生きるに値するナーニカ

この世には

生きるに値する何か、があるよ。

それは自分の将来の夢とか目標だったり、

大好きな誰かだったり、子供のために生きたり、

動物のために生きたり。

 

それは理屈として分かっていても、

生きるに値するもののために

生きることのできない人もまたいるよ。

 

その差はなんなんだろう。

いやそれは

問うことに意味もない、むなしい話だね。

 

有限であることを、

不平等であることを、理不尽であることを

どこかで見ないことにできる人じゃないと

生きるに値する何かに夢中になれない。

そうでしょ?

 

愛する孫や子供を自分の運転する自動車でひき殺してしまう人もいる。

愛する人にいくら思いを伝えてもいっこうに誰からも愛されない人がいる。

いろんな夢や目標があったのに重い病気にかかり諦めざるを得ない人がいる。

大切な誰かが、他人の痛みなんて想像もしない

非道な人間に殺されることもある。

 

そういうことに自分が遭遇しなければ、

とりあえずよいことにする。それが普通ということだ。

 

全てのひとは幸せになれない。

望む望まないに関わらず

この世界の幸せは常に誰かの不幸の上に成り立っている。

わたしではない誰かが不幸になった。それを見て心底安心する。

 

でもそういう理不尽と真正面に向き合ってはいけない。

わたしは幸せでも他の誰かは不幸かもしれないだなんて、

そんな想像力は身を滅ぼすだけなんだ。

自分の家族や、親しい友人が平穏無事ならそれでいい。

遠い国、いや同じ国のどこかで誰かが理不尽に殺されても

それはただニュース映像のむこうのこと。対岸のこと。

 

人間の幸せなんて限定的なんだ。

それが何より正しくて、目の届く範囲がなんとなく幸福であればいいんだ。

全体の幸せなんて願おうものなら、

不幸を招きそうな人を、

端的に言って気に入らないすべての人を

殺して回らなければいなくなる。

カルト的な宗教や政権がやってきたのはそういうことだ。

 

人間は基本的に何かに気付かないほうがいい。

愚かさを露呈するだけなら、アホのほうがいいんだ。

 

しかしこの世界の欺瞞に気付いてしまった人はどうすればいいんだろう。

いやでも、すべは無い。この世は不平等で不条理だって

気付いたからって何もできるわけじゃなく。

気付かなくも阿呆。

気付いても阿呆。

人間とはとことん間が抜けた生き物ですね。

 

だいたいのことには目をつむって、

できれば目をつむった自覚すらなく、

のほほんと生きていきましょう。