潔白なお笑い

最近SNSなどで「人の容姿をいじって笑いにするのはもう古い」「そういう笑いは淘汰されつつあり新しい時代がきている」というような意見をみる。

 

まあ、そうなのかもしれない。でもなんだか違和感がある。なんだべ。

 

そもそも他人の容姿や身分や性別を理由に侮辱したり嘲笑したりする行為は許されるべきではない。それは大前提だ。

 

その上で、お笑い芸人は一般的には侮辱にあたるような行為を「笑い」に変えてきたし、変えている。だがそこにNOと言う人が多く出てきた。「笑えない」「見たくない」「差別的だ」、なるほど確かにそういった捉え方もあるのはわかる。

ではそういった笑いはすべて排除されるべきなのか。

 

まずお笑い芸人の側から考えると芸人の多くはこの「差別的」「侮辱的」な扱いを「必要」としていることは明白である。

「ブサイク」「デブ」「ハゲ」「ガリガリ

これらを自身のキャラとし、ネタとして人前で披露することで仕事を得ている芸人はかなりいる。トレンディーエンジェルがハゲネタを禁止されたら困るだろうし、アンガールズの田中さんがカニのモノマネをしても気持ち悪がるのはやめましょう、みたいな空気になったらやりにくいだろう。

 

では逆にお笑い芸人ではない人、お笑いを見る側の視点で考えるとどうなのか。お笑い芸人ではない人たち、つまり私たちは差別的な、侮辱的な表現をまったく求めていないのか。他人に対する差別や侮辱行為を排除できているのか。

昨今のSNSなどで起こる出来事をみるととてもそうはなっていない。

 

普段差別的な発言や侮辱的な行動をしないひとでも条件や環境によっては差別的な思考に偏る。たとえば、こいつは○○だから笑いものにしてもいいだろう、という条件付けがあると人はたやすく差別主義者になれる。正しい側にいるという免罪符は何よりつよい。

 

子どものいじめの多くはそういった意識から生まれる。

「あいつはキモイからいじめていいんだ」

「あいつは暗いからいじめていいんだ」

「あいつは頭が悪いからいじめていいんだ」

だがどんな理由や前提条件があっても人をいじめていいはずはない。
 

年齢を重ねようが同じようなことは繰り返される。いわゆる「普通の人」が大勢参加しているSNSで、おっさんが女性に送ったラインやメールが晒されるというのをよく見かける。個人的に送った文章を大勢の前に晒し笑いものにする。これは侮辱にあたる行為だと思うが、やってるほうにしてみればおっさんはキモイのだから笑いものにしてもいいんだ、という免罪符をもっているのでその行為に抵抗がない。
 
他にも、SNSにスーツの自撮りをアップしただけで「サスペンダーもネクタイもダサい」と晒されたツイートが数千いいねをもらったりしている。この場合も、こいつはクソダサいんだから笑いものにしていいんだという意識が根底にある。
 

どこかで誰しも差別的、侮辱的行為を楽しみたいという欲望をもっている。人間はそういうものだ。

差別意識を克服できたことなどない。そんなにすぐに高尚な存在にはなれない。

 

そういう視点で見たときに人がどうしても持ってしまう差別思想のガス抜き装置としてお笑い芸人という職業があるんじゃねえかと。

お笑い芸人だから、笑ってもいい。だって彼らはそれがお仕事で給料をもらっている。人を笑わせ、ときに自分の欠点やコンプレックスを晒し笑いものになる。あえてそうなってくれている。

 

普通に暮らしている人を笑いものにするのとは根本的に意味が違う。ただ、お笑い芸人はあえてそういう立場でいてくれているのだということを見る側は忘れてはいけない。芸人個人の尊厳を真に傷つけるようなことはすべきではない。それは芸人の笑いの範疇ではない。

 

アンガールズ田中さんやハリセンボン近藤さんは「キモイ」「ブサイク」と笑いものにされた経験を「お笑い」にすることで救われたり周囲に受け入れられたことを語っている。それを思うと差別や侮辱をやめよう、で済む簡単な話ではない。

差別や侮辱を排し、田中さんや近藤さんがブサイクをネタにしたとき「ここで笑っては差別だ」と目を伏せ黙り込むのは田中さんや近藤さんが覚悟して選択したお笑いに対してむしろ失礼にあたるのではないか。

 

一方で、渡辺直美さんのように差別的なお笑いにNOの態度を取る芸人がいてもよいと思う。

「私は容姿いじりを笑いにするタイプの芸人ではありません」と前面に押し出すのは新しくていい。ただ、その方向性が唯一正解であるように扱うのは違う。

 

渡辺直美さんのやり方が新しい時代の正解で、それ以外はダメとなってしまうと「○○さんのお笑いのやり方は古くてダメ」にとどまらず「○○さんはくだらない」「○○さんはクソ」など個人への人格攻撃に行き着くことは容易に想像がつく。言葉狩りのようになって「○○さんのあの発言は差別、侮辱に当たるのでそんなヤツは攻撃してもよい」というところまで簡単にいきつくことだろう。差別に敏感になりすぎるあまりベクトルを変えただけのまた新たな差別になってしまう。

 

渡辺直美さんのような芸人が出てきたのはお笑いの方向性が増えたということで、時代が変わった、これからはこの方向性になると言い切ってしまうのは極端な話だ。

 

ほんとうに大人から子どもまで差別的思想から脱却し、互いに侮辱することのなくなった美しい世界ならまったく差別表現の無い、侮辱表現の無いお笑いに溢れてもいいだろうが、そんな理想郷はこない。

相変わらず私たちは誰かを差別するし侮辱する。

 

ただ「お前のカニのマネすげーきもちわるいな!でもめちゃくちゃ面白いしお前のファンになった」だとか「シュレックみたいな顔ですね、でもキャラクター的なかわいさがあって好きです」みたいな侮辱と好意がないまぜになった感情もきっとある。

 

人間が捨てきれない差別を、侮辱をユーモアで乗り切ることをお笑いは示してくれていて、それでいいんじゃないかと思う。白か黒かで簡単にすっぱりとは割り切れないものを濁った灰色のままにしておく。

清廉潔白なお笑いを、少なくともおれ個人は求めていない。