ポジションを得なさい、そうしなければ死ぬのだから

ポジション【position】

1、位置。地位。

2、スポーツにおける競技中の選手の定位置。野球における守備位置など。

 

日本ではポジションという単語が妙な使われ方をしている。

芸能界を語る人がよく「○○のポジションは××が奪った」などと言ったりする。

例えば「マリエのポジションはローラが奪い、ローラのポジションは今や滝沢カレンが奪った」とか。この場合「ポジション」という単語が指しているのもは野球の守備位置などではなく「バラエティ番組に対応できる面白ハーフタレント」といったところだ。

芸能界で「バラエティ番組に対応できる面白ハーフタレント」は一人だけでいい、と別に取り決めがあるわけではないだろう。が実際に今テレビをつけバラエティ番組をいくつか観ると「面白ハーフタレント」ポジションとしては滝沢カレンばかりが出ている。日テレのバラエティに滝沢カレンが出ていて、一方TBSのバラエティにはローラが出演している、ということはほぼない。

出演者を決めるのは番組スタッフだろう。例えばトークバラエティの企画があったときにどのポジションに誰を当てはめるかを会議などで決めているはずだ。司会者というポジションは誰々、中堅芸人は誰々、若手芸人は誰々、ママタレは誰々、俳優は誰々、大御所は誰々など。そしてそこに「面白ハーフタレント」も入れようとなった際に今一番キテいる、乗ってる、流行っている、あるいは番組が面白くなるであろうハーフタレントを使うのだろう。企画の内容にもよるだろうが大抵の場合「面白ハーフタレント」は一人でよい、となる。キャラがかぶる、つまりポジションかぶりのタレントを呼ぶとお互いがぶつかり合い面白さが発揮されないおそれがある。自然と必要とされる「面白ハーフタレント」はごく少人数になる。そうした中、今多くの番組に呼ばれるのが滝沢カレンであり、彼女が「面白ハーフタレント」ポジションを確保している状態なわけだ。

しかしこの状態がこの先ずっと続く保証はない。人気が落ちる、不祥事を起こす、出産などで長期の休暇を取る、 様々な理由でポジションを追いやられるときがくる。そうするとまた別の誰かが「バラエティ番組に対応できる面白ハーフタレント」ポジションを奪うのだ。芸能界で一度ポジションを失うとまず戻れることはない印象だ。そうしたとき別ポジションを確保することで芸能界に生きのこる人もいる。例えば小倉優子こりん星から来た「バラエティアイドル」から「ママタレント」にポジション替えを成功させている。一方でポジションを追われそのままメディア出演がなくなる人もいる。いわゆる「消える」というやつだ。これは何とも残酷な言い回しだ。実際にはその個人は生きているのに、まるでこの世から「消えてしまった」と印象づけられてしまうわけだ。実際問題、芸能界ではポジションを失うと収入が激減し芸能界を去らざるを得ないのはおそらく本当の事だ。そうではない人は、いわゆる「テレビタレント」でなくなっても「営業タレント」や「CMタレント」としてうまくポジション替えをしているのだ。

かつてナンシー関和田アキ子を『芸能人ではなく「芸能界」人』と評した。もともと「芸能人」とは「芸能に長けた人」の意だろう。しゃべりがうまい、歌がうまい、何かしら特殊技能に長けている人。和田アキ子は肩書きは歌手であろうがそれほどヒット曲があるわけでなく、しゃべりも特に上手い訳ではなくむしろ下手なほうだろう、傘の上でボールを回したりもできない。しかし、本人の自覚的なのかどうかともかく「ポジションさえ得てしまえば芸能界でやっていける」を体現している人物ではある。芸能人の不祥事に何か一言物申し、後輩たちに圧をかけ大物ぶるゴッド姉ちゃんとかいう謎のポジション。先に芸能界がなければ存在しない立ち位置、芸能界の構造をうまく利用したポジションに立っているが和田アキ子だ。和田アキ子を先駆者に今やテレビはほどんど「芸能界」人に埋め尽くされているが、まあそれはまた別の話だ。

「ポジションさえ得れば生きていける」とか「ポジションさえ得れば能力の高低に関わらずえらそうにできる」というのは何も芸能界に限った話ではなく、この社会のあらゆる共同体において常にそうだ。コネクション、売名行為、単に年長者である、など能力以外でポジションを得る人は多い。社会的にいいポジションを得るとその人の能力が上がったわけではなくてもグッと生きやすくなったりする。何もしなくても仕事が入る、給料があがる、他人がチヤホヤしてくれて承認欲求が満たされる。なので、誰しもがよりよいポジションやまだ誰もそこに目を付けていないポジションを求め右往左往している。某銭湯絵師見習いの人もそういう新しいポジションに付くことを目論んだのだろう。容姿端麗でモデルもこなしながら今や珍しい銭湯絵師を両立、あわよくばオリンピックにも関わることができる有名人ポジション。本人の意思だったのか、彼女を利用して儲けようとしたナーニカの計画だったのかは知らんが。何故そんなに誰もが必死にポジションを求めるかといえば、現状の社会においてポジションに付かなければ生きていけないからだ。

就職活動とは要はポジションを得るための活動だ。労働者としてのポジションを得る、そうして糊口をしのぐ。起業も同じく経営者ポジションを得るための活動。最近はYoutubeSNS等を利用してポジションを得る人も多い。ともかくポジションを得なければ生活していけない、つまるところ金にならない。そこから脱落した者には惨めな生活とやがては死がまっている。年老いたオスライオンが若いオスにハーレムを追い出され、行き場もなく死ぬように。人間は自然とそういう社会を形成するいきものなのだ。所詮この世は弱肉強食、ポジションを追われ弱りきった者に人々は目を向けない。自分が生きるだけで精一杯だ他人にかまっている暇はない、自己責任だ、社会についていけないバカは放っておけ、と。

人間には理性と知恵があるのだというのだ。それが大脳新皮質の働きなんだと、みんなそういうふうに教わった。そういうことになっている。ところがだ、なんだコレはこの社会は。絶え間なく生き残るためのポジション争いを繰り返し、脱落し死に直面するものを見捨てる。動物や虫とやっていることは変わりがない。生存本能のまま、たまたま社会を構成しているにすぎない。放っておいたら自然とそうなってしまうこと、に対して抵抗することこそが理性や知性というものではないのか。そんなもの見あたらないではないか。かく言うおれもどこか遠い国で飢えている子供を見て、なんとかしなくてはなんて思わない。それより自分がどうなるかわからない、生きていくポジションを得なければ、どうすればどうすれば。その不安と不満で埋め尽くされている。

マザー・テレサの言葉には意味がない。マザー・テレサが人を許せるのも、やさしくできるのも生きているうちにに世界的な尊敬を得たからだ。人間社会において素晴らしいポジションを得ることの大切さ以外は伝わってこない。

マキシミリアノ・コルベの行動には意味がある。マキシミリアノ・コルベは戦時下の強制収容所で妻子ある男性の身代わりを申し出て餓死刑に処された。死の間際まで他の囚人を励まし祈り歌い続けていたという。社会に見捨てられ死を目前にして、もう何も得るものもないときに人間の知性と理性が唯一わずかにひかっていたのだ。そして、当然それは簡単にたどつけるものではない。

人間は、社会は、まだ知性と理性を獲得してなんていないのだ。知性や理性があると思い込んでいるだけだ。おれたちは弱肉強食の愚かな醜いいきもの。そういう自覚をもっていきていかなければ。知性と理性を獲得できたらようやくポジション争いなんてなくなるのに。しかしそんな日はあまりに遠い。自分をみればそれはよく分かる。明日をどうすればどうすれば。そればかり。