そうぞうしてごらん

自殺についてどっかのライターが

「他の選択肢があるのに想像力がないから自殺する」ぽいこと書いてたのを読んだ。

 

自殺するまでの日々を書いた人のブログを引用していた。

その人は(おそらく)自殺した日、

最期の食事に近所のなんてことないファミレスのステーキを食べていた。

そのことについて、

「最期だったらもっといいもの食えばいいのに」とどっかのライターは書いていた。

「私だったら食べたことないような銀座の寿司とか高級料亭へ行く。想像力がない」と。

 

いかにも健全な人の思考だな、とおれは思った。

どっかのライターは一ミリたりとも自殺を選択肢に入れたことがない、

幸福な人なんだろう。いいことだね。

 

自殺する人は想像力がない、わけではないと思う。

むしろ自分を取り巻く環境、この先のことに想像を巡らせて、

暗さや虚しさ、おぞましさを感じてしまっているのかもしれない。

選択肢があることそれ自体にうんざりしているというか。

 

あるいは、

想像力がない→うつ状態が悪化→社会で生きていくのが困難→自殺を選択

というより

社会で生きていくのが困難→うつ状態が悪化→想像するエネルギーすらなくなる→自殺

といった順序かもしれない。

 

どちらにせよ「想像力がないから自殺する」

=「想像力があれば自殺なんてしない」なんて簡単な話ではないと思う。

 

たとえばおれは20年近くうつを薬でごまかしながら生きている。

おれがいざ自殺するとしても

きっと最期の食事にたいそうなものを食べようと思わない。

 

食べたことない高級な食べ物が一瞬選択肢には上がるがすぐ消える。

高級寿司屋にしろ高級料亭にしろ、行くにはエネルギーがいる。

行ったことのない場所に行くことはうつ状態の人間には

とんでもなく大きな覚悟と気力が必要なんだ。

小汚い恰好で行って店の人にイヤな顔をされるかもしれないとか、

高級店でのマナーがわからないのでひどく緊張するとか、

そういう心配を考えると行く気にならない。

死ぬ前にさらに惨めな気持ちになるくらいなら、

普段行き慣れた牛丼屋やファミレスでいいということになる。

 

「美味しいものを素直に楽しむ」

というのも心が健全である前提が必要なことなんだ。

大抵、うつの人の中には

常に「自分が感じたことと逆のこと」を囁くバケモノが住み着いている。

最期の食事に高級な美味しいものを食べたとして、

「うまいもの食べた。それがどうした?」

「これから死ぬくせに何故こんなもの食べてるんだ」

「こんな料理くらいで空っぽな自分が満たされるとでも?」とバケモノは囁く。

きっとさらに空しい気持ちになる。

 

とはいえ、最期だから少しだけいいものを食べておくか…

くらいの着地点が「いつも行くファミレスのステーキ」

だったのだろう。たぶん。

 

自殺寸前の人が「想像力」で救われることはほとんどないと思うんだ。

想像力があれば自殺しない、と信じている人は

自殺する人がどのような道程を経てその選択に至るのか、

それこそ想像する力が足りていないのだろう。

人は自分が体験していない痛みを知ることはできない、

だから仕方ないのかもしれない。

 

自殺を止めるにはそこに至るもっと前に、

もっと早く救われることこそ必要なんだ。

でもそれにはどうすりゃいい。何にも思い浮かばないね。

 

いや、いいんだ。こんなのはキチガイの戯言だ。忘れてくれ。

こんな文章を読むのはやめて、人生の明るい美しい部分だけ見て生きればいい。

見る必要のないものに目を向けることはない。

それが健全な生き方だ。

 

よりよい明日を想像し、愛を信じ、人々にキスを。

そうしてくれ。