「無敵の人」はぜんぜん無敵ではないという話

無敵の人、とはじめに言ったのは2ch開設者ひろゆき氏だったとか。無敵の人、要は何も失うものがない人のこと。恋人も友人もいない、家族がいない、いても疎まれている、仕事もない金もない趣味もない人。そういう人が起こす犯罪が何度もあった。最近では川崎市で19人が刺された。これからもそんな事件はまた起こる。そんな無敵の人に対する世間の議論も出そろった昨今。いやはやしかし、ひろゆき氏は「キモくて金のないおっさん」にウサギをくばれなどと捨て鉢なことを言う。ウサギを飼うことで義務感や達成感を得られるということか。案外効果があるのかも知れないがとにかく何か「こんなもんでいいでしょ」的なスタンスにも見える。

一方、相も変わらず「死にたいなら一人で死ね」と言う人もあとを断たない。気持ちは分かる。罪もない人を殺して犯人は自殺した、というニュースを聞けばまず脊髄反射的にそう思うのは普通のことだ。ごくありふれた、それなりに恵まれた環境に身を置く人間の感想だ。だからこそ、そんな一言で終わらせるのではなく、思考停止することなくその先を考えなければ世の中の風潮はよくならない。そういうカウンターとしての発信も増えてきている。

単に「死にたいなら一人で死ね」と言わなければいい、ということではない。なぜ無敵の人は、犯人はそこまで追いつめられていたのかを想像しなければならないのだと。川崎の事件の犯人の部屋からはとくに異常性のある物証は見つからなかったようだ。せいぜいゲーム、いくつかの外国で起きた猟奇殺人についての書籍が見つかった程度。そんなものなら多くの犯罪とは無縁の普通の人でも所有している。

たとえば「犯人は猟奇殺人の映画と書籍だけを大量に所有し、自ら宗教めいたものを生み出しそれについて書き貯めた支離滅裂な内容のノートが500冊出てきた」とかであれば、ある種安心する人はたくさんいるだろう。マスコミもそのほうが報道的においしいと思うんだろう。しかし事実はどうやら違う。川崎の犯人はごく普通の人だったのかもしれない。そのことを出発点として想像し世の中全体としてどう対応していくべきかを考えなければならない。「死にたいなら一人で死ね」としたり顔で何か言ってやったつもりで終わりにするのなら、無敵の人は増え続ける。

 

そもそも、無敵の人は実はなんにも「無敵」ではない。マリオでいうところのスター状態とはほど遠い。ひろゆき氏発の理論だと無敵=何も失うものがない人だ。しかし何も失うものがないとは本当のところ「心の支えがない」「依存先がない」ということだ。成熟した、余裕のある大人になるということは本来依存先が沢山ある状態のことをいう。ほとんどの人間は、何かを心の支えにし依存して生きている。家族、恋人、友人、社会的地位、肩書き、成功体験、宗教、お金、酒、おいしい料理、ペット、好きなアイドル、好きな音楽、好きな小説などなど。人間は自分だけで自分の存在や精神を支えられるほど強くできていない。意識的、無意識的に関わらず何かに依存し支柱とすることで生存していけるだけの精神力を保っている。依存の理想形は「依存先はできるだけ多く、依存度はなるべく浅く」だ。依存先はある日突然消えてしまう可能性がある。家族や友人の突然の死、恋人に振られる、職場をクビになる、応援していたアイドルが引退する。そうしたときどれかひとつに深く依存していると心身のバランスを崩すこととなる。だから依存先は多いにこしたことはない。しかし、いわゆる無敵の人にそのどれもが無い。あるいはすでに失われている。今、ごく普通に暮らしている人でも「すべての依存先が失われた状態」に陥り、しかもそれが長く続けば己をニュートラルな状態にたもつことは難しいだろう。何も失うものがない人とは「無敵」とはほど遠い、寄る辺もなく精神がこわれそうな人のことだ。そういった人に「死にたいなら一人で死ね」と言う言葉を叩き付ける、それは人を刺すのとは違うがやはり暴力に違いない。

また「無敵の人」は単純に死にたい訳ではないと思う。どうしたらよいかわからない混乱、社会への疎外感、怒り、うまく世を渡っていける人への羨望や嫉妬、消えてしまいたいという思い。いろいろな感情がない交ぜになっているはずで、今回の事件のように一貫性がない行動として出てきてしまう。そしてそれに対して簡単に解答したり対策をしめすことができない。

今の日本には自己責任論が蔓延し「無敵の人」に対しそいつが望んでそうなったんだろう、無能だからそうなった、努力が足りなかった、と追いつめる風潮が多く見受けられる。しかし想像すべきだ、「自分がそうならなかったのはたまたま運がよかったからかも知れない」「自分もそうなっていたかもしれない」「自分もいつああなるかわからない」己がその立場になったらどうなるか思索する。それが理性というものだ。そして人間に理性があるというなら、その人個人がどういう人間であるかに関わらず打ちひしがれ追いつめられている人がすこしでも救われる社会を目指すべきではないのか。その一歩として、まず「死にたいなら一人で死ね」や「無能だから社会でうまくやれないんだ」という言葉になにか意味があるのか、それによって社会はよりよくなるのかそれを発信する前に考えてほしい。「無敵の人」という事実と剥離した呼び方もやめたほうがいい。せめて何ももたない、もつことがかなわなかった人が今以上に追いつめられないようにと願っている。