私たちはずっとバカでこれからもバカを続けるのだということ

最近ふと本屋に立ち寄ると目立つところに平積みされている本がある。堀江貴文氏と西野亮廣氏の本「バカとつき合うな」だ。堀江氏と西野氏はこれまでそれぞれに似たような内容の書籍を出しているし、おおよそネットなどのインタビューでも同じ内容を発信し続けている。

 

端的に言えば彼らが言いたいのは「新しい時代が来ているのだからそれについていけないものはバカだ。無能だ。そんな奴らにかまうな。バカは置いて行け。行動しろ。そうでなければ生き残れないぞ」というメッセージだ。

 

各センテンスごとに「〜なバカ」というタイトルを付け続ける徹底ぶり。最終的には「僕らだってバカなんです」という虫酸が走るいやらしいユーモアも忘れない。(自分たちは気鋭の才能だと思っているくせにこういうタイトルをつけやがる)

 

ある時代の思想や凝り固まった機構を旧態依然として無意味でバカなシステムなんだ、と断言してしまう動きというのは今この現代にはじまったわけではない。

 

近いところで言えば戦中戦後がそうだった。戦中の極端な教育を取り出せば米英は鬼畜であり、捕まったら命無し。捕虜になるくらいなら自害せよ。一億玉砕の覚悟と精神で挑めば竹槍で爆撃機も落とせよう。

 

今でこそ大国の圧倒的物量に精神で勝てるわけがないことは明白であるが、おおよその国民を騙してきた大本営発表である。しかしまたある程度のインテリ層では軍部の暴走を理解していたはずである。

 

同時に日本国民に全体に刷り込まれていた最悪の事態として「戦争に負ければ日本という国がなくなる」という強烈なイメージがあった。進駐軍の占領があり、文化ですら蹂躙されるのではないかと。

 

ところがなくならなかった。敗戦後多くの植民地を失ったものの軍部が、国民が極端に怯えた国家崩壊にまではいたらなかったのだ。

 

そういった事態に直面したとき、日本のアカデミズム、インテリ層は色めきだっていたのだと三島由紀夫氏がとあるインタビューで語っていた。「新しい日本がくるのだ。自分たちの時代だ。軍閥は終わり精神的な前進、知的再建がはじまる。それを我々がつくるのだ。」と。

しかし三島氏はそれを懐疑的に捉えていた。

そして戦後20年(そのインタビューは1966年に収録されたものだった)何がおこなわれたかと言えばあくまでも戦争のない平和な時代における工業的発展、つまりは近代化と資本主義の進出でしかなかった。戦後、アカデミズムが「こうなるはずだ」と目論んだ精神的な前進、知的再建などどこにも見当たらなかったと三島氏は断じている。

 

何かしら精神的前進、知的再建のようなものがあったなら今日、日本の状況はこうではなかったかもしれない。「バカにかまうな。無能は生活に困窮して当然だ」というメッセージは理性や知性からほど遠い態度である。人間には生まれながらに能力差があり、また環境や出生によって様々なハンディキャップが生じる。それはもはや大前提であり、平等とはその差異をなきものにしようとするのではなく差異をそのままに互いの存在を認め合えないかと、肯定し合えることはできないものかと思索する道程そのもののことである。

 

しかし、少なくともこの国はその段階にさえ至っていない。「障害のある人を積極的に雇用しよう」などといかにも平等を謳ったスローガンのみをかかげ、実際には障害者の雇用率を誤魔化し「障害者など企業にはいらない」というメッセージをまき散らしている。障害があって働けない人を無理に労働に参加させること自体が個々人の差異を認めることに反していることにすら気付いていないのが現状だ。

 

話を冒頭に戻すと「バカとつき合うな」というタイトルに透けて見える「俺たち(この場合堀江氏と西野氏)が気に食わないヤツはバカだ、そんなヤツらと付き合いたくない」というスタンス。両氏がいかに俺たちこそが時代にフィットした先鋭的な思考の持ち主だと主張したところで、これはまさに精神的前進、知的再建から遠ざかるための思考である。ただただ他者の否定からスタートしてしまっては、ただの繰り返しでしかないのだ。思うに人間は何度も飽きることなく同じ道をゆき同じあやまちを繰り返すのだろうということだ。私たちは愚かでバカである、前進なんぞ実はしないのだ。せめてその自覚を持ってできれば少しだけでもバカにブレーキをかけるべきなのではないかと。そういうことだけを思うのだ。まずはバカだろうがなんだろうが全員つれて先へいってみないと何もわからない。せめてそういうバカを続けるしかない。

 

少なくともそういう試行錯誤が必要なのだと思うが、始めから(個人的な価値観で決めた)バカを切り捨てろ、という態度は試行錯誤さえ拒否した態度である。私が憎んでいるのはその傲慢さであり、堀江氏と西野氏の言うことを実践する意味は見当たらないと思う。時代についていけない他人をバカと断定するなとは言わないが、じゃあその人たちを切り捨てることとは何なのか。何をもって切り捨てたと言えるのか。そんな単純な話ではなくバカかもしれない人も賢者かもしれない人ももないまぜになって私たちは生きて行くしかないのではないか。それが社会なのではないかと。生き残るもクソもなく、選別するされるのではなく、なんとなく人間はどこまでもごちゃついた固まりとしてやっていくしかないはずである。とことん訳の分からぬほうへ行く。行くのだからバカを切り捨てようなんて偉そうなことをのたまうのはやめにしとうこうぜ。誰だって神にも仏にもなれやしないのだ。