火宅

2020年になった。今年も前澤友作氏はお年玉企画とやらで、総額10億円をプレゼントするそうだ。氏が自ら「前代未聞の歴史的な社会実験」と銘打って100万円が当選した人の人生にどう影響するかアンケートを取るそうだ。社会学者や経済学者の協力も募るとのこと。先ほど確認したところ413万人もの人が応募している。すごいね。

前澤友作氏のツイッターフォロワー数はいつの間にか有吉弘行氏を抜いて日本人でトップになっている。これが個人的には残念だ。まったく役に立たない情報しか流れてこない有吉氏のアカウントが日本では一番人気、という意味不明の状態のほうが何かが健全だったような気がする。「金という極めてわかりやすい利益」を生むアカウントが一番になってしまったのは何となくつまらない。まあそれはいいが。おれは10億円をプレゼントする「社会実験」とやらよりオバショットの方が面白いと思うだけだ。

ちなみにおれはこの企画に応募していない。端的に前澤友作氏が嫌いだからだ。その辺に落ちてる100万円なら欲しいが不愉快な相手からは別にもらわなくていい。それなら宝くじを買う。システマチックに、無機質にもらえる金ならいいが前澤友作氏のフィルターを通した金はもらうのをためらう。それは何故か。10億を配るのも、バスキアの絵を買うのも、社長を退任するのも、宇宙へ行くのも、芸能人と付き合うのも別れるのも、勝手にやればいいのだが、なぜ前澤氏はいつも自分の「顔」と「キャラクター」を前面に押し出すのだろう。社会実験は社会実験そのもののためにやり結果を得ればいいので誰がやったかはさほど重要でないはずである。それなのに今回の応募のためには「前澤氏のツイッターをフォローする」ことが必須条件になっている。これには違和感がある。以前の記事で落合陽一氏について触れたときも似たことを書いたのだが、もしかして本当のところは「自分を中心とした宗教的共同体=自分を肯定してくれる味方だけで構成された集団」を求めているだけなのにそれを全面に出すと下品に見えるので「社会のため、人の幸福のため」という建前を使っているだけなんじゃないかと。前澤氏にはそういう自意識の匂いがしていて拒絶を感じる。

が、もちろん世間一般の目はそうではないのだろう。前澤氏のお年玉企画のツイートにぶら下がっているリプは、素直に切実に100万円を求める声に溢れている。というか前澤氏は応募はフォロー&リツイートのみで完了で、当選者は恣意的なものでなくランダムに選ぶとYoutubeで宣言しているのになぜリプで「こういうことに使いたいです!」と宣言しているのかそもそも謎だが。

「個展の資金にしたい」「親に恩返しがしたい」「ゲームに課金したい」「病気の治療のために」「奨学金返済のために」「海外旅行のために」

なるほど応募する人の多くが100万円の使い道を現実的な範囲で決めており当選すればきっと「幸福度が上がる」ことは間違いない。ここにこの企画のいやらしさというか、出来レース的な計算がある。つまり当選発表やアンケートなんぞ本質的には必要ではなく、「100万円あれば幸福になれる人を集め実際に100万円を配ることで他者、社会をよりよくした前澤友作氏」像は今の時点ですでに約束されているのである。今から数週間後、数か月後に前澤氏が語ることは決まっている。「ほとんどの当選者の皆さんの幸福度は上がりました。この企画を実行してよかったと思います。この先も社会をよりよくするためにできることを考えていきます」そうして、前澤氏支持者の信頼を確固たるものにしていく。そうして確立した地位を利用して次に何をしたいのか、あまり想像したくない。人心を集めひとつの方向へ導こうというのは大抵ロクな結果を生み出さないからだ。また、前澤氏が繰り返す「社会実験」という側面から見ても今回の企画はそれほど「前代未聞」ではない。ベーシックインカムが受給者の精神的な余裕をもたらし幸福度が上がるという実験結果はすでにフィンランドで出ている。まあ1000人もの人に配れば今回の当選をきっかけにいずれ有名になるほど大成する人もわずかにはいるかもしれない。そうすれば前澤氏にしてみればしめたもので、「あの時の当選のお陰で今の自分がある」とでも語ってくれれば前澤氏の社会的地位はまた強固になっていく。(去年の1億円プレゼント企画に比べ)当選金額を上げずに当選人数だけを増やしたのは、そういう意味の先行投資だという見方もできる。

それにしても、前澤氏の行動そのもの、前澤氏へのリプライを読むにつけ、この社会は世の中はつくづくポジティブな思考を疑いなくキープできる人間たちのためにあるのだと思い知らされる。「100万円当選したところで人生が1ミリも好転しない人」なんて存在していないかのようだ。たとえばおれは重度のうつ病で100万円もらったところで病状は改善しないことはわかりきっている。同じような境遇の人はそれなりにいるだろう。しかし「100万円で多くの人の幸福度があがる」という統計とシナリオの前ではそのようなマイノリティはひとまず「ないこと」とされる…まあそんなことはいいんだ。すべて世の中はこういったものだ。

辻潤の文章に

”真理とか真実というものはあまりに平凡で日常目の前に腐る程ころがっているので、人は最早それには見向きもせず、あり得ないなにか珍らしく新しいものを探しまわっているらしいが、そんなもののないこともあまりに当然で、よしそれが新しく珍らしく僅かの間見えるにしても元々種は同じ外見だけが一寸そんな風に見えるだけなのであるから、すぐと飽きてしまうのはわかりきった話である。わかっていながら、なにかそんな風のものがあるようにしきりと鐘太皷で囃し立てているチンドン屋のような商売に従事している人達は、生きるためには義理にもそれを繰り返さなければならないし、またみんな人間はだれでもそれを一方で喜んでいるのだ”

というのがある。

前澤氏は新しく珍しく見える「イリュウジョン」を提供し、それを必要とする人が集まり熱狂している。ただそれだけのこと。しかし辻潤

”イリュウジョンのまったくなくなってしまった世界は最早人間の生きていられない世の中で恐らく「月世界」の如きものになってしまうのであろう。”

とも書いている。これ見よがしに「イリュウジョン」を振りまく前澤氏が月世界に行こうとしてるというのも何か皮肉のような滑稽な話だ。そんな火宅でやっていくのにいつまで経っても慣れやしない。100万円はいらねえ、何が必要かと言えばもっと強烈に頭を感覚をマヒさせる薬でも草でもください。オアダイ。