はクソだがお前はイキロとは言えない。

そんな理性の欠片もないことはやるべきではない。

 

確実に不幸になる子どもをこの世に迎え入れるべきではない。

それだけのこと。

 

おぞましい考えが浮かんだことがある。

「子どもがいれば生きることに前向きになれるかもしれない。

張り合いがでるかもしれない」と。

これには自らの考えに心底ぞっとした。

自分の肯定感への欲求のために子どもをつくるのもいいかもしれないと思ったのだ。

なんとおそろしい。

そんな簡単な気まぐれで産み落とされ、

80年もこの世を生きなければならないことになったら

その子どもは親を恨んでも恨みきれないだろう。

 

そんな程度の短絡的思考しか持たないおれだからこそ

絶対に子どもをもってはいけない。

これだけはきちんと守っていかなければならないルールだ。

 

子どもを産み育てることは

この世に生きるに値する何かを見いだし、

心身ともに健康で、

子どもに未来への選択肢を用意できる、

きちんとした大人たちにまかせればいい。

これが淘汰というもんだ。ごく自然な流れだ。

 

そして、この世に生まれてしまった子どもたちにはほんとうに幸せになってほしい。

何とか、なんとか幸せになってくれ。幸せにしてあげてくれ。

そうぞうしてごらん

自殺についてどっかのライターが

「他の選択肢があるのに想像力がないから自殺する」ぽいこと書いてたのを読んだ。

 

自殺するまでの日々を書いた人のブログを引用していた。

その人は(おそらく)自殺した日、

最期の食事に近所のなんてことないファミレスのステーキを食べていた。

そのことについて、

「最期だったらもっといいもの食えばいいのに」とどっかのライターは書いていた。

「私だったら食べたことないような銀座の寿司とか高級料亭へ行く。想像力がない」と。

 

いかにも健全な人の思考だな、とおれは思った。

どっかのライターは一ミリたりとも自殺を選択肢に入れたことがない、

幸福な人なんだろう。いいことだね。

 

自殺する人は想像力がない、わけではないと思う。

むしろ自分を取り巻く環境、この先のことに想像を巡らせて、

暗さや虚しさ、おぞましさを感じてしまっているのかもしれない。

選択肢があることそれ自体にうんざりしているというか。

 

あるいは、

想像力がない→うつ状態が悪化→社会で生きていくのが困難→自殺を選択

というより

社会で生きていくのが困難→うつ状態が悪化→想像するエネルギーすらなくなる→自殺

といった順序かもしれない。

 

どちらにせよ「想像力がないから自殺する」

=「想像力があれば自殺なんてしない」なんて簡単な話ではないと思う。

 

たとえばおれは20年近くうつを薬でごまかしながら生きている。

おれがいざ自殺するとしても

きっと最期の食事にたいそうなものを食べようと思わない。

 

食べたことない高級な食べ物が一瞬選択肢には上がるがすぐ消える。

高級寿司屋にしろ高級料亭にしろ、行くにはエネルギーがいる。

行ったことのない場所に行くことはうつ状態の人間には

とんでもなく大きな覚悟と気力が必要なんだ。

小汚い恰好で行って店の人にイヤな顔をされるかもしれないとか、

高級店でのマナーがわからないのでひどく緊張するとか、

そういう心配を考えると行く気にならない。

死ぬ前にさらに惨めな気持ちになるくらいなら、

普段行き慣れた牛丼屋やファミレスでいいということになる。

 

「美味しいものを素直に楽しむ」

というのも心が健全である前提が必要なことなんだ。

大抵、うつの人の中には

常に「自分が感じたことと逆のこと」を囁くバケモノが住み着いている。

最期の食事に高級な美味しいものを食べたとして、

「うまいもの食べた。それがどうした?」

「これから死ぬくせに何故こんなもの食べてるんだ」

「こんな料理くらいで空っぽな自分が満たされるとでも?」とバケモノは囁く。

きっとさらに空しい気持ちになる。

 

とはいえ、最期だから少しだけいいものを食べておくか…

くらいの着地点が「いつも行くファミレスのステーキ」

だったのだろう。たぶん。

 

自殺寸前の人が「想像力」で救われることはほとんどないと思うんだ。

想像力があれば自殺しない、と信じている人は

自殺する人がどのような道程を経てその選択に至るのか、

それこそ想像する力が足りていないのだろう。

人は自分が体験していない痛みを知ることはできない、

だから仕方ないのかもしれない。

 

自殺を止めるにはそこに至るもっと前に、

もっと早く救われることこそ必要なんだ。

でもそれにはどうすりゃいい。何にも思い浮かばないね。

 

いや、いいんだ。こんなのはキチガイの戯言だ。忘れてくれ。

こんな文章を読むのはやめて、人生の明るい美しい部分だけ見て生きればいい。

見る必要のないものに目を向けることはない。

それが健全な生き方だ。

 

よりよい明日を想像し、愛を信じ、人々にキスを。

そうしてくれ。

2018年大予想!!

2018年も人類は戦争を止められないでしょう。

 

2018年も人は人をたくさん殺すでしょう。

 

2018年も人類は武器を捨てることはできないでしょう。

 

2018年も多くの人々が飢えや病に苦しむでしょう。

 

2018年も大規模な自然災害が襲いかかるでしょう。

 

2018年も富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるでしょう。

 

2018年もこの国では2万数千人が自死を選択し、その根本的な解決はなされないでしょう。

 

 

それがどうしたという顔をしているな。

それがこわい。

有効な解決策もないのに慌ても騒ぎもしないこのせかいがこわい。

 

どうか、よい1年を。

明けましておめでとう。

なにも

4歳の男の子が殺された。母親とその交際相手に虐待され、しんだ。

 

言えることはなにもない。なにも。

 

「人間は幸せになるために生まれてきた」と言う人がいる。

殺された男の子になにが言えるだろう。

「君はちがうけど多くの人間は幸せになるために生まれてきた」

と言うのだろうか。

 

「人生はすばらしい」と言う人がいる。

殺された男の子の前で言えるだろうか。

「君の人生は違ったけど私の人生はすばらしい」と。

 

「人生のすべてに意味がある」と言う人がいる。

殺された男の子の苦しみに何か意味があったのだろうか。

 

「人生とは魂の修行の場だ」などと言う人もいる。

殺された男の子は何を背負い何を得たのだろうか。

 

なんの理由もない。なんの結果ももたらさない。

ただどこまでも不条理なだけ。

誰かが代わりにどんなに幸せになったとしても

殺された男の子の苦しみが消えるわけじゃない。

 

世に溢れる言葉は「幸せになれる人たち」に向けられたもの。

誰しも不幸に巻き込まれたくない、見たくもない。

不幸はすぐになかったことになる。

 

道徳も

宗教も

スピリチュアルも

心理学も

なんの役にも立たない。

 

この世はからっぽで、からっぽなくせに

どろどろとドス黒いものがうずまいている。

たまたま逃げ切った人が「人生の意味」がどうしたとうそぶいている。

 

本当は

言えることはなにもない。

なにも。

 

グッバイ弱者

日本では「自力で生活できない貧しい人を政府が助けてあげる必要はない」と考える人が世界中で最も多い、らしい。

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http://www.pewglobal.org/files/pdf/258.pdf

※95ページ

質問は「自力で生活できない貧しい人を援助するのは政府の責任だと思う?」

各国ごとの表は左から「完全にそう思う」「だいたいそう思う」「あんまり思わん」「全然思わん」「その他」

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「助けてあげる必要はない」と答えた人の割合は日本が38%。先進国ダントツ、おめでとう。その下がエジプトとヨルダン。ともに32%。

 

アメリカでも28%。多民族、多人種のお国でこの割合。その他10%前後が多い。だいたいの国では9割くらいの人たちが「生活に困窮してるひとは政府とかみんなで助けたほうがええんちゃう」と思って暮らしてる。日本ではそういう考えの人は6割ちょっと。どうしたどうした。

 

オレは他の国に住んだことはないから比較対象はないが、単純にこの国に住んでいる肌感覚として世の中の考え方が「自己責任」に偏り過ぎだろとは思う。

 

過去イラクで日本人がテロに巻き込まれたときも、多数の非正規労働者が雇用を打ち切られたときも、「自己責任」が叫ばれた。

 

そうなのか?と思う。

そもそもテロリズムが批判されるべきだし、その引き金となったアメリカと中東の関係はすっとばしてOKなん。日本も政治的に上手く立ち回ればテロリストの標的に日本人は含まれなかったのでは。

そもそも非正規雇用を利用していい思いをしていたのは労働者ではなく経営者だろうがよ。真面目に勤めていて給料が上がっていた時代に比べて労働者の意識や能力下がったわけじゃないでしょ。

とかく「自己責任論」は末端で起きている事象にしか効力がなくて原因の検証や批判にまで行き着かないんじゃねえの。

 

話を今現在に持ってきてもあまり状況は変わらないようにも。

 

ホリエモンこと堀江貴文さん。オレはこの人の言ってることに共感できたことない。
堀江貴文さんの態度は一貫してる。
「これこれこういう新しい時代が来るし来ている。新しい時代やモノに適応できない無能や弱者は貧しくなって当然。そんな奴らは見捨てていい」
という力強いメッセージ。ザッツ自己責任。
そして「自分は無能でも弱者でもないし、この先も無能や弱者になることはありえない」という確固たる自信。ステキ。

 

 支持する人は割に多いみたい。ほうほう。支持している人たちはやっぱり「自分は有能」「自分もすぐに有能な人間になれる」「自分が無能になり下がることなどない」という自信に満ちているんだろう。でなければ暗に「無能は死ね」「弱者は死んで当然」というメッセージを発している人を支持できるはずもなく。

 

オレは生まれてこの方自分を有能だと思ったことないし、無能が服着て歩いているような存在だ。ワーキングプアもろ出しの30代。死んで当然側の人間。だもんで堀江さんの考えにはついていけないし、いく必要もない。

 

「弱者を助ける必要はない」と答えた人の割合が高い、となったとき「人の心」が荒んでいる結果だ!とは思わん。人の心なんて環境に左右されまくるものだと思う。ホリエモンみたいな主張が出てくるのも、それを支持する人が一定数いるのも社会の仕組みの結果として出てきたもんだろう多分。

 

長引く不況下、企業は人を使い潰すことでしか利益を維持できずない。上がらない給料、若者は家庭を持てず少子高齢化は進み、内需の低下で悪循環。既得権益層は逃げ切りをはかり、残るものはますます少ない。資本主義が一定の限界を迎えているのに次の見通しもアイデアもない閉塞した状況。

そういった仕組みに閉じ込められると人間はますます苛烈に「弱者」を虐げるようになる、という「飼育下のマウスにこういうストレスをかけたらこういう病気になりました」レベルの当然の反応なんだ。「自己責任論」が噴出するのはその病気の症状みてーなもんだ。

 

だってそうだろ?他の先進国に比べて「弱者を助ける必要はない」と考える人が数倍いるんだぜ。これが異常じゃなきゃ何が異常だっていうんだい?Hahaha

 

人間に知性っぽいものがあるならそういう人間の当然の反応が出ないように強かろうが弱かろうが、才能あるものだろうがないものだろうが、健康だろうが病気だろうが、美人だろうがブッサイクだろうが、なんか全員いい感じに生きていける仕組みを作らなきゃいけないんだろ。

「弱者は死ね」と主張する人が弱者になったとき救済できるようにしておかないと。それが知性とか理性だろ。

 

いやだからって何。
オレは政治家でもないし、大企業の社長でもないし、アルファブロガーでもない。世の中に影響を与えるような立場から最も遠いただの貧しい弱者。こういう社会を目指すべき!と主張したいわけでもない。そんな熱い思いなどない。人間が理想郷をつくろうとすると何故か地獄ができあがるのもわかっている。

 

この世はクソだと言ってるだけだ。知性も理性もありゃしねえ。実際のところこの国では弱者はますます困窮していくのみ。世の中は「グッバイ弱者」の声を強めるだろう。

俺か?俺に言っているのか?

じゃあこう言うしかない「グッバイこの世」。

グッバイ。

つめたい炎上

今日(12/15)になって、世界一のクリスマスツリーについての

ある記事が広まっている。

 

ツイッター上の印象なんで、

実際に多くの人に広まったのか本当のところわからないが。

 

なぜ神戸に半殺しの生木を吊してはいけないのか:震災死者を冒涜する#世界一のクリスマスツリーの売名鎮魂ビジネス/純丘曜彰 教授博士 - ライブドアニュース

 

読んで思ったことは少し乱暴だな、と。

冷静さを欠いている言葉選びというか。

なぜか被災地と東京(のマスコミ)を対立する図式に置いて

煽るような文章になっている。

 

そして、この記事が広まり過ぎると

世界一のクリスマスツリーをめぐる問題がぼやけるんじゃないかとも感じた。

 

 

私にしろ世界一のクリスマスツリー、西畠清順氏、

糸井重里氏、情熱大陸、と調べていくうちに

言いたいことが300個くらい頭の中を駆け巡った。

その中のほとんどはただの暴言だ。

 

それを叩きつけたい気持ちもあるが、それはするまいと思った。

ゲロ出ちゃう、くらいは言ったけど。

 

この問題の本質はそういう「苛烈な炎上」

で終わっていいところにはない、はずなんだ。

 

怒りにまかせて暴言を吐けば、本質がぼやける。

それはだたの悪態になってしまう。そうではない。

 

早い段階から声をあげている方の多くは

つとめて冷静に、事実に基づき批判されていた。

炎上といより、淡々とした怒り。

ただ暴言を吐いてこのイベントを貶せば

終わる問題ではないことを知っていたからこそだ。

 

周りを焚き付けて、たとえば西畠氏を痛い目に合わせて

それで済むならそんな簡単な話はないが違うんだ。

 

うまくは言えない。

 

ただ、人の傷を過去を、心の中の踏み込まれたくない部分を利用していいのか。

経済的に成功すれば人の痛みは見なくていいのか。

こういうことを私たちはまだ続けてしまうのか。

そういう世の中を子供たちはどう感じてしまうだろう。

 

もうやめるべきなんじゃないのか。そう思う。

大きなクリスマスツリーはただ立っている

神戸「世界一のクリスマスツリー」について少し調べて知って、

何ともいえないイヤな気分に襲われ、どうにもそれが離れず

これはどういうことなんだろうと思い、文章を書き

自分は何に対して嫌悪を感じているのか、整理しようとした。

 

ある程度整理できた気もしたのだが、それでも何かまだ引っかかる。

 

そう思っているとまた別の情報が流れてくる。

※※確実な情報ではありません※※

去年の秋、大阪のとある庭園に

「世界一のクリスマスツリー」を立てるイベントをやらないかと

【TBS情熱大陸のスタッフといっしょに】西畠氏が売り込みに来た、とのこと。

※※確実な情報ではありません※※

 

確実ではないものの庭園の公式ツイッターが書き込み、

その後何か不都合があったかのように消したことから信憑性は高いと思われる。

 

【TBS情熱大陸】は12月17日に番組20周年スペシャルとして

プラントハンター西畠清順氏を特集する。

 

これまでの西畠清順氏の言動から、

今回の「世界一のクリスマスツリープロジェクト」はもともと

長崎ハウステンボスで計画されていたものの実現が白紙になったこと。

その後神戸での実現にあたって「阪神淡路大震災への鎮魂」が後付けされたこと。

ここまでは明確だった。

 

「世界一のツリーを立てた人物になりたい」という私欲ありきで、

阪神淡路大震災への鎮魂」を利用した西畠清順氏という構図だったが、

どうやら

 「世界一のツリーを成功させる(予定の)西畠清順氏」を利用し、

感動物語的番組として成功させたい【TBS情熱大陸】の都合ありきで全ては動いていたようだ。

それもずっと前から。

他の候補地にも売り込みをしていたのだから、

「世界一のツリー」をどこに立てるかなんぞハナから関係なかった。

阪神淡路大震災への鎮魂」は後付けどころではない。

西畠清順氏の中にも【TBS情熱大陸】関係者の中にも

一ミリたりとも存在していない思いだったんだ。

 

「世界一のツリーを立てて名を売る」という目的を持った西畠清順氏。

彼を利用して番組を成功させ西畠清順氏をコンテンツ化することで稼ぎたいTBS。

こういう構図だったのだ。

糸井重里氏が不自然なまでに沈黙するのも、

なぜか急に豪華芸能人が応援に駆けつけるのも

テレビ局が裏で動いていたことで説明がついてしまう。

 

以前私は

「世界一のクリスマスツリーを見ていやな気分になったのは、

この一本のあすなろの木の後ろにどこまでもどうしようもない人間が

山ほどいることが見えるからだ。」

と書いた。

そのぼんやりと見えていた「どこまでもどうしようもない人間」が

具体的に見えてしまった。くっきりと、いやと言うほどに。

 

阪神淡路大震災への鎮魂」は西畠清順氏個人に利用されたのではなく

もっと多くの、もっと大きな欲望に利用されていたんだ。しかもものすごく軽い覚悟で。

 

西畠清順氏や糸井重里氏を利用して儲けようとしているTBSの本音は容易に想像できる。

「こんな程度で視聴者を騙せるだろう」「感動物語でひともうけ」

「神戸でやれるなら都合がいい鎮魂とでも言っておけ」

「西畠氏を御輿に乗せるだけのボロい商売」「せいぜい優良コンテンツに育ってくれ」

 

人の死や過去のつらい出来事や今現在抱えている苦しみ、

そういうものを利用して儲ける。

そういうことをテレビ局は繰り返しやってきた。今回もそれなんだ。

 

それでいてテレビ局は、大手ディアはやはりおそろしい。

巨額の金を動かすことができ、不都合な発言を封じ、

著名人を広告塔として立てることで大衆の印象も操作する。

大手メディアには大きな力があることは確かなんだ。その分悪意をもって動くけばひどい影響が出る。

 

それでも彼らにとっては利益さえ出れば正義なのだろう。

それが世の中の仕組みだと笑うだろう。

 

大きな悪意が大きな流れを作るとき、個々人のささやかな善意や抵抗は無力になってしまう。

 

「世界一のクリスマスツリー」に感じていた消しがたい嫌悪はそいうことかもしれない。

こんな大きな木を運ぶほどのエネルギーの後ろにぞっとするほどの悪意がある。

 

「大衆なんぞ簡単にコントロールできる」

「利益を上げ、自分たちが尊敬を集めるためなら何を利用しようが関係ない」

そういう人たちがツリーの陰で笑っている。

それでも、ツリーは海の風を受けながらただ立っている。