支持してくれる人たちを鏡にして自分を見たら終わり、という話

昨年末にフォークデュオゆずのお2人が「今後の活動について重要なお知らせがあります」と予告し結局弾き語りドームツアーの発表だったことで、ファンの間でいたずらに不安を煽るようなことをしないでほしいとこんがりと炎上したようだ。

本人たちからすればユーモアのつもりだったのかもしれない。北川氏は発表の生放送で「ざわざわしただろ〜」としたり顔だったそうだ。

しかしこの手法、ファンではない人間から客観的に見て何にも面白くないしユーモアセンスもない。本人たちやスタッフが少しでも昨今のSNSを取り巻く状況や時代の風潮について考えていれば、ごく普通に発表したほうがよい、ということなどすぐに想像がついたはずだがそれがなかったのだろう。ゆずのお二人はこういった行動が「ユーモアのある面白い行動である」と信じて疑わなかった。

それはおそらく彼らは常に「自分たちを支持してくれる人々」しか見ていなかったためだろう。コンサートを開く、満員の観客から声援が飛ぶ、そこにいる全員が自分たちの味方で間違いない。歌はもちろんのこと、MCひとつでも嬌声を上げ喜んでくれる。どんなにつまらない話をしてもとりあえずファンだから笑ってくれるしいいリアクションをくれる。爆笑、拍手喝采。結果自分たちが面白い、ユーモアに溢れる人間だと思い込んでしまう。

こういったことはゆずのお二人が特別に思慮の浅い人であったというわけではない。人間の習性とは常にそういうもので、己を支持してくれる集団に囲まれると本来の自己像を見失うものなのだ。

 

話は飛ぶが「もののけ姫はこうして生まれた」というドキュメンタリーを観たことがある。ジブリ映画「もののけ姫」がどのような行程を経て完成したのかを追った映像作品だ。宮崎駿氏の着想から絵コンテを生む苦悩、作画での試行錯誤、アフレコにおけるこだわりなどが垣間見える良質なドキュメントだった。その中で宮崎駿監督がふとつぶいやいた言葉があった。「自分を支持してくれる人たちを鏡にして自分を観たら終わりですからね」

もののけ姫以前のスタジオジブリのイメージと言えば「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」に代表される子供たちに安心して見せることのできる映画。情操教育に良いアニメ、のようなイメージがあった。それが世間には安定してウケるのだろうということは宮崎氏本人にも分かっていたはずである。が、もののけ姫で挑んだ世界観はそういったイメージとかけ離れたものであった。主人公アシタカはタタリ神の呪いを受け余命いくばくもない、しかも呪いにより故郷を追い出されてしまう。その呪いを解くための旅の中で製鉄所という人間の生活基盤を築いたタタラ場と敵対するシシガミの森に住むサンにあろうことか恋をしてしまう。無謀にもアシタカは製鉄所の人間の生活とシシガミの森の獣たちに共存の道はないのかと問う。そのような夢物語はシシガミの森に住む大犬モロに一笑にふされてしまうのだが、それでもアシタカは諦めることなく奔走する。最終的にはシシガミの森は人間の介入により滅び人間も獣たちも全く先が見えない状況に追いやられてしまう。しかし最後にアシタカもサンもわずかな希望にかけていくのだ。滅びかけ、しかしまた再生を望むこの森に我々はどう生きていくのか、それを問うラストだった。何か正確な着地点は見えないがそれでも前に進んで行こうとする態度がアシタカとサンの会話だった。

 

もののけ姫はそれまでのジブリ映画に比べると異質な作品だ。わかりやすい希望も前向きな成長も描かれてはいない。ここにやはり「自分を支持してくれる人たちを鏡にして自分を観たら終わりですから」という宮崎駿氏の言葉の真意を思う。

己を支持してくれる、ということはそれだけで常に自分を過大評価してくれる人の目線であるはずだ。何か自分が思いもよらないすごいことを考えている、だとか。人類の行くべき先を見据えているとか。他者は常に自己像を大きく捉えてそこにある種の救いを見いだそうとしている。極端に言えば個々の中で美化された偶像でしかない。

人間とはどこかに私には分からないレベルの高い精神的感応があるとか、生の煩わしさを超えた重要なことを示してくれているとか。憧れの人や作品にそういう幻想をみてしまうものだが、多くの場合そんなものない。

人間全ては生活者で常にその煩わしさと苦悩とに振り回されている。

いかに多くのファンや支持者にもてはやされたところで人間の煩悩のくだらなさの中に生きていくしかないのが我々だということだ。

だから勘違いしてはいけない。

ファンが増えた、支持者が増えた。それがどうした。一個人の価値が上がったわけでは決してないのだ。それは有名人に突きつけられる事柄ではなく、今の時代SNSでたかだか数千数万のフォロワーがいるなか、それを根拠に自分を大層な者だとか思ったらおかしなことになるということだ。インスタグラマーだろうが、ユーチューバーだろうが、同じことだ。

ファンや支持者は己を過大に評価してくれる。お前は多くの他人より優れていると持ち上げてくれる。それを信じるのはとても愚かなことだ。そんな根拠は本当はどこにもない。

ZOZOの社長が反感を買ったのもそういうことだ。一億円宝くじなどと銘打って、金を渡す相手を選別し結局は自分を持ち上げてくれる奴らしか相手にしないと表明してしまった。こんな行為は下品だし、社会の下層を這いつくばる人間の反感も買うだろう。金を儲けたい尊敬をえたいのならこっそりとやればいい。手前の価値基準に賛同してくれる奴らをコツコツ集めればいい。自尊心を満たしてくれるだけの世界ができあがるだろう。

価値基準のものさしを他者に渡すな。それをしてしまっては不幸になるばかりだ。

それで、その程度で幸せなら非常に楽な人生だ。これだけSNSがひろがってしまった世の中だ。それを無視することはできない。

ただそれは自分の実像なんかじゃない。支持してくれる人に感謝はしよう。でもそれはただの過大評価だ。自分は大層な人物だと見失ったほうが気持ちいいことは確かだ。でもやはり己の愚かさを見失うことは恐ろしい。少なくともおれはどこまでも愚かでいい。

もう一度だけ言ってやるおれもお前もどんなにフォロワーがいようが支持者がいようが、たいした人間じゃねえ。自覚しろ。自覚していこうぜ。自己像やてめえの実像はそんなところにない。他者が勝手に美化した自己像に陶酔するな。俺たちはいついかなるときもクソだ。それは変わりないんだぜ。冷静に己の愚かさを見つめろ。自分が他者によい影響を与えるなんざ夢物語だってことくらいわかりやがれ。クソどもが。