アナウンサーは人の命の価値を他人が決めてはならない、と言った。

2018年7月26日、相模原市知的障害者施設『津久井やまゆり園』で

入所者ら46人が殺傷された事件から2年。

NHKおはよう日本「けさのクローズアップ」で特集が組まれていた。

障害者殺傷事件 被害者と家族の2年|けさのクローズアップ|NHKニュース おはよう日本

内容は被害者家族にとってこの2年間を追ったものだった。

 

ニュースの終わりにアナウンサーは

「少しずつ前へ進む尾野さんご一家の姿を見て感じるのは、

やはり、人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがないということです。

同時にこの事件をしっかり受け止めているのか、

目をそむけてはいないか、そう問われているような気もしました。」

 

人の命の価値を他人が決めてはならない

あっていいはずがない、というたしかに正しい言葉。

しかしなぜか空虚な言葉。

 

ひょっとしたら言ったアナウンサー本人も

何かむなしさを感じているのではないかと疑ってしまうほど、

それほどむなしい響きだった。

 

「ヒトノ イノチノ カチヲ タニンガ キメテハナラナイ」と

発した声がその意味をもつ前に消えてしまうような感じがした。

 

これは一体なんなのか。

 

端的に言ってしまえば、私たちを取り巻く社会が

「人の命の価値を他人が決めてはならない」という理想を

まるで実践できていないからだ。

 

それどころか

 「人の命の価値を他人が決めてはならない」というビジョンを

否定する具体的なメッセージや空気ばかりが社会には溢れている。

 

生活保護受給者に対する過剰なバッシング。

企業経営者による「能力の低い者の貧困は自己責任である」などの発言。

LGBTは生産性がない」などと発信する国会議員。

特に最近発覚した、障害者雇用の水増しについては

社会の「本音」があまりにくっきりと出ていた。

 

「社会的強者、または多数派や安全圏に属している者は

社会的弱者やマイノリティの価値を一方的に決めつけ、

無価値と判断した場合徹底して差別し、それを実行する」

「病人や障害者なんぞ役に立たないのだから、雇用するなんて到底ムリ」

いくら取り繕おうとしたところで、

社会が発する本音のメッセージはこのようなものだったのだ。

 

こうした社会に溢れる出来事と

やまゆり園で殺傷事件を起こした植松の思想は

根底ではつながっている。

 

植松は

知的障害者はいなくなるべきだ」

「人ではないから殺人ではない」

というような主張をし、

殺傷事件という極端な事件を起こしたが為に

その異常性が際立っている。

だがおそらく「殺人という行動」はしないものの

自分が「無能」「無価値」と断定した他人が

目の前で苦しもうが死のうが眉ひとつ動かさない経営者や政治家は大勢いる。

もちろん一般市民にもそういう感覚をもつ人はいくらでもいるのだ。

思想は個人の中に急にうまれるものではなく、

周囲の環境、時代の風潮や空気、得られる情報により形成されていくものだ。

そう考えたときにやまゆり園での殺傷事件は

植松が単独で起こした異常事態ではなく、

社会全体の風潮や仕組みが起こした発露なのだとも言える。

 

 

「人の命の価値を他人が決めてはならない」という言葉は

人の生死を他人が決めてはならない、という意味だけではなく

人の能力や社会的地位などによって個々の存在の価値を

上だ下だと断定してはならないという意味も含まれているだろう。

 

しかし現代の日本においてそのことは非常に難しい。

他の国のことはわからないが、少なくとも日本においては

人間を評価する基準、ものさしの種類が極端に少ない。

 

究極、「金になることをしているのか、していないのか」

という基準しかないと言ってもいい。

病気や障害で働けなかった人が就職することを「社会復帰」という。

これは暗に働いていない人(金を生み出さない人)は

社会に参加していませんよ。ということを示している。

日本における社会人とそうでない人の間には大きな意識的溝があって

社会人こそがまともなのだと、思い込まされている。

しかし、本当のところ病人だろうが障害者だろうが

子供だろうが老人だろうが

社会を構成する一員としてみれば全員が社会人である。

全員が生きている限り常に社会に参加しているはずだ。

それなのに、金を稼いでいる社会人のみが「社会に参加している人」で

それ以外の人は社会に参加できていないことにされている。

意識的、無意識的に関わらず「他人の価値を決めつけて」しまっている。

 

それでも「金になることをしなきゃダメだよ、社会人じゃないよ」と言われ

病気や障害に苦しむ人もムリをして社会に参加する。

そうしなければ自分の価値を認めてもらえないから。

お金を稼ごうとがんばる。

なのに、いざその社会から発されているメッセージは

「病気や障害のある人がまともに働けるわけないだろう。

一緒に働くなんて迷惑だ、ムリだ。」というものだ。

そうして、一度病気や障害をおった人はどんどん居場所を失って

追いつめられていく。

なんだこれは。

 

こういうことが事実起こり続けている社会の中で

「人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがない」と声に出してみても

それは当然むなしいだけだ。

 

「全員が働き、金になることをしなければならない」

という考えに固執して社会を動かしていくことにも

限界がきているのではないか。

働きたい人が経済を動かしその余力で

病気や障害を持つ人が安心して暮らせるような、

そして何より重要なのは「金になることをしない人」

を許容できる社会になっていければ。

今は病人に向かって「何故働いて金を生み出さない!」と

会社に引きずって連れて行きいざ働かせておいて

「どうして仕事がまともにできないんだ!無能が!」

と怒鳴りつけている状態でほとんど正気の沙汰ではない。

 

現代における「働いていない人」に対する扱いは

都会での「空き地」の扱いに似ている。

都会で空き地があればそれは

「金を生み出さない非生産的な土地」と見なされる。

そしてすぐにそこを

「金を生み出す生産的な土地」に変えていこうとする。

たとえば整地して月極駐車場にする。

マンションを建てて売る、貸す。店を建てて商売をするなど。

それが正しいこととされている。

 

「空き地」は確かに「金になるかどうか」の基準でみれば

「何もない」場所だが、

違う視点で見ると空き地には

色々な植物が生え虫たちが生きていてそこで遊ぶ子供たちもいる。

「金になるかどうか」の視点からは見えなくなっている、

見落としているものがたくさんある。

そしてそういう「金にならないから切り捨てた」ものが

いつか取り返しのつかない事態をまねくかもしれない。

逆に「金にはならないけどのこしておいた」ものが

社会や誰か個人を豊かにするかもしれない。

人間はそれほど賢いいきものではないで、先のことはわからない。

一方に偏るよりも可能性として様々な「隙間」「余裕」を残しておく方が

よりよいはずである。

 

「人は他人の価値をどうしたって決めたがる」

そのことはもうどうしようもない習性なのだと理解した上で

社会全体が色んな価値基準をもつこと。

一見価値がないと思うものでも許容すること、が重要だ。

 

それらを克服する画期的な社会システムなんておおげさなものは思い浮かばない。

だがせめて「金になる、ならない」とか「生産性がある、ない」という

狭い価値基準からは脱却してもいいころだ。

 

ごく個人的な話をしよう、

近所のスーパーマーケットでよくすれ違う男性がいる。

彼は全ての商品棚をさわりながら店内を周回したり、

スーパーマーケットが貸している車イスに乗って

店内を走り回ったりしている。

正直に言って私は彼を自分より下に見ている。ひどい話だ。

しょせん私も愚かな差別主義者だ。

しかし彼を見かけると「今日も元気そうでよかった」と思う。

他人を傷つけ多くの迷惑をかけてきた私より

彼のほうがずっと立派なのかもしれない。

彼が元気なことでご両親はとても幸せなのかもしれない。

 

スーパーマーケットをうろうろする人がいてもいい。

ただ道ばたで歌うだけのひとがいてもいい。

売れない絵を描き続ける人がいてもいい。

きれいな石を集めるだけの人がいてもいい。

酒を飲んでニコニコしてるだけの人がいてもいい。

 

いてはならない人なんて本当はいないはずで、

少しずつでもいろんな人を許す寛容な社会になってくれれば。

アナウンサーが言った

「人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがないということです。」というひとことが

ただのむなしい言葉の羅列ではなくてほんとうの意味をもつように。

 

社会の空気や風潮をつくりだしているのは

結局社会に生きるわたしたち全員。

つまりは

「人の命の価値を他人が決めてはならない、

あっていいはずがないということです。」

という言葉の意味を空虚なものにしてしまっているのも

まさにわたしたち自身だ。

そんな社会をほんとうに望んでいるのか。

許しを、寛容を忘れてはいけない。