よりよい明日

今朝のNHKニュースで「就職氷河期世代を正規雇用する動き」について取り上げていた。今の30代半ば~40代半ばくらいの世代は、語学力があったり有名大学を卒業し資格を持っていても新卒採用で就職先が見つからなかった。その後も非正規雇用で不安定な暮らしを強いられている人が多くいる。しかし官民の両面からこの世代を支援し、正規雇用しようという動きが活発になっているとのことだ。政府の指針としては今後3年間で30万人の正規雇用を増やすことを目標としている。兵庫県宝塚市就職氷河期世代を対象に正規雇用募集を行ったところ3人の定員に対し1600人もの応募があったそうだ。想定以上の応募に宝塚市は採用を4人に増やした。採用担当者が「転職が多いことはマイナスではなく、いろいろな職業を経験していることはプラスだ」とか、別の記事では市長が「苦労した経験を生かして市民に寄り添う優しい行政マンになってもらいたい」などと言っていた。そしてニュースの終わりにNHKアナウンサーという安定的な職についた綺麗な顔の女性が「氷河期世代の方たちがこれから安定した職に就き、才能を発揮できることを願います」と結んだ。

始まりから終わりまで、ただただ陰鬱な気分になるニュースだった。世間が、社会が一度はお前なんていらないと突き離した人々に対して、「むしろ即戦力」だの「苦労した分優しくなれる」だのと手のひら返しの綺麗ごとを並べ立てる。3人の定員に対し1600人が殺到するというそもそもの異常事態。そこから「選別」され採用は4人のみ。ほとんどの人の生活は変わらない事実。本人にそのつもりはないだろうが就職氷河期世代の苦労とは無縁のはるか高みからコメントをするアナウンサー。幸せになれる人間とそうではない人間のパキッとしたコントラスト。

何か、何かこのニュースを見たからというだけではなく、この話は象徴的な出来事でしかなく、俺たちが生きているこの社会が、世界が「よりよい明日など存在しない」と投げかけてきているような気分がする。もっと正確に言えばこの世界には「よりよい明日」を得ることができる人間と得ることが全くかなわない人間がいるということだ。それが本質なのだと。

村上龍がかつて小説で「この国には何でもある。だが希望だけがない」と書いた。村上龍の日本嫌いは有名であるし、物言いが極端だと当時も思ったし今も思っている。がそれを差し引いても、今の日本にこれほど当てはまってしまう一言もない。

別に嘆いてるわけではない。ゆっくりとしかし確実に、止めようもない重さをもって壊れていっているのだと感じているだけだ。いやそれは俺の勘違いなのかもしれない。もっと個人的に「よりよい明日」を手にすることだけを考えればいいだけなのだろう。

けれどもその「よりよい明日」を手にする才能が俺にはないのだ。個人としていかに生き残るかを語る人はたくさんいる。「スキルを磨け」「チャンスをものにしろ」「具体的な行動をしろ」。。そのどれもが俺には無理なことばかりだ。それができないからこそ薬と酒に頼り切り日々をやり過ごすだけの存在になった。そもそも「希望」とか「よりよい明日」とかそんなもの本当に必要なんだろうか。それを手にすることができる人、すでにもっている人にとっては重要なのかもしれないが。そんなものなくてもひとまず生きていけることのほうが大事なことのような気がする。ただ呼吸を続けるだけでもいい。世界が、社会が絶え間なくお前なんかいらないと言ってきてもどうにか生きていてほしいと、誰に対してともなくそう願うことがある。同じ苦しみのなかにいるとか安いことは言えない。他人の苦しみは他人だけのもの。そうなのだけど、ただ生きてはいてほしい。誰にともなくそう思う。

「生きていればいいことがある」というのは俺がこの世で一番嫌いな嘘だ。生きていてもほとんどいいことに出会うことなく終わる人生もある。何かいいことがあっても最後にはそれを全部失って最悪な気分のまま死ぬ人もいるだろう。苦痛は別に優しくなるための材料になんかならない。苦痛は苦痛のまま、自分に突き刺さって終わりだ。希望は別にいらない。悟りもいらない。よりよい明日は来ないだろう。ナポリを見る前に死んだっていい。いつでもロープを買うことはできる。踏み台ならばすでに買ってある。いや別にこの国がどうなろうが、俺の知ったことではない。一切皆苦の現世をズタズタのまま歩く。何も望むな。どうせすべて失う。どうせいつか呼吸は止まる。どうせいつか心臓は止まる。

 

とあるジョーカー

少し前にホアキン・フェニックス主演の映画「ジョーカー」を観た。ホアキンリバー・フェニックスの弟だということは見た後で知った。へえ。

ジョーカーといえば「ダークナイト」でのヒース・レジャーが演じたジョーカーが有名だ。ヒース版ジョーカーは演技もすごかったがそもそもキャラクターとして『狂気と悪意』の塊であるという意味合いが強かった。息をするように人を殺す、自分の苦痛すら笑う、自身について悲劇的な過去をいくつも語るがどれもすぐに嘘だと言う。普通に生まれた人間のなかに『狂気と悪意』が育ってジョーカーになったというよりも、すでに『狂気と悪意』がパンッパンにつまった存在としてある日何も無いところからポンと出現したようなキャラクターがヒース版ジョーカーだった。

一方でホアキン版ジョーカーはそうではない。貧しく不幸な、ありふれた存在である青年アーサーが徐々にジョーカーへと変貌していく一連が描かれる。ジョーカーの誕生を描いた作品なのだが必ずしもホアキン版ジョーカーが他作品のジョーカーのオリジナルであるわけでないのだろう。例えばヒース版ジョーカーとホアキン版ジョーカーでは内包する感情の質があまりに違う。ヒース版ジョーカーが持つのは混沌や破壊を純粋に迷いなく実行する透明感のある『狂気と悪意』であるのに対して、ホアキン版ジョーカーが持つのは葛藤と混乱と苦痛がない交ぜになった濁った感情だ。ホアキン版ジョーカーは映画のラストでこそ破壊を行い混沌を呼ぶがそこにはブレイクスルーした解放感なんぞない。はっきりした輪郭のない悪夢を見ているような、混濁した感情を引きずったままのジョーカー、それがホアキンが演じたジョーカーだった。

ヒース版ジョーカーはカリスマ性やある種の美しさをもっており、見ている側にカタルシスを感じさせる。普通に生きていても破壊願望やぶっ殺してやりたい奴の一人や二人誰しもいるわけだが(暴論)しかし一方そんな純粋な悪には自分はなれやしないということも当然理解して大半の人は常識的に日々を生きている。だがヒース版ジョーカーは気持ちいいくらいの勢いで破壊し殺す。そこには野球少年がメジャーリーガーのプレーを見たときのような憧れの感情が湧いてくる。いいぞ!ナイスプレー!そんなホームランをオレも打ってみたかった!そんな剛速球をオレも投げてみたかった!!

しかし、ホアキン版ジョーカーにそういった類のカタルシスはない。むしろアーサーが最初殺人を犯したところで俺は「ああ、やってしまった」と思った。その後もラストに向けてアーサーは何人も殺していくわけだがそのたびに「やめてくれアーサー」と感じずにはいられなかった。まるで自分が人を殺めたような気分の悪さがあった。

ヒース版ジョーカーの殺人と破壊は「手の届かない憧れのメジャーリーグ級スーパープレー」であるのに対し、ホアキン版ジョーカーの殺人と破壊は身近すぎ生々しさがそれを楽しむことを許さなかった。

もちろん、それはこの感想文を書いている俺個人の感じ方だ。アーサーがジョーカーに変貌したとき、態度の悪いエリートビジネスマンを撃ち殺したとき、カタルシスを感じた人もいるだろう。むしろそちらのほうが正常なのかもしれない。

映画の前半で描かれたアーサーというキャラクター像に俺は感情移入しすぎていた。貧しく、機能不全の家庭に育ち、精神を病んで、わずかな仕事で糊口をしのぐ生活。その仕事もクソガキどもにバカにされ蹂躙される。何かしらわずかな希望を描こうにも、現実がそれすら許さない。電車で前の席に座った子供を笑わせようとする、善意からのささやかな行動ですらうまくいかず疎まれる。クスリと無意味なカウンセリングでなんとかごまかす日々。望むのはただ優しく大きな存在に抱きしめてもらいたい、ということだけ。

アーサーがネタ帳に書いた「心の病をもつ者にとってもっともつらいことは周囲の、心の病など存在しないという目だ」という言葉。

そういったアーサー像に同じく精神を病み貧しい俺は共感してしまっていた。貧富の格差が、成功者と落伍者の格差が広がり精神を病む人が増えている今の世界において、同じようにアーサーに共感する人間は多くいるだろう。

ヒース版ジョーカーは遥か高みにいる唯一無二のジョーカーだったのに対し、ホアキン版ジョーカーはすぐ隣にいる「とあるジョーカー」の存在を示している。誰しも、とまでは言わないが世界から「お前なんていらない」「お前の居場所などどこにもない」と烙印を押されジョーカーのようになってしまう可能性を含んだ人間が多くいるんだと、そういう世界に俺たちは生きているのだと突き付けられた。そういう映画に感じられた。

ただ映画を観終わってしばらくたったとき、ふと思った。

ラストシーンの、カウンセラーとの「ジョークを思いついてね」「どんな?」「理解できないさ」というやり取り。

待てよ。ホアキン版ジョーカーも実はヒース版ジョーカーのように自身の過去、出自について嘘をつく、ジョークだよと言うキャラクターだったとしたら?

アーサーの「心優しい青年が悲劇的な運命と周囲や社会の悪意によって破壊されジョーカーへと変貌した話」それが全てジョーカーの嘘だったら?ジョーカーが「アーサーのような弱者こそがジョーカーになるのだ」という嘘の物語を世の中に放ち、それを受け取った弱者たちが「これは俺の物語だ」とか「俺が悪いんじゃない世界が狂っているんだ」「俺もジョーカーになる可能性がある」と感じたら、それはとても面白いジョークだと考えたのだとしたら。

この映画がヒットしていることそれ自体がジョーカーという『狂気と悪意』が仕掛けたジョークだという可能性すらある。

事実、「ジョーカー」の解釈や感想をめぐって記事を書いた人への誹謗中傷や悪意をぶつける行為を見かけた。「ジョーカー」が世に放たれたことで、より人々がいがみ合い憎しみ合い、人間の愚かさが露呈するような事象。それら全部をヒースが演じたジョーカーではなく、ホアキンが演じたジョーカーではなく、監督や脚本家が思い描いたジョーカーでもなく、実体のない『狂気と悪意』の塊としてのジョーカーが、どこかでニヤニヤと笑いなら眺めている気がしてならない。これぞ喜劇だと。

コルク

今 目の前にある コルクのコースターが

最期にのこるものだ

飲みきれなかった ビールのアルミ缶が

最後にのこるものだ

 

やたらと傷ついた テーブルが

俺がいなくなった後にも

捨て忘れた 薬のケースが

俺がいなくなった後にも

 

あの映画の話をしよう

あの映画の話をしようか

恰好がつく振りがしたい したいだけだ

 

ひび割れかけのコルクのコースターに

ビールだろうが バーボンだろうが

 

単調なコードの繰り返し

それが叫びに似て

 

保護されてない通信です

保護されていない…

 

塩気

氷のとけたソレ

風俗嬢の日記

チェイサー

進行する細胞

 

煩わしさ が纏わりついて

風の強い日はずっときらいなんだ

そういうものは全部いずれなくなるね

 

コルクのコースターだけが残る

そこに ビールだろうが 焼酎だろうが ワインだろうが

最期の 最後に

何が乗っていたのか 誰もが忘れる

コルクの

コースターだけが残る

 

 

 

かける言葉は

例えば 今まさに 吊られたロープに 首をかけ 足場を離れようとする あなたに

かける言葉は ないのです

例えば 今まさに 心から信頼し愛していた人に 裏切られ 途方にくれる あなたに

かける言葉は ないのです

 

無力 無力

 

例えば 今まさに 誰かを殺してしまった 己の手を 見つめる あなたに

かける言葉は ないのです

例えば 今まさに 誰かに殺意をもって 刃物をつきたてられた あなたに

かける言葉は ないのです

 

途方にくれる ばかり

 

何か出来ると 思っている人は 幸福な人なのでしょう

いっそ明日が 来なければ

 

いっそ 

始めから 何も無ければ

 

救済 のことを 思うのです

虚しいことと 知れど

夜明けの 青さと なみだと

 

足りない 小銭で 買った切符と

ロフトの上の 熱量と

 

遠く 遠くなった 人のしあわせを わずかばかり 願って

まともな 人間味が あるように ふるまった

 

自転車の きしむ音と 

乗り換えの アナウンスと

名前を 忘れてしまった 店とか

駅前の 混雑

不愉快な 会話

フェンスを のぼってみたことも

 

それで それで

 

例えば 希望に 満ちた未来に 喜び うち震える あなたに

かける 言葉は無いのです

 

…言葉は無いのです

 

そのうちに すべて 忘れてしまって

髪を 染めたことも

馴れない 繁華街を 歩いたことも

途中の駅に 虹が出ていたことも

 

絵を描こうとしたことも

虚 虚

 

一人で観た 映画も

揺られた バスも

思い出せない ことも

 

言葉も無く 言葉はないのです

わずかばかりの

 

雨の音がして

時間が 過ぎて

もう一度は ないことが 

そのほうが

 

言葉は 無いのです

お腐れさま

興味も無い出来事に対して、さも興味があるように大げさに真剣な顔を取りつくろい、内容はなんにも無い言葉を並べ立てること。さして同情もしていないのに世間に向けて「私は可哀想な境遇にいる人たちに思いをはせてヤリキレナイ気持ちになっております」と言わんばかりの表情を貼付けて、やはり空っぽの言葉を羅列すること。面白くもないのに周囲が笑っているから「それのどこが面白いのか」と問うことをやめ、壊れたサルのおもちゃのように手を叩きバカみたいに笑うこと。本当はただカネと自分を讃える言葉が欲しいだけなのに「世のため人のために働いています」みたいな顔して、これからの社会のあり方なんぞを語ること。そういうことを繰り返していると何かがゆっくりと腐っていく。何が?

誰かに必要とされること、はこの社会においてとても重要なことのように語られる。いやしかし。いくらあなたが必要だと言われても、作り笑いや真剣なフリを続ければ確実に壊れてゆく。何が?

そうして腐りきった人たちがたのしそうに今日もメディアを、社会を、世の中のそこここを跋扈する。それについていける人なら一緒に踊ればたのしいのだろう。脳が空っぽでも。そういう循環で大抵のことは回っている。上辺の、その上澄みの泡だけを舐めて生きていることを謳歌できる。それでいいのかという疑問なんぞバカを見るだけだ。問わないとは才能だ。何の?

本質、本質などというものに何の価値もない。腹もふくれない。カネも儲からない。他人に尊敬もされない。面白くも何ともない。頭がおかしくなるだけでつまらない。そういう全部の解答を原初的な宗教はあらかじめ凡夫のために示しておいてくれた。本質はつまらないが、だからといって腹を肥やすことや儲けることや名声を求めることなんぞもっとつまらなく際限がないからやめておけと。2000年も前の話だ。それだけの時間があったにも関わらずどうだ、この世界の有様は。

すべて自らの腹を満たすためだけにわずかなパイを奪い合い殺し合うばかりの人々。俺はあいつより稼いでいる。あいつより偉い肩書きがある。あいつより尊敬を集めている。そんな争いばかりだ。それが本当に楽しいか、問うてはいけない。みんな夢中でやっているんだから水を差してはいけないのだ。裸の王様であろうがなんだろうが、「王様」という肩書きが欲しいのだ。本質?そんなもの肥だめにでも捨てておけ。足を引っ張り合い、互いの尊厳を踏みつけ合い、汚い言葉を浴びせ合い、上辺だけの価値に溺れる。2000年、1ミリたりとも前進しなかったんだぜ人類。月に行こうが、癌を克服しようが変わることなくずっと醜い最悪のケダモノ。それが俺たち。

本質を問うことには本当に意味が無い。本質?本質ってなんだ?それを理解すればパリピになれるのかい?なれねえよ。何でも無い景色が虹色に輝くのかい?輝かねえよ。全部は手遅れ。手遅れなんだと言ってまわる意味も無いくらい手遅れ。腐りきってボトリと落ちる。この世界に生きることとは地面に落ちるまでの時間のことでしかない。お疲れさま。お腐れさま。

 

もういい、もういいぜ

諦めなければ夢は叶うと大勢の前で語る人は夢が叶った人でした

諦めなければ病気は治ると大勢の前で語る人は病気が治った人でした

生きていればいいことがあると大勢の前で語った人は生きていていいことがあった人でした

イルカは溺れた人間を助けてくれると大勢の前で語った人はイルカの気まぐれで陸の方へ突つかれた人でした

 

諦めなかったのに夢が叶わなかった人はどこへいったのでしょう

諦めなかったのに病気が治らなかった人はどこへいったのでしょう

生き続けてもなんにもいいことがなかった人はどこへいったのでしょう

イルカに沖の方へ突つかれた人はどこへいったのでしょう

 

そんな欺瞞ですらもはや苛立つほどのことじゃない

ただの広告の一部

スイスで安楽死をすることを選んだ人は「もういいかな」と言いました

この世、この世

 

執着が不幸を生み出してそれは止まることはないこのせかいに

音と光だけがときに美しく鳴り響いて

 

花を買ってしおれていくこと

増えてしまったゴミをすてること

繰り返していくそれに疲れた

もういい、もういいぜ

 

そんなになってまで誰かに尊敬されたいのか

欲望がうずまいて 音も光もかき消された

それでも踊る人たち ほとほと疲れた

もういい、もういいぜ

それさえ

 

大きなナイフが空から降ってきてこの首に刺さればいい

音 光 音 光

 

GRAPEVINEというバンド、すべてのありふれた光

こないだ俺は37歳になった。こう書いていてぞっとするほど完全なる中年、オッサンだ。白髪が増えた。腹も出た。俺が好きな映画「ソフィアの夜明け」の俳優フリスト・フリストフが死んでしまった年齢に追いつくところだ。世のオッサンの多くがそうであるように、俺も例に漏れず今どきの、流行りの音楽を追えなくなって久しい。若いヤツがみんな同じ見える、などとは言わないが。さすがにあいみょんと米津玄師の区別はつく。しかし単純に新しいものを知るエネルギーがないんだ。若いときは何でジジイやババアは昔の音楽を繰り返し聞いては「昔はよかった」みたいなことを訳知り顔でのたまうのか不思議に思っていた。単純に昔の音楽より今の音楽のほうが進歩しているしいいに決まっているだろうと。しかし自分がジジイにさしかかった今はわかる。単に新しいものを知って、受け入れるのが面倒くさいんだ。若いときはそれがデフォルトだから気付かないが何かに興味を持って受け入れるのにはエネルギーが必要で年を取るとそれが著しく減退する。それに加えて感性の柔軟さとか好奇心も萎えていく。なので自分の既知の範囲で完結したがる。そのほうが楽だから。年を取ると言うのはどうしようもないことだ。うすうす感性の死んだ自分に気付きつつも、まあいいかで過ぎていく連続だ。

そんなオッサンな俺だが高校生のころからずっと聴いているバンドがある。GRAPEVINEというバンドだ。高校2年のとき読んでいた桜井亜美という人の小説にGRAPEVINEの「そら」という曲の歌詞の一節が引用されていた。

「夢みたいな 夢でもない様な日は流れてく 無駄に身を焦がしたって 残ってく物何一つだって 君はずっといつかの空の色 見とれてた 風にその胸を張って さらに舞上がるんだってさ」

GRAPEVINE - そら - YouTube

その歌詞が気になってアルバムを探した。近所のCDショップには「そら」が収録されたアルバムがなかったので、そのとき発売されたばかりだった「Lifetime」を買った。1999年のことだ。それを聴いてなにかドラマチックな衝撃があったわけではない。ふうん、といった感じだった。「スロウ」と「光について」と「望みの彼方」がいいなと思った。それと何について歌っているかよく分からない歌詞が好きだなとは思った。世の中には恋愛ソングが多く、当時モテないごくありふれた暗いいじけた高校生だった俺はイマイチそういう曲に共感できていなかった。GRAPEVINEというバンドはボーカルの田中和将がすべての作詞をしていて、曲は田中を含めてメンバー4人全員がそれぞれに作るというバンドだった。それには驚いた。そのとき他に聴いてたバンドといえばMr.Childrenスピッツで、どちらもボーカリストが作詞作曲をすべてやっていた。俺はバンドとはそういうものだと思い込んでいた。「Lifetime」を聴き続け、いつの間にか気に入っていたのだろう他のアルバム「覚醒」「退屈の花」を買い、当時わりと音楽雑誌にも特集されていたりテレビに出たりもしていたので、それらを追いかけるようになった。田中和将のルックスも好きだった。いわゆる整ったイケメンとは違うが男から見ても色気みたいなものがあった。

あるときロッキンオンジャパン田中和将のロングインタビューが載っていた。田中はかなり複雑な人生を歩んできたようだった。そういった少年時代だからこそ捻くれた視点の歌詞を書くのか、と勝手に納得したような覚えがある。まあ実際には複雑な人生を送ったからいい詩が書けるなんて都合のいい方程式はないのだろうけども。田中自身は「歌詞はメロディに乗ったとき気持ちのいい響きの言葉を選んでいるのであって詩ではない」みたいなことを言っていた。とはいえ、当時いかにも暗い10代の少年らしく、生きていることに悩んでみたりしていた自分にとってGRAPEVINEの詩はひとつの支えだった。

「何もかも全て受止められるなら 誰を見ていられた? 涙に流れて使えなかった言葉を 空に浮かべていた いつもいつも 心はただここにあった」(光について)

「この手は今何が出来るんだっけ? 諦めた事など無かったが 繰り返す新しい言葉で また何か失ってくよ」(羽根)

当時音楽雑誌などでも「田中の詩は文学的だ。老成している。」と評価されていたが、たしかにこういう言葉を25歳かそこらで歌っていたのは驚きだ。「Lifetime」の曲などは最近の田中が歌っているのを見て「ようやく曲とバンドの年齢がフィットしてきたな」とすら思う。

GRAPEVINE - 光について (J-WAVE/Hello World studio live) - YouTube

だからこそ高校生からオッサンになった今でも聴いていられる。20年前の曲を今聴いても古く感じない。まあそれは俺の感性の問題かもしれないが。ある種の普遍性を持っているバンドだと思う。若いときに聴けば若いときなりに何か感じるものがあるし、年を取って聞き直してまた思うことがある。そういう魅力があるバンド。2002年にベースの西原誠がジストニア(中枢神経系の障害)でベースが弾けなくなり脱退するという出来事もあったがバンドとしては22年、ずっと続けてきてくれた。いちファンとしてとてもありがたいことだ。17歳からずっと聴き続けて、そのときどきどこか支えになってきてくれた曲たち。

「どうして誰もが急ぎ足で その次を欲しがるんだろう ここに居てはいけないかな 許されないことだろうか 矛盾はわかっている」

GRAPEVINE - 指先 - YouTube

「ここで最後のメロディーが流れたら この醒めたふりも水の泡 ここで再会するような大団円はない けど他に展開はないのかい」

GRAPEVINE -1977 - YouTube

わかりやすい励ましがあるわけではないし、露骨に絶望を歌うわけでもない。ただそこで確かに鳴っている音楽。遠いところにぼんやりとある明かりのような音。最新のアルバム「ALL THE LIGHT」には「光」を歌った曲がある。「すべてのありふれた光」

「ありふれた光はいつも 溢れるけどあふれるだけの もう一度 きみにそれが注いだなら 届いたなら 扉を壊しても連れ出すのさ」

「ありふれた未来がまた 忘れるだけの 忘れるための それは違う 何も要らない 何も無くても 意味が無くても 特別なきみの声が 聞こえるのさ 届いたのさ きみの味方なら ここで待ってるよ」

www.youtube.com20年前に歌われた「光について」とは少しだけ違う「光」の歌。救いじゃなくても、救いにならなくてもまだ音が確かに鳴っているんだと。光はここを照らすかわからない。それでもあるのだと。GRAPEVINEが奏で、田中が歌っているんならもう少しやっていくかと思える。俺にとってはそういうバンドだ。それが希望じゃなくても、できればもう少し。