高畑勲さんが危惧した「清太を糾弾する私たち」

アニメ監督の高畑勲さんが亡くなった。

高畑勲さんは「太陽の王子ホルスの大冒険

アルプスの少女ハイジ」「赤毛のアン」などの演出を担当し

日本におけるアニメーションの新たな方向性を示した人物だ。

 

その中でも日本人なら誰しも一度は観たことがあるほど

有名な作品といえば「火垂るの墓」だろう。

高畑勲さんへの追悼として4月13日の放映が決まったそうだ。

 

火垂るの墓」は多くの人に様々なトラウマを植え付けた作品でもあるはずだ。

映画冒頭、駅構内で死を迎える清太。

爆撃により大やけどを負う清太の母。

徐々に衰弱していく節子。

衝撃的なシーンが多くあった。

 

そしてまた、直接的な残虐さではないが今なお

火垂るの墓」において多く語られるのは

母を亡くした清太たちの受け入れ先となった親戚の叔母さんの言動と

その後の清太の行動についてだ。

身寄りのない清太と節子の面倒をみることとなった叔母さんは、

ふたりにつらく当たる。

『あんたらは お米ちっとも出さんと

それで御飯 食べたいいうても そらいけませんよ!

通りません!』

『なんや!そんならおばさんが ズルイことしてるいうの!

えらいこというねえ!

みなしご 二人あずかったって そう いわれたら世話ないわ!

よろし!うちと あんたらと 御飯 別々にしましょ!

それやったら文句ないでしょ!』

 

 それに耐えかねた清太は節子とふたり家を出て防空壕で暮らすことを選択する。

しかし子どもだけで生活しているがための情報不足、配給の遅れなどが原因で

節子は栄養失調となりやがて命を落としてしまう。

 

この物語の一連について多く見られるのが

「子どもの頃観たときには叔母さんが悪者に見えたが、

大人になって観ると清太のクズっぷりに腹が立つ」

「人様の家に置いてもらいながら、

手伝いもしていないし、一日中部屋でごろごろしている。

叔母さんが叱るのも仕方ない」

「清太がガマンの足りないボンボンだった。

叔母さんに頭を下げればよかった。

節子を殺したのは清太だ。」

というような意見だ。

「火垂の墓」悪いのは本当に叔母さん?清太が一番悪いとの声・・・ - NAVER まとめ

  

 

一方でこの一連について高畑勲さん自身がどう意識して

描いたのか、インタビューに残っている。

アニメージュ1988年5月号)

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あの時代、未亡人のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった。

清太はそれを我慢しない。

 

徹底して社会生活を拒否するわけです。社会生活ぬきの家庭を築きたかった。

 

無心に”純粋の家庭”を築こうとする。

そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。

しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。

 

おとなもみんな清太になりたがり、

自分の子どもが清太的になることを理解し認めているんじゃないんですか。

社会生活はわずらわしいことばかり、

出来るなら気を許せない人づきあいは避けたい、

自分だけの世界に閉じこもりたい、それが現代です。

 

清太の心情は痛いほどわかるはずだと思います。

 

現代の青少年が、私たちおとなが、心情的に

清太をわかりやすいのは時代の方が逆転したせいなんです。

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清太が間違った判断を下したのは確かだが、

全体主義から逆転し個人主義的な考え方が

広まってきた時代(公開当時1988年)において、

多くの人々は清太に共感するようになったのだと指摘している。

 

そしてさらに、ある種予言のようにこうも語っている。

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もし再び時代が逆転したとしたら、果して私たちは、

いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。

全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。

清太になるどころか、

未亡人以上に清太を糾弾することにはならないでしょうか、

ぼくはおそろしい気がします。

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前述の「清太が悪い」という意見はまさに

高畑勲さんが危惧していた事態である。

もちろん公開当初にも

清太には共感できないという人もいただろうし、

今現在も社会生活を拒絶した清太に共感をもつ人もいるだろう。

しかしそれでも「清太を糾弾する」流れが

これだけはっきりと見えてくるということは

この30年で社会の風潮や「空気」が変わったことはやはり確かなのだ。

 

全体主義に合わせられない者は悪。

非国民であると。

現代的な言い方をすれば、

社会に合わせられない者の無能さや愚かさは

「自己責任」でありそれによって困窮したり最悪命を落としても

それは同情されないものでむしろ責められるべきものある、と。

 

そういった視点を意識的、無意識的に関わらず

私たちは清太に向け始めているのだ。

 

これはいったい何だろう、と思う。

 

私たちは、なまじインターネットやスマホに触れ

過去になかった技術を使っているというだけで

なんとなく過去の人間たちより賢くなった、優れていると考えている。

 

過去(といっても当事者ではなく生まれる前の出来事)

と同じ失敗は繰り返さないと思い込んでいる。

しかしそれは本当だろうか。

 

たとえば今現在、生活困窮者や低所得層に対し

浴びせられる世間の声は「自己責任」という糾弾である。

「努力が我慢が足りない。

無能さや愚かさは罪だ。

本人が悪いのだから、助ける必要はない。」

 

戦時中、全体主義に合わせられなかった者を「非国民」と罵倒したことと

今、社会生活にうまく適応できない、脱落した者を「自己責任」と追いつめること。

そこに違いはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

 

全体主義から個人の時代へと進んできたはずである。

大家族は減り核家族化がすすみ、

携帯電話は一人一台。

集団は個人へと分割され続け

誰でもコンテンツを発信したり

ネット上で商売もできる。

趣味や生き方の多様性を広げそれを認め合っていこうと、

していたはずでしているのではなかったのだろうか。

 

なにか同時に揺り戻しが起こっている。

もちろん単純に「過去に戻ったのだ」というようなものではなく、

時代が進んだなりの、また新たな全体主義的な抑圧が迫っているのかもしれない。

戦時における反時代的行為を選んだ清太が1988年には共感され、

その30年後、2018年には再び反時代的だと糾弾されはじめている。

 

私たちは、

劇中に出てきた農家のおじさんのように

必死に謝る清太を袋だたきにするのかどうなのか。

堪忍してください。

堪忍してください。

 

 

 

 

 

 

衰退ドット

この国は縮小再生産のいっと。

衰退していくみらい。

きっとすべてはドット絵のようになる。

少ない容量のなかでうまいことやっていくしかない。

たぶんそれほどぜつぼう的ではない。

にほんにはそれが合っているかもしれない。

でもうつくしいドット絵がうてるようになるにも時間はかかる。

まだ先のはなし。

だがしかし

PS4やswichになれしたしんだ子どもたちからそれらをうばい、

もういちどファミコンであそぼうぜと言わなければならぬ。

その過程はあまりすてきな話じゃない。

でももはやそうするしかない。

ドット絵をもういちど、ドット絵を打とう。

サヨナラゲーム業界

先月、10年間勤めたゲーム会社を辞めた。

やめた理由は山ほどあるが、まあとにかく疲れてしまったんだ。

 

割と規模の大きな開発会社(デベロッパー)だったので、

有名どころと組んでの仕事にもいくつか関わった。

いい思い出ですね。

(ゲーム業界にはパブリッシャーとデベロッパーがあって

ざっくりいうと

・パブリッシャー→企画、広告、資金を集める、が主な仕事

デベロッパー→実際のデザイン、プログラミングなどソフト開発

と別れている。もちろん企画開発両方やっているところもある)

 

それなりの期間働いたけど

ゲーム業界の闇、みたいなのは特になかったよ。

だいたいが色んな業種の人がブチ当たる問題と同じ。

マネジメントなんて出来ないのに長年業界にいるって理由で

マネージャーやディレクターをやっている人が多数だとか。

それによって現場がいつも混乱してるとか。

実際の制作現場のことをまったく知らない

クライアントによる無茶振りとか。

ほぼ完成までつくったソフトがお偉い人たちの判断でお蔵入りとか。

 

ただ、なんと言うか

「こんなんじゃ日本からいいゲームは出ないよな」

と思うことは多かった。

他の国のことは知らんけど。

 

子どもの頃大好きで楽しませてもらっていた

ゲームを作っていた会社ともお仕事したけどね。

あんなにがっかりさせれるとは。ひどいもんだった。

ゲーム業界で成功してスター扱いされることで、

クリエイターとしての感覚がおかしくなっている人が

ずいぶんいたよ。全員じゃないと思うけど。

 

ものをつくるっていうのは

作る人間が有名だろうが無名だろうが、

チームが大規模だろうが小規模だろうが、

基本的にやることは変わらないはずなんだ。

 

まず完成イメージや根幹となるコンセプトがあって、

そのイメージに近づくために実際に手を動かし

デザインを描いたりプログラムをしたりする。

最初から完成イメージに近いものなんて

まず作れるはずもないので、

具体化することと修正することを繰り返して、

完成形に近づけていく。

また、具体化する中で当初のイメージになかった

要素を入れた方がいいということもあるし、

逆にこれはなくてもいいと気付くこともある。

チームであるなら作りながら完成イメージやコンセプトについて

何度も確認、共有し合いつつ進める。

トライ&エラーを繰り返しながら

時間をかけて少しずつ積み上げていくことのぜんぶが

ものをつくる、ということだ。

当然のことながら作っては捨て、捨ててはまた拾いなので

この道程はかなり面倒くさくて苦しい。

 

某企業と組んだときヤベー進め方をされたことがあった。

まず、ゲーム業界で有名なスターNさんの絵が一枚だけある。

この絵をもとにゲームを作りたい。

ゲームの完成イメージやコンセプトはざっくりとしか決まっていない。

 ーまあここまではよくあること。こういう場合は現場からいろいろ提案して

  作りながらすり合わせていくしかない。

一点決まっているのはこのゲームのディレクション(最終決定を下すポジション)

はNさんであること。

 ーなるほど、ではNさんはこのゲームの打ち合わせには出席するのだな。

  そうじゃないと何も進まないからな。

ところがNさんはほとんど打ち合わせに現れなかった。

海外に行っている、他のゲームを掛け持ちで見ているので時間が取れないなど。

こちらとやり取りするための窓口役のディレクターもいるのだが、

あくまでも最終決定権を持っているのはNさん。

こちらがこのゲームはこの方向性でいいのかデザインはこれでいいのかと聞いても

「Nの確認が取れないことには何とも」の一点張り。

ときには「Nは忙しいですからね〜」と何故か誇らし気に言ってくる始末。

そして数ヶ月に一度窓口役のディレクターがNさんの伝言をもってくるだけになった。

そこで伝えられるのは毎回ちゃぶ台返し、やっぱりこうしましょうという大幅な変更。

つまりは最終決定しますよと言った人物が不在のまま、

現場はこのゲームはこの方向でいいとも悪いとも判断されずゲームをつくり、

それを数ヶ月に一度方向転換させられるという状況を繰り返した。

 

その後、当然と言えば当然でこのゲームはお蔵入りとなった。

おれはむしろお蔵入りでよかったと思った。

こんなやり方で現場が無理して作り上げたゲームでも

世間的にはNさんが作ったゲームになるのだ。

すごい、これはすごいぞ。

何せNさんはこのゲームのトライ&エラーに、

ものつくる過程に、ほぼ参加していないのだ。

数ヶ月に一度、出来上がってきたものに対し

あんまり気に食わないな、と言ったに過ぎない。

打ち合わせや会議に参加し、アイデアを出したり

修正箇所をすぐに確認することさえしていない。

 

これは「クリエイターごっこ」でしかない。

一番苦しい、面倒くさいところを現場に押し付け

暇なときにちょっと見て思いついたことを言って、

完成したら私が作りましたと言い放つ、

おいしいところだけいただいてしまおう、

というのは少なくともクリエイターの態度ではない。

資本家の態度ではあるが。

先に書いたようにトライ&エラーを繰り返し

時間をかけて構築していく過程そのものが

ものをつくるということだ。

クリエイターとしての矜持があるなら

むしろこの程度の関わり方で

「自分の作品です」と言ってしまうのは恥ずかしいことだ。

 

何故Nさんはあきらかにディレクションする時間がないのに

ディレクター職を他の人に任せなかったのだろう。

今でもまったく理解できない。

 

「自分が優れたクリエイターである」という思いばかりが先走ってしまって、

「具体的にものをつくるということはどういうことか」という感覚が

マヒしているように感じられてならない。

 

Nさんに限らず有名企業の案件ではこういった進め方に何度か出会った。

進め方のおかしさもさることながらそのような企業や人は

スケジュール感覚やコスト感覚もマヒしていることが多かった。

ものづくりにおいて

「いつまでに」「どれくらいのコストで」つくるか、というのも重要だが、

いくつかの企業はそれをどういうわけか度外視していた。

有名企業であればいくらでも資金が集まるのだろうか。

これについてはおれのような末端の人間にはどういう仕組みかわからない。

ただ現場としては長期間同じものを作り続けるのはかなりキツい。

個人としてもチームとしても作ったものが結果を出さない状況は精神を摩耗させる。

ゴールがどこにあるのか知らされずに長距離走をしているようなもので、

どこにどれくらい力を入れればいいのか、

どれくらい余力を残せばいいのかわからない。

するとアイデアも枯れてくるし、チームの雰囲気も閉塞感に溢れてくる。

時間をかければ必ずしもいいものになるわけではない。

これも少し考えればわかる程度のことだ。

そんな程度の判断ミスを続けている企業がずいぶんある。

 

ゲーム業界に大層な闇なんかない。

いくつかの不愉快な事実があるだけだった。

おれは「こんな状況じゃいいゲームは出来ないよな」

と感じたし、心底うんざりした。

それでもまあたまにはいいゲームは出来上がるし

それに運良く関われることもあるだろう。

あるだろうとは思うけども、

おれはもう疲れてしまった。

ここらでもういいだろう。

 

サヨナラ、サヨナラ、サヨナラゲーム業界。

 

無機的なシステムを愛せ

ベーシックインカム生活保護に関する

様々な主張や論争を見るにつけ、

つくづく、人間の感情に頼っていては人間は救われないな、

感情を排した無機的なシステムによってのみ

人間は救われるんだなと思う。

 

「人間の感情に判断をゆだねる」とか

「人間の感情にうったえる」とかいったことは

本当に無意味でそこに依存しては人間を救うことなどできない。

 

人間は個々の解釈で他者に優劣をつける。

ベーシックインカム生活保護の話になると

必ずと言っていいほど同じ意見が出てくる。

「貧しいのは自己責任だろう」

「自分たちの税金が使われるのは許さない」

「勉強してこなかった、努力しなかった本人が悪い」

そう言いたい気持ちも分かる。

究極、ベーシックインカム生活保護に反対する人たちの中に

渦巻いている感情は

「バカに金をやるな」「怠け者が楽をするのが気に食わない」

「頭の悪いやつは死んでも仕方ないだろ」

という非常に「人間らしい」ものだ。

 

人間には理性があるだなんていうのは上辺だけの話で、

根底には非常に動物的な

自然淘汰」や「弱肉強食」の本能があるのだろう。

常にどこかで食いものにされてたまるか、

食う側でいなくてはならないという強迫観念。

 

人間は結局、自分に近しい人以外の

自分の知らないところにいる劣った人間は

死ねばいい、消えればいいと思っている。

自分と近しい人さえ守れればよいのだから、

不安要素である不愉快で危険な他者は

いないにこしたことはない。

それがいい悪いではなくそれはごく普通の感情で

人間がみんな持ち合わせているものだ。

だからこそ戒めのためにあらゆる宗教は

自分の近しい人以外を、

隣人を愛せとわざわざ教えているのだ。

 

こういった人間の感情に

最終的なシステムの施行の判断をまかせていては

やはり間違いが起こるのは当然のこと。

 

人間の感情に判断をまかせて失敗している例として

飲酒運転の撲滅がある。

飲酒運転撲滅運動は大抵の場合

「あなたの家族が悲しむことになります」や

「被害者の悲しみを知ってください」などの

人間の感情に、それぞれの善意に

うったえることを前面に押し出していく。

 

しかしこれは悲しいことにあまり意味がない。

どんなに広く人々の感情にうったえても、

そこに何にも感じない人はいるし、

自分だけは事故を起こすはずはないと思う人たちもいる。

善意や想像力というものが欠落してしまった

人間というのは一定数確実にいるのだ。

 

だからこそ飲酒運転を撲滅するにはシステムに頼るしかない。

酩酊状態では運転することができない自動車が

普及しなければいけない。

一部ではすでに開発されているが、

呼気を吹きかけアルコールが検出されれば

エンジンがかからない自動車の普及でしか

飲酒運転は撲滅されない。

運転者が善意ある人だろうが

他人に迷惑をかけても何とも思わない人だろうが

アルコールを飲んだ人間には運転をさせない

無機的なシステムこそが必要だ。

 

一方で、

私は赤ちゃんポストは非常に優れたシステムだと思っている。

日本で赤ちゃんポストが導入される際には

やはりというか様々な意見が出ていた。

「赤ちゃんをモノのように扱うのか」

「赤ちゃんを捨てるような親なんてとんでもない」

など、これまたとてもまっとうな人間の感情だ。

 

しかし実績として

熊本県にある「こうのとりのゆりかご」では

運用10年間で125人もの赤ちゃんの命が救われている。

赤ちゃんポスト、運用10年で125人 熊本・慈恵病院 :日本経済新聞

 

赤ちゃんポストは完全匿名性で、

病院側は事前の相談をすすめているものの必須ではなく

誰がいつ赤ちゃんを預けてもよいことになっている。

無機的にポストは開いていて、

環境に恵まれなかった赤ちゃんを受け入れてくれる。

ポストはそこに赤ちゃんを預けにきた人を

どのような人物でも選別しないし、

計画性がない、愛情がないなどと責めることもしない。

 

もしも受け入れる病院側が

ポストに預けるかどうかを判断する人間を

そこに配置してしまっていたら、

これほど多くの命は救われなかっただろう。

 

最終的なシステムの施行の判断を人間がすることなく、

ただポストに赤ちゃんを入れれば淡々と命が守られる。

感情を排したシステムの成功だと思う。

 

話を生活保護に戻すと、

この制度の最大の欠陥は

「最終的なシステムの施行の判断を人間がする」ことだ。

人間はものごとを感情で判断するので、

生活保護を受けるやつはロクなもんじゃない」

「不正受給しようとしてるかもしれない」

というフィルターがかかり施行がうまくいかない。

結果、本当に生活保護を必要としている

人たちに制度が行きわたらない。

82歳母と52歳娘、孤立の末に 札幌のアパートに2遺体 「8050問題」支援急務 (北海道新聞) - Yahoo!ニュース

 

本当は必要な人にほぼ自動的に生活保護

行きわたるようなシステムになるのが一番いい。

(たとえば自治体ごとで健康診断などを行い、

著しく健康が損なわれているのに通院履歴がなく

数ヶ月後にも健康状態が改善しない人は

自動的に生活保護対象になるなど)

だがそれも難しいだろう。

 

だからこそベーシックインカムなのではないか。

「人間らしい」観点から言えば、

「怠けたものに金をやるのか」

「努力しないで金をもらったら堕落するやつが出てくる」

などの意見は出るであろうが。

それでも命と生活よりも優先させるものはない。

「とりあえず全員生きていける」

ことに不満を言うだなんてどうかしてるぜ。

人間の感情はいったん無視して

無機的なシステムを施行してはどうだ。

 

 

人間のやさしさ、思いやりそれ自体では人間は救えない。

人間を救うのは感情のない無機的なシステムだけ。

ただそのシステムを構築するまでには本当のやさしさと思いやりが必要。

 

 

頼むぜ、ベーシックインカム

ああ〜働かずに暮らしていきてぇ〜。

目を閉じるとチカチカと見えるのだった

ああ、あれは曼荼羅だと思った

古い記憶を見るのだった 覚えていない記憶だった

何度回った

懐かしくもない 悲しくもない

左手を握りしめた

せまい場所に閉じこめられた犬を見た

古い土の壁だった

指をならし駆け下りて ほんとうは泣きたいのだった

なにも なにも

大声で泣きたいのだった

それすら許されないせかいで

軽いとびらを開ける

それは終わったのだ 終わったのだと言いきかせる

なおも

チカチカと回り消え またあらわれ

その先を見るか

もう見たくないのか

いずれ見るのか そこへ行くのか

つめたい空気がながれて

階段はきしむ

すべてはやさしく むなしい

泣いている 泣いていない

チカチカ

チカチカ

美しいものを見せてくれ、生きていてよかったと思えるような。
汚れたものを見せてくれ、生まれてくるべきじゃなかったと思うような。

きれいな声を聴かせてくれ、生きていてよかったと思えるような。
きたない罵声を浴びせてくれ、生まれてくるべきじゃなかったと思うような。

笑ってくれ、生きていることを肯定するような。
泣いてくれ、生まれたことを否定するような。

ずっとここにいたい。
すっと消えてしまいたい。

終わることのかなしい。
始まることの素晴らしい。
終わることのすばらしい。
始まることの悲しい。

音が鳴っていて響きあって喜びも悲しみもなかった。

ただ音が。