送電線あるいは橋梁
最近どうしようもなく鬱が進行し
起きている間はほぼ自死について考える。
病院で処方された不安な気持ちを解消するらしい薬はほとんど効かない。
犬を飼っているので、一日に最低一度は散歩に出る。
そうして思うのは、
あの送電線の鉄塔に縄をかけるのはどうだろう
あの橋のたもとの出っ張りに縄をかけるのはどうだろう
ということばかりだ。
首を吊る縄を、どこにかけようか。
あまり人に見つからずに確実な高さがある
首を吊れる場所を探している。
自死ならば、なんとなく首つりかなと思っている。
電車に飛び込むのも、高所から飛び降りるのも
かなりの勇気が必要そうだ。
腰抜けの私にはたぶん首つりがいいと思う。
首をつると糞尿を垂れ流すらしいと何かで読んだ。
おむつをして実行すべきだ。
夜よりは晴れた昼間がいい。
よく晴れた気分のいい日だということが情報としてわかっても
それを気分のいい日だと感じる感性がしんでしまった。
それがとても悲しくて虚しい。
すべての日々は黒く塗りつぶされた連続でしかない。
スワロウテイルという映画で
雨の日には死んだ人の魂が雲や雨にぶつかって戻ってきてしまう
晴れた日なら天国まで昇っていけるみたいなセリフがあって
私はなんとなくそれを信じている。
せめて最期は今日はよく晴れている
遠くまで行ってみようという気分で死にたい。
…
二階堂奥歯さんのことを考える。
私はあの人のように真摯で美しい人間ではない。
けれど。
生きているふりを続けることがどれほど苦しいのか。
この世界では無言のうちに生きていることが定義されていて
そこに分類されなければ
属することができなければ
生きていけないんだろう。
狂うこともできない。
全てを失うこともできない。
それがただ悲しい。
明日と今とどちらが悲しく苦しいのか。
慰めは、いったいどれくらいこの世界での鎖としての効力をもつのか。
そう言いながらも、私はまだここに居ます。